山脈 7
「なりませんっ!!!」
何時にも増して切羽詰ったような声が、王の執務室に響いた。
扉の前で警備に当たる近衛兵二人も、何事かと僅かに顔を見合わせる。
王と宰相の言い合いは日常茶飯事のことなので、幾分声高な会話が聞こえるのは常のことなのだが、こんなに焦ったような宰相の声は久しぶりだった。
無礼に当たると思いつつも、やはり気になるのか二人の近衛の意識は半分ほど部屋の中へと集中している。
と、突然バタンと音を立てて彼らの背後の扉が開いた。二人は慌てて両脇に身体を退ける。
「王!お待ちくださいっ!」
「待たぬ。今日の分は終えた。」
「そういう問題ではありません!」
大股で部屋から出てきたのは、部屋の主である王その人だ。その背後から小走りで駆け寄るのは、盛大に眉を顰めた氷の宰相殿である。
「ゴウを呼ぶ。空から行けば問題ない。」
「問題大有りです!王が自ら出てどうします!?どうしてもというのなら、翼将軍がおりましょう!?」
「ライの赤竜よりも私のゴウの方が速い。」
「何をそう焦っておられるのです!?」
淡々と返される言葉に、少し苛立ったように声を荒げたコウリは、ぴたりと歩みを止めて彼を振り返ったシンに小さく息を吐いた。
コウリを真っ直ぐ見据えるシンの表情は固く、コウリとは違った焦りと苛立ちを浮かべている。
その表情を見たコウリが、訝しげに首を傾げた。
「何か良からぬことが起こる。もう曖昧な感覚ではない。」
「…予感、ですか?」
「そうだ。兎に角、リュウキを迎えに行かねば。」
「何があるというのです?貴方一人でなくとも、せめて翼竜隊から数人護衛を…。」
「いらぬ。全力で飛ぶゆえ、置き去りにする。」
意味が無い、と言い切るシンにコウリが大きな溜息をついた。
ヒリュウ国の竜騎士たちが騎乗する竜の中で、最も強く最も速く飛行するのはシンの竜であるゴウだ。彼の竜が本気で飛べば、現在所属している竜騎士たちでは追いつくことが出来ない。
普段、軽い口調で言い合いをしつつも、最後にはコウリの言葉に押され執務をこなすこの王は、時折その反動かと思うほど強引に全てを決めてしまうことがある。
シンも王としての立場はしっかりと理解しているため、国の未来に関ることを独断で決めたりはしないのだが、それにしても国王が単独でというのは頂けない。
それに城下までなら兎も角、闇の腕付近まで行くというのだから、国の宰相としては何としても引き止めたかった。
が、シンの言う予感も馬鹿にできないのは確かだ。
コウリとてリュウキが心配なのは変わらないのだから。
「ならばせめて魔将軍をお連れください!」
「ゴウは俺以外を乗せぬ。」
話は終わりだとばかりに王が踵を返す。
にべもない王の言葉に、宰相はますます眉を吊り上げると、逃がすまいと王の後に続いた。
向かった先は宰相の執務室、本来コウリが使うべき部屋で、普段リュウキが使っているところである。コウリは殆ど王を見張る傍ら仕事を片付けるので、この部屋に戻ることは滅多に無い。
シンは躊躇することなく扉を押し開き、そのままずかずかと部屋に足を踏み入れると、目的の人物に目を向けた。そのまま大股で近づく。
彼は王が部屋へ入ってくるなり、慌てて立ち上がると礼を取った。
「そのままで良い。ギィ、追跡用の魔具を借りたい。」
その言葉に、ギィは僅かに目を見開く。彼が持つ追跡用の魔具といえば、先ほど王の執務室で使った、リュウキの追跡具だ。
「は…ですが…。」
僅かに戸惑うギィは、王の後ろで溜息を吐く宰相をちらりと見やるも、その諦めた様子に言葉を飲み込み、王が請うままに己の耳に納まる赤いピアスを手に取った。
小さな赤いそれを、大事そうに両手で支えてシンに差し出す。
「無理を言ってすまぬな。しばし借り受ける。」
「はっ。」
少し申し訳なさそうなシンの言葉に、ギィは深く頭を下げた。
ギィはこの追跡具を授けられたときに、王と宰相から常に肌身離さず持ち歩くことと、何者にも貸し与えないことを約束している。その命を、王自ら破ることに対しての謝罪だろう。
その王の配慮に、ギィは僅かに戸惑いながらもシンへ対する尊敬の念を深くした。
そうして、おそらくは己の上官を迎えに行ってくれるだろう、シンに心の中で深く謝意を述べる。
王を心配しているのだろう、複雑な顔をしている宰相殿には申し訳ないが、ギィは安堵を感じていた。
――ゴオォオオウ
激しく獣の唸るような音を上げて、巨大な騰蛇の真横を吹雪を纏った竜巻が天地を無視して突き上げる。
僅かに身を傾けてそれを避けたシロは、大きな身体をくねらせて一気に山脈を下っていた。
先ほど、洞窟を離れリュウキと子供を背に乗せて、空へと飛び上がった瞬間それは始まった。
それまで魔の気の淀みもなく、普通の雪山の風景を晒していた山脈が、突然表情をかえシロたちに襲い掛かってきたのである。
山肌から離れようとするシロ目掛けて、雪を含んだ突風やら竜巻やらが次々と来襲していた。それは宛ら、彼らをその場から逃がさぬようにと雪山から伸ばされた腕のようで、次々と襲い来る風と雪に、シロは上手く山から離れることが出来ずに居た。
更に言うと、どうにも山の空気が薄く、シロの大きな翼は先ほどから上手く風を掴みきれていない。
――ちっ…面倒くせぇ!!
思うように飛べない苛立ちから、シロが大きく喚いて舌打ちした。
その間にも、雪の風はシロたちを襲う。
彼の背で子供を抱えたまま山肌を睨みつけていたリュウキが、素早く何かを呟いて片手を斜め後方へと伸ばした。
「いけっ!!」
親指と人差し指をぴんと伸ばし、雪の大地の一点を狙うように手を向けた竜姫が、大きく叫んだ瞬間、人差し指の先から真っ赤に燃える小さな炎の塊が現れる。
それはしばらく彼女の指に留まり、人の顔程度の大きさになると、彼女の指を勢いよく離れて前方に飛び出した。そのまま勢いを緩めることなく、真っ白な大地に吸い込まれていく。
炎が雪に埋もれ、視界から消えたと思うと、山肌の雪が大きく盛り上がった次の瞬間、ドオンと大きな音をかけて雪の斜面が大きく爆発した。