闇の腕 4
森に入ってもうどのくらい歩いただろうか。
“闇の腕”で最も深く最も危険な森は、奥へ進むにつれだんだんと生物の気配が薄まってきているように思える。
高い天井を思わせていた大木はある一点を越えたところから姿を消し、柔らかく地を覆っていた緑の苔も、色褪せた茶と紫色のごわごわとしたものに様変わりしていた。
空は伺えるものの、重く立ち込める霧で殆ど視界は利かず、リュウキはシロの鋭い感覚を頼りに魔の気の濃さを辿りながら進んでいる。
それでも彼女の進む速度に変化はなく、まるで全てを把握しているような足取りで先へ先へと歩み続けていた。
山脈の麓までおそらくあと僅か。
ここに至るまで、マンティコラに始まり様々な魔獣が彼女たちを襲ったが、そのどれもが二人の歩みを阻めるものではなかった。何頭かは実力差に屈し逃げたものの、撃退した半数はシロの浄化の炎に焼かれている。
霧で湿った岩を危なげなく踏みしめながら、リュウキが軽く跳躍した。そのまま前方に薄っすらと見えていた岩に、軽い音を立てて着地する。
少し歩き、少し跳んで、それを繰り返しながら足場を飛び移り進む。
しばらくすると殆どの足場が白い岩場に変わっていた。
「見事な花崗岩だな。」
「これだけあれば城下一帯改築できるんじゃねぇか?」
トントンと足元の岩を踵で叩きながらリュウキが小さく呟くと、応えるようにシロが笑った。
花崗岩という白っぽい石は、石造りを基本とするヒリュウでは最も一般的な建築材である。
その緻密な岩肌とキラキラと輝く色の粒の集合の見せる美しさが好まれており、その硬い材質も建物にはもってこいだった。
また、一年を通して殆ど気候が変わらないヒリュウの地も、この石材を使うに適していた。温度差が少ないことで、花崗岩の風化を防ぎ、長く建物を支えることが可能なのだ。
何より、花崗岩は削って磨けば素晴らしい光沢を放つ。
ヒリュウでは特に希少な岩でもないので、この地に住まう平民から貴族の住まい、果ては王城まで花崗岩を使っているが、一般の民家で使用される花崗岩が、切り出されたままのごつごつとしたものを使っているのに対し、一部の貴族や王城では研磨された光沢のある花崗岩が使われていた。
因みに、花崗岩は白っぽいといってもその色合いに微妙な違いがあり、淡い乳白色のものから僅かに桃色を含むもの、青緑の粒を含んだものなど様々だ。
その種類の多さも人気の理由の一つだった。
「まぁ、こんなトコまで入り込んで石切りをする殊勝な奴がいるとは思えんが。」
「確かに…まず軍隊でも率いてこなきゃ無利だな。」
人の手が届かないからこその絶景。
淡く煌く白い岩肌と、濃い色の苔、それを包む幻想的な霧が作り出す景色は、何人も侵してはいけない場所だろう。
なるべくこの地を崩さぬよう、リュウキは足元に神経を集中させつつ先へと進んだ。
周りの景色が岩場から岩山へと変わったことで、二人は漸く山脈の麓へ入ったことに気づいた。
どうやら魔の気を辿ってきた道は間違っていなかったようである。
ここからはほぼ山登り、否、岩登りといった方が適当かもしれない。
しかし、リュウキは怯むことなく、荷を担いだままひょいひょいと適当な岩の足場を選びつつ跳躍し、時に片手で身を支えながら登り続けた。
「おい、リュウキ。地道に登ってないで俺に乗ればいいじゃねぇか。」
いくらシロと契約して人並み以上の体力を持つリュウキとて、楽に登っているものの疲れないわけではない。薄っすらと額に汗を滲ませ始めた彼女の背後で、のんびりと翼を動かしている騰蛇が呆れたように声をかけた。
しかし、彼の声にリュウキは否やで応える。
「いい。絶壁になって登れなくなってからにする。」
登れるうちは自分で登る、と告げる彼女に、シロがやれやれと溜息をついた。
彼の主人は、普段彼をからかい扱き使うくせに、ここぞというときは過保護なくらいに気を遣う。
おそらく、今回も後の不測の事態を考え、シロの魔力を温存しておこうと思っているのだろう。巨大化して山を登るくらい、何のことは無いというのに。
寧ろリュウキ自身の体力を温存しておかなくていいのかとシロは思う。
黙々と登り続ける小さな背を見つめながら、シロは再びこっそりと溜息をついた。
リュウキがなかなかの速度で登り続けたため、そう長い時間が過ぎないうちに霧が晴れ空が見える位置まで登ることができた。
それでも、漸く目視することができた山脈の峰付近は雲に覆われ途切れている。
山肌から少しせり出た、人一人が余裕で座れるくらいの岩場に腰掛けたリュウキが、頭上を見上げて溜息を吐いた。
「…道のりは遠いなぁ。」
「だから乗れっつってんだろ。」
ふーっと長い溜息を吐いたリュウキに、シロがぽつりと呟く。
その不満げな声にリュウキが小さく苦笑を浮かべた。
「何で拗ねてんだよ。」
「拗ねてねぇよ!!」
「拗ねてんだろ?変な奴だな。」
くすくすと笑うリュウキに、真っ白な騰蛇の目元が僅かに赤く染まった。疲れを知らない翼をバタバタとはためかせて、真珠色の胴がうねうねと蠢く。
どうやら照れているらしい。
「そんなに拗ねなくても、ほら、もうそろそろシロにお世話にならないと登れないみたいだ。」
くい、と顎で示した頭上の山肌は、少しずつ白いものに覆われ、風に吹かれた雪の粒がキラキラと光を反射しながら舞っていた。