闇の腕 3
柔らかな地面を大きな爪で抉りながら獣が踏み出した。
太く柔軟な筋肉の生み出す瞬発力で、マンティコラが一気に間合いを詰める。
リュウキはぐんと腰を落として構えると、射殺すような視線を獣に向けその動きに全神経を集中させていた。
獣の喉から低く唸るような響きが漏れた瞬間、大きな口ががぱりと開いて目にも留まらぬ早さでリュウキに襲い掛かる。が、彼女は小さく息を漏らすと、獣の牙がその細い身体に食い込む寸前で素早く斜め前方に体重を移動させた。
金色の目を青い魔獣の瞳に向けたまま、その巨体の真横をすり抜けるようにかわす。
がちりと噛みあわされた牙は、彼女の長い黒髪すら捕らえることはできなかった。
リュウキはそのまま流れるようにサーベルを力いっぱい薙ぐ。赤く炎を宿した抜き身が、マンティコラの片側の脚二本を裂いた。
鮮やか過ぎるほどの真っ赤な血が飛沫をあげて大地を汚す。同時に、魔獣の口からまるで何かが破裂するような音が弾けた。マンティコラ独特の咆哮である。
リュウキはサーベルを振り抜き、その勢いのまま僅かに跳びつつ身体を回転させて獣に向き直った。
タン、と軽快な音を立てて地に足をついたリュウキに対し、深く大地を抉りながらマンティコラが胴で地を滑る。大樹の幹に背を打ち付けて止まった獣は、身を震わせながら立ち上がろうとするも、巨体を支える半分の筋肉を断たれ、真っ直ぐ立つことすら敵わない。それでもマンティコラは恨みと怒りを青の瞳に宿して目の前の標的を睨みつけていた。
「諦めて去れば、私は追わない。」
本来、殆どの獣は実力差を知らしめれば膝を屈し、従順の意を示すかその場を去る。
しかしマンティコラという魔獣は、一度これと決めた標的は逃がさず、矜持を傷つけられれば復讐を果たすまで身を削ってでも追い続ける習性を持っていた。
故に、リュウキの言葉は彼の獣に届くことはないだろう。それが解っていても、リュウキは尋ねた。
「去れ。そして生きろ」
金の瞳がひたと獣を見つめる。
しかし、マンティコラの青い瞳から怒りの炎が消えることは無かった。寧ろ、馬鹿にするなとばかりに目を細め、唸りを上げて身を低くし臨戦態勢に入る。
リュウキはそれを見つめ、僅かに目を細めると小さく息を零した。
「そうか、残念だ。…シロ、やっぱ手ぇ出すな。」
低く呟いたリュウキが、獣へと一歩踏み出す。
ひゅん、と音を立てて軽く振るったサーベルの剣先を、ぴたりと獣の眉間に合わせて斜め前方に構え、浅く小さな呼吸を繰り返しながら青い瞳を見据えた。
「行くぞ。」
声が放たれると同時に、マンティコラとリュウキが再び動く。
今度はリュウキも強く足を踏み込み前方へ駆け出した。
二つの影がぶつかる瞬間、裂けた足から血が噴出すのも構わずマンティコラが大きく前足を掲げる。そのまま鋭い爪が、小さな黒い影を引き裂こうと振り下ろされた。しかし、それを紙一重で避けたリュウキが、ぐっと膝を曲げて一気にマンティコラの頭上まで跳躍する。
そのまま宙で身を捻りながら、獣の大きな両肩の間に着地し、リュウキはサーベルを両手で握り締め大きく振りかざした。
赤い刀身が真っ赤な毛皮に吸い込まれようとした、その瞬間。
「…っ!!…ちっ!」
リュウキの右足に先端の千切れた尾が巻きつき、そのまま背後へ引き摺られた。
身体を支えていた足をとられて、リュウキの身体が大きく前方に傾く。しかし、彼女はすぐに上半身を捩ると身体を返し、尾の力に抵抗するため自由な左足で踏ん張りつつ、片手で獣の真っ赤な毛皮にしがみ付いた。そのまま反対の手でサーベルを握りなおし、風を切る音を立てて横に振りぬく。
長いマンティコラの尾が血飛沫を上げて飛ぶと同時に、獣の短い咆哮が森に響いた。
再び身を返したリュウキが、右足に巻きついたままの尾を払ってマンティコラの肩まで駆け上がる。
それに気づいた獣が彼女を振り払おうと首を振った瞬間。
――ザシュウッ
肉を断つ鈍い音と共に、巨大な獣の項を鋭い一閃が走った。次いでマンティコラの背から、リュウキが軽い跳躍で離れ地面に降り立つ。
彼女の足が地面につくと同時に、マンティコラの項からぶしゅっと音を立てて大量の血飛沫が上がった。飛沫を上げたままマンティコラの巨体が大きく横に傾く。
それまでの素早さが嘘のようにゆっくりと倒れた魔獣は、地響きを上げて地に伏した。
泥で汚れた毛皮を中心に、真っ赤な血溜りが勢いよく広がっていく。
青く宝石のように輝いていた瞳は、既に生の光を失い濁り始めていた。
じっとそれを見つめていたリュウキが、大きく息を吐き出しながら、握り締めたサーベルを軽く振るう。
ひゅん、と音を立てて振るわれた刀身から、真っ赤な獣の血がぴしゃりと飛んだ。
懐に忍ばせていた布を取り出し、鋭く光る刃に付着した血を拭いながら腰の鞘に愛刀を納める。
リュウキは動かなくなったマンティコラから視線を外さぬまま背後の騰蛇へ声をかけた。
「…シロ。頼む。」
「おう。」
リュウキの声に応えながら、少し離れて見ていたシロがするすると空中を這うように飛んでくる。そのままかぱりと口を開くと、小さな陣から真っ白な炎が飛び出した。
シロの使う真っ白な炎は、焼かれたものの骨まで焼き尽くし浄化する。煙すら上げず真っ白に焼き尽くされる様は、神秘的ですらあった。
地面を抉っていた大きな巨体が白い炎に包まれ消滅するまで、そうかからなかった。
「ありがとう。」
「礼を言われる程でもねぇよ。」
「いや、私の炎じゃこうはいかない。」
リュウキの操る炎は、シロと契約していることもあり通常の術師が使う炎よりもずっと威力はあるのだが、如何せんシロの扱うものには到底敵わない。
大きな魔獣の強固な骨まで焼き尽くすには、彼女の炎では荷が勝ってしまうのだ。
今まで多くの命を屠ってきた。
獣だけではなく、人も殺めた。
もういくつの命を奪ったかも覚えていないし、これからも奪い続ける自分はいつか今日のことを忘れてしまうのだろう。
それでも、とリュウキは思う。
それでも、奪ったその時だけは、奪ったその瞬間はしっかりとそれを見据えていたかったし、出来ることならしっかりと弔いたかった。
たとえそれが、自己満足だとしても。
だからリュウキは逸らさない。己が奪うその瞬間の、命の炎が消えゆく瞳から。
怒りも恨みも悲しみも、全てを受け止めるために。
全てを踏み越え、己は生きていくのだと、自身に知らしめるために。
振り返れば、まさに修羅の道。血と暗い焔と闇の道。
己を支える足元に加わった真っ青な輝きを想い、リュウキはしばらくの間目を閉じていた。