調査 1
翌日、改めて丁寧な謝意を述べたカルドゥス王は、近く婚約のために王太子をヒリュウへ向かわせることを約束して帰国した。
戦が終わり、結ばれた同盟はすぐに国民に布告され、ヒリュウの城下町は未だ祝賀のお祭り騒ぎが続いていた。
が、国王はというと、今日も変わらず氷の宰相に睨まれながら山のような書類を片付けている。
窓を開けていれば遠くに聞こえる城下の喧騒に、シンは深く溜息をついた。
「手が止まってますよ。息を吐いてる場合ですか。」
「コウリ。俺も皆と勝利を祝いたいぞ。というか、息を吐かねば死ぬだろう。」
「ですから、それが全て片付いたらいくらでもどうぞと言っているではありませんか。そんな長い溜息など吐いているから終わらないのです。」
言葉と共にコウリが指差したのはシンの目の前に積みあがった大量の書類だ。
俯いても目に入るそれに、シンが心底嫌そうに顔を歪めた。
「何て顔をしているんです。ほら、これも全てヒリュウの平和のためと思えば書類の山も愛しくなってくるでしょう?」
「無茶を言うな。俺は紙じゃなくてリュウキと祭りに行きたいんだ。」
「それはそれは。残念ながらリュウキも陛下と同じ状況ですので無理ですよ。」
ギィに見張らせています、というコウリの言葉にシンが頬を引きつらせる。その光景が目に浮かぶようで、彼は遠い目で空を見つめた。
「ほら、惚けてないで手を動かしなさい手を。」
既に王に向ける言葉ではない。
「俺はそろそろ涙が出そうだ。」
「おや、漸く書類に愛を見出せましたか?手さえ動かして頂ければ構いませんよ、いくらでもお泣きなさい。」
「お前の血は緑だろう!」
「何を馬鹿なことを。寝言は寝てから言いなさい。」
「…はぁ。」
もう言葉を返すことを諦めたシンが、渋々と書類に目を落とす。この白々しいまでの白い紙と淡々とした文面に何を見出せというのか。
そんなことを思いつつも、物凄い早さで処理していくシンは、流石一国を纏める王だ。文句を言いつつしっかりとこなしていく様子に、コウリは小さく苦笑を浮かべた。
コウリとて鬼ではない。口では辛辣なことを言うものの、可能であれば日頃休まず働いているシンに時間を空けてやりたいとも思うのだ。
しかし、シンが戴冠して片手の指ほどの年数も経っていない今、王である彼がやるべきことは山積みだった。
そういうコウリ自身も、シンを見張る傍らで同じような量の仕事をこなしているのだが。
やれやれと小さく息を吐きつつ、コウリも自分の書類を片そうと踵を返したとき、大きな音を立てて扉が開いた。
「毎回毎回、あなた方はここが王の執務室だという認識があるのでしょうか。」
コウリの白い米神に、くっきりと血管の形が浮き出ている。
目の前には、重厚な扉を片手で跳ね除けるように入ってきたリュウキが書類片手に冷や汗を垂らしていた。
「いや、ほら、ちょ…文面確認してたら、つい。」
「ついではありません。そんなもの自室で済ませてきなさい。」
不味い。非常に不味い。
米神に血管を浮かべて切れ長の目を更に細めた己の上官に、僅かにリュウキがたじろいだ。
何でこんなに機嫌が悪いのか解らず、彼の言葉を思い出してみる。
そうだ、コウリは“あなた方”と言った。
ということは、軽々しく扉に飛込むようなことをするのは己だけではないらしい。おそらく、コウリの怒りが爆発したのも偶々だったのだろう。今ここに入ってきたのがその誰かであれば、そいつが怒りの対象になっていたはずだ。
何だか理不尽なものを感じながらも、どう考えたところで悪いのはリュウキである。
せっかく“お願い”をしにきたのに、これでは切り出そうにも雰囲気が悪い。
「…ぅ…えーと…申し訳ありません、でした?」
「…何故疑問系なんです。」
「申し訳ありませんでした、以後気をつけます!!」
最敬礼だ。書類を抱えて冷や汗を流す宰相補佐が、扉の前で最敬礼をしている。
それを見たシンが、噴出そうとしたのか手の甲を口にあてて頬をぴくぴくさせていた。
それに気づいたリュウキはコウリ越しにじろりとシンを睨みつけた。
「何か不満でも?」
それを見咎めたのはまたしてもコウリだ。
「いいえ!滅相もございません!!」
びくぅっと肩を揺らして自分の斜め上辺りに視線を固めたリュウキに、コウリが一呼吸の後深い溜息をついた。
「…以後気をつけるように。といっても無駄でしょうけど。」
ちくりと刺された最後の嫌味は初めの表情を考えれば可愛いくらいだ。
どうやら氷の上官は怒りを収めてくれるらしい。ほっと息を吐いたリュウキが、肩から力を抜いて一歩コウリに近づいた。
「あ…はは…善処します。で、書類提出に来たんですけど。」
へらりと笑うリュウキを胡散げに見つめたコウリが、差し出された書類の束を受け取った。こちらもなかなかの嵩があり、シン程ではないものの彼女が膨大な量の書類を片付けてきたことが判る。
一枚一枚、しかし物凄い早さで紙をめくり目を通しながら、コウリがちらりとリュウキに目を向けた。
「提出はギィに任せなかったのですか?」
「あ?あー…あぁ、ちょっと別件があって。」
「別件?」
本当に目を通せているのか疑わしい早さで書類を確認したコウリは、リュウキの言葉に首を傾げながら己の机に紙の束を乗せた。それを見ながらリュウキも王の前まで足を進める。
「陛下と宰相様にちょっとお願いが。」
「祭りなら却下だぞ。俺が終わるまで皆道連れだ。」
「や。確かにそれもあるんだけど…って、何でシンに付き合わなきゃいけないんだ!?」
「何ででもだ。俺の仕事への意欲を削らぬためにも我慢しろ。」
「…そういうの八つ当たりって言うんだぞ。」
「承知の上だ。」
むすっと鼻息荒く応えたシンに、こいつは何歳児だと心底呆れながらも、彼の前にある紙の山を見て納得した。確かに、他を道連れにしたくもなるだろう。
「まぁまぁ、冗談は置いておいて。ちょっと真面目な話、一週間程城を空けてもいいか?」
真面目という言葉と、どこか真剣な表情のリュウキに、シンが手を止めて彼女に目を向けた。コウリも話を聞こうと傍に寄ってくる。
「実はちょっと気になる夢を見て…」
少し眉を寄せながらも、リュウキが先日見た夢の内容を細かく彼らに話した。
それを聞いた二人は、どうやら彼女が本当に心配しているらしいことを理解し、考え込むように小さく息を吐く。
「黒髪黒目の子供ですか。それはまた…縁起の良いものではないのですか?」
確かに、黒はこの大陸で聖なる色なのだが。
「いや、何かすごく嫌な感じがした。何て言うんだろう…おぞましいとか、そんな感じだった。」
「…穏やかじゃないな。」
シンもコウリも、リュウキの勘は重宝している。
もし何かがあるとすれば、大事が起こる前にどうにかしたいところではあるが。
何分、夢という不確かなものな上、情報も少なすぎた。
「ですが、それだけの情報でどう調べるんです?」
「うーん、問題はそこなんだよな。取り敢えずヒリュウを回ってみて、最近何か変わったことが起こってないか聞き回ってみようとは思ってるんだが。」
「なかなか地道な作業ですね。」
そう、手間も時間もかかり放題だ。容易なことではないだろう。
「しかし、それ以外方法が無いな。」
ふむ、と目を伏せたシンの言葉に、リュウキが小さく頷く。
「リュウキの勘は馬鹿にならない。もし何かが起こる前兆ならば、備えておくに越したことはない。起こらなければそれはそれでいいしな。」
「…幸い、同盟も恙無く進んでますし、一週間程度なら貴女一人城を空ける程度問題ないでしょう。ギィにはまた苦労をかけますが。」
「あぁ、よかった。ありがとう。じゃあ、取り敢えず何もなくても一週間経ったら一度戻って報告する。」
「頼むぞ。」
「よろしくお願いしますね。」
声にしっかりと頷いたリュウキは、早速支度をするため踵を返して自室に戻った。