凱旋 1
真っ暗な洞窟の中、ぱきりと何かが割れる音が響く。
それは小さな小さな音だったが、確かに何かが崩れる音だった。
何百、何千もの月日の間、誰一人として立ち入ることの無かった氷の洞窟に、今その時が訪れようとしている。
ぱきり。
ぱきり。
暗闇の奥、巨大な氷の壁の表面の小さな欠片が、一つ、また一つと崩れ落ちた。
その音は留まることなく延々と続き、ぱらぱらと複数の欠片が零れ落ちる程になる頃、洞窟全体がずずずずずと地鳴りと共に震え始めた。
みし、という音と共に氷の壁が悲鳴を上げる。
今度はどさりと、洞窟の入り口を塞いでいた雪が滑り落ちた。
長い年月、洞窟と外界とを遮断していた雪の一部が崩れ、暗闇の中に光の筋が落ちる。
洞窟内は青白い氷の壁で出来ており、僅かに射した光の筋を反射して洞窟の奥を淡く照らした。
最奥と思われた氷の壁は、ごつごつとした他の部分と違い、透明感を持っていて薄っすらと中が透けて見える。青く不気味に光る氷の内部に、じわりと滲むように何かの影が見えた。
と、次の瞬間。
ビシィイイィィィ…―――
空間を裂くような音が洞窟に響き、影を包む氷の壁に蜘蛛の巣状のヒビが走った。
右上の端から走ったそれに続くように上下左右からも、大きく、小さくヒビが走る。
ごとり、と音を立てて、壁の一部が落ちた瞬間、まるで胎動するように滲んだ影がゆらりと動いた。
「お兄様!」
バン!と音を立てて両開きの扉が勢いよく開いた。
思わず顔を上げたシンとコウリの目に、ふわりと金髪を揺らし頬を興奮で僅かに染めたヒリュウ国第一王女シャルシュ・ヒリュウの姿が映った。
「シャルシュ様…せめてノックをなさいませ。」
その王女らしからぬ作法に、コウリが眉を寄せて米神を引きつらせる。
「あら、ごめんなさい。でも居ても立ってもいられなくて。」
ことりと小さく首を傾げながら、シャルシュが申し訳なさそうな笑みを浮かべた。しかし反省の色は見られないので言われることを承知で入ってきたのだろう。確信犯だ。
コウリが小さく溜息をついた。
「お気持ちは解りますが、貴女が焦ったところで帰還の時刻は早まりませんよ。」
「解っているわ。でももうそろそろ着いてもおかしくない時間でしょう?」
そわそわと落ち着きの無い仕草で頬に手を当てたシャルシュが彼らの傍まで近づいてきた。彼女も連合軍凱旋の知らせを受けてはいるものの、やはり己の目で見るまで安心できないらしい。
「ねぇ、お兄様。私、広場で待っていてはいけないかしら?」
「そう急くな。姿が確認でき次第知らせるようにと…」
苦笑を浮かべながら告げたシンの言葉を遮るように扉を叩く音が響いた。
その音を聞くなり、脇に控えていた近衛が扉を開くのを待たず、シャルシュが入り口へ駆け寄る。
開かれた扉の前には城内警備に当たっている兵の一人が少し息を切らしながら立っていた。
おそらく駆けてきたのだろう、彼はドアが開くなり正面に構えていたシャルシュに驚き、びくりと肩を揺らした。
ふわふわと揺れる金髪と白磁の面を至近に見つめ、彼の顔が真っ赤に染まる。
「しっ失礼しました!!」
「あら、待って!違うのよ、ごめんなさい。大丈夫よ、早く報告してちょうだい。」
何を思ったか反射的に踵を返そうとした兵士に、今度はシャルシュが驚いた。
慌てて声をかけ報告を促しながら、彼と王の間を阻まないように身を引く。
おろおろとお互いに場を譲り合う姿に、奥で見ていたシンとコウリは溜息をつきながら苦笑を浮かべた。
「良い、気にするな。翼竜隊が見えたか?」
王の言葉に、慌てて姿勢を正した兵士が声を上げる。
「はっ!王城北東側の空に確認しました。本隊の方も今しがた城門に入ったとのことです!」
「ご苦労。では、皆で迎えに行くとするか。」
シンが手にしていた書類を机に放り、席を立つ。シャルシュも兄に続こうと横に並び、いつもは口煩い宰相も、今日は文句を言わず部屋を出る王に続いた。
ゴォオオウ、と。
いくつもの旋風を巻き起こしながら、巨大な竜達が舞い降りた。
先頭は光の中黒々と映えるシキの黒竜。
その背後に続くのはライの燃えるような赤竜である。
出陣の折はバルコニーで送り出したヒリュウ王家と側近の面々だったが、今回は同じ広場に降りてきていた。
王城の広場を吹き抜けて行く突風に、王の真っ白なマントが大きく翻る。
シンは太陽の光に目を細めながら、黒竜の背に乗る二人を見上げた。
逆光で表情の細部は見えなかったが、すっと首を垂れた竜の背から一人ずつ地面に飛び降りるのが判る。彼らはそのままシンの方へと歩いてきた。
先頭はシキ、その斜め後ろに続くのがリュウキだ。彼らの背後でも、続々と竜騎士達が竜の背から降りていた。
シキとリュウキは真っ直ぐにシンの下へと進み、目の前まで来て流れるような動作で膝をつく。
そのまま一度垂れた頭を上げて、しっかりと王の翡翠を見つめた。
「遠征隊一同、誰一人欠けることなくただ今帰還致しました。」
堂々と誇らしげに告げられたシキの声は、凱旋の喜びに満ちた広場にしっかりと響いた。