リーン 4
ふわりと小さく風を起こして、リュウキの白い手首に小さな竜が舞い降りた。
彼女は空いている方の手を伸ばして竜の頭を一撫でしながら、自分の目前までそれを引き寄せる。次いで予め用意しておいた小さな紙切れを竜の足首の筒に仕舞ったあと、再び腕を高く掲げてそれを送り出した。
「…頼んだぞ。」
一気に黒い影しか見えなくなった蜥蜴を見つめ、リュウキは睨むように空を見上げた。
「リュウキ、準備は出来たか?」
蜥蜴の消えた空をしばらく見つめていた彼女の背に、低い男の声がかかる。リュウキは一呼吸の後、くるりと踵を返して男を振り返った。
そこにいたのは、甲冑こそつけていなかったが武官の正装をしたシキだった。
「あぁ、大丈夫だ。」
「あれは連れてきた蜥蜴の中でも速いヤツだからな、俺たちが王に謁見しているうちに兄上の下に着くだろう。」
そう言いながらリュウキの隣に並んだシキは、先ほどまで彼女が見上げていた空を仰ぎ目を細めた。
つい先刻リュウキが飛ばした蜥蜴には、レキの思惑を考慮した進軍の延期とそれを打破するために影で奇襲をかけること、それから残りの影をリーンに寄越して欲しいことを記したものを持たせてある。
シキが言うとおり、あの蜥蜴は他のものより少し身体が小さい割りに翼の力が強く、とても早く飛ぶことができるので、蜥蜴がヒリュウの王城に到着しシンとコウリが書簡に目を通すまで、おそらくそう時間はかからないだろう。
シキとリュウキの予想では、今夜にでも要請通りシンが影をこちらに送り込んでくれるはずだ。それも、港からではなく竜騎士を使って山脈から。
援軍のことはシンとコウリに任せるとして、シキとリュウキがすべきことはリーン王にレキの様子とそれに伴う作戦の変更を伝え、了承してもらうことだった。
「そろそろ時間だ、行くか。」
「あぁ。」
王への謁見は、先ほど話が纏まったときに人を使いに出して申し入れている。またもや早い対応で応えてくれたカルドゥス王は、すぐに時間を空けてくれた。この後、シキとリュウキは王の下へ向かう予定だ。
ギィはリュウキがレキで得てきた転移の陣を、術師隊の長であるロウに検分させるため彼の下へ行っている。
「今夜中に全てを終わらせる。勝負は明朝だ。」
シキの言葉に強く頷いたリュウキは、その目に宿した炎を心に刻み付けるように空を見つめ、王の下へと向かうシキの後に続いた。
「リーン王城にヒリュウの本隊が近づいておりますわ。」
淡々と、流れるような声でエウリュアレーは告げた。目の前には、彼女の主であるレキの魔術師長が暗い笑みを浮かべて彼女の操る水盆を見下ろしている。
エウリュアレーの目は生まれてこの方光を宿したことがないので、男の顔の作りも表情も判らない。が、見えない分感覚の優れた彼女には、男の陰湿な性質が手に取るように判った。
「あとどれくらいで王城に入る?」
「恐らく、明朝には。」
「ふん、のろまな兵どもめ。早く我が国に攻め入ればいいものを。」
苛々と足を踏み鳴らす男は、どうやらヒリュウの本隊に早く攻め入って欲しいらしい。エウリュアレーは、彼の望みには全くもって興味は無いが、それによって自分の手に入ってくるであろうものを思い浮かべ小さく笑みを浮かべた。
己を創り上げたこの男は、エウリュアレーを完全に捕らえ制御していると思っている。
しかし実のところ、男が自分を捕らえておくために作り出したこの空間も、彼女が一度力を爆発させれば吹き飛んでしまうことをアレーは知っているし、目の前の男を引き裂くことだって難しいことではない。己にはそれだけの力があることを、彼女は知っていた。
この醜い男の下にいるのはもう飽き飽きしていたし、すぐにでも術を破り殺してしまってもいいのだが、彼女にはまだ男を生かしておく理由がある。
魔術師長の下にいることで叶うエウリュアレーの望み。
それは、男に初めて水盆で彼の王国を覗けと言われたときに見た、あの輝きを手に入れることだ。
夜の闇を集めたような黒い髪を靡かせているのに、真昼の太陽のような光を放つ黄金の瞳を持つあの娘。水盆にかざす己の指先から流れ込んでくる姿に目を奪われた。
あれが欲しい、と。
あれは私のものだ、と。
そんな思いが身の内を駆け巡ったことを、彼女は今も覚えている。否、今現在もその思いは失せることなく、己の身の内に留まっているのだ。
だから、あの輝きを手にするまでは、この目の前の醜い男を殺すわけにはいかなかったし、殺すつもりもなかった。
そんな彼女の思惑に気づきもせず、未だ優位に立っていると思い込んでいる男の言動を見るたびに、アレーは笑いがこみ上げて来る。
この男は、確かにこの国では一番の魔術師らしいが、アレーから見ればただの頭でっかちで、彼が本当に国一の魔力を持っているようには見えなかった。
自分を創り出せたのも、多大な犠牲を払ったからである。
そう、この男は辺境の町や村から集めた、普通よりも魔力の強い者たちを代償に自分を創り出した。アレーの身には、彼らの命が今も蠢いているのだ。
ただ、少しだけ命の力が不足していたらしい、男が欲しかった全てを石に変える力は生まれず、彼女の目には光すら宿ることはなかった。それ故、男は彼女を度々失敗作と罵る。光が見えずとも、感覚の鋭いエウリュアレーには、特に気にかけることでもなかったのだが。
まぁ、兎に角、今のところはまだ生かしておいてやるということだ。
己の望みが叶う時、それが男の命が終わる時。
望みが叶う瞬間をうっとりと想像しながら、エウリュアレーは耳障りな男の声に答え続けた。