ヒリュウ国 1
カツカツと小気味よい音を響かせながら、乳白色の廊下を歩く。
「リュウキ様!!」
人気のない空間に後方から少し調子の外れた叫び声。
男性にしては高音のどこか神経質そうな声は明らかに自分を呼んでいるものの、
毎度のことに鬱陶しさを感じたリュウキは聞こえなかったことにした。
「リュウキ様っ!!お待ちください!!…っ…リュウキ様っ!リュウキさまっ!!」
しかし相手も相当しつこいらしく、かなりの速度で歩いているリュウキに小走りで追いつくと
はぁはぁと息を切らしながらも物凄い勢いで彼女の前に回りこんだ。
額に汗を浮かべて己を睨み付ける男に、流石のリュウキも溜息をついて足を止める。
「…ギィ、煩い。」
「あっ…あなたがっ…止まってくれないからでしょう!?」
人より聴力の優れたリュウキにとって、至近距離で叫ばれると頭に響いてしかたないのだが、ギィと呼ばれた青年はかまわず叫び続けた。
ここで彼女を逃がすと、次はいつ捕まえられるか判らないからだ。
「リュウキ様っ!!今日という今日は言わせていただきます!!」
「…どうせいつも言っていることだろうが。」
「常日頃からあれだけ単独で行かれるのはお止めくださいとお願いしているのに、またお一人で向かわれましたね!?」
「ほらな…シロが一緒だから正確には単独じゃないぞ。」
「しかもまだ前回と前々回分の報告書も未提出のままで!!!」
「…そのための専属文官じゃないか。」
「あなたの署名が必要だと何度言ったら解るんですか!?」
「……そのくらい何とかな」
「なるわけないでしょうっ!!!」
ああ言えばこう言うリュウキにギィは顔を真っ赤にして捲し立てた。
あまりの剣幕にリュウキは若干背をそらす。
「大体あなたはご自分のお立場を解ってらっしゃらない!!仮にも精鋭を纏める一隊長職に就いてらっしゃるんですよ!?あなたに何かあればあなたの部下の方々はどうなるんです!?ていうか単独行動を引き止めなかった責は僕にも来るんですからねっ!?」
「ま…まぁまぁ、落ち着け、ちょっと怒られるくらい…」
「宰相様の詰責がちょっとで済むとお思いですかっ!?」
思わず黙り込んだ上官を見てそれ見たことかと息をつくと、最後に一言とばかりにぐっと顔を寄せた。
「いいですか?せめて次は発たれる前に、僕に一言ください。」
「…今回は宰相と王の許可は得ていたぞ。」
「僕に、一言、ください!」
「…わ…わかった…」
「あと、前回と前々回の分の書類にもサインを。」
「い、今から報告に行くんだが…」
「その後でいいのでサインを!」
「…わかった。」
「それと、都合が悪くなるたび僕を避けるのやめてください。」
「…ワカリマシタ。」
自分よりもずっと年下のこの文官に、毎回頭の上がらないリュウキである。
今回も彼女の負けのようだ。力を失ったリュウキの声にギィは満足気に頷くと、来たときとは対照的に颯爽と踵を返して去っていった。
初めから終わりまで存在が霞んでいたシロは、呆けたように目を瞬かせると、いつにも増して威厳を失ったリュウキを見上げて、綺麗な曲線を描く真珠色の尾でパタパタと彼女の肩を叩いた。
「リーンの国王から書状が届いております。」
流れるような動作で、書類が山積みになっている書斎机の上に新たに紙を乗せる白く長い手は、しかし一度剣を取れば下手な兵卒よりも腕が立つことをシンは知っていた。
「…これが終わったら目を通す。」
「終わりません。今すぐお願いします。」
どうやら剣をとらずとも、その辛辣な舌は武器になるらしい。
生まれたときから己の傍らにいるこの綺麗な男を見上げ、ヒリュウ国王シン・ヒリュウは溜息をついた。
「コウリは俺を殺す気か。」
「滅相もございません。どの国に国王を殺めようとする宰相がおりますか。」
「確か120年程前にレキの宰相が反乱を起こしたな。」
「公にするほど、私は愚かではありません。一時は英雄と呼ばれたレキのロウシャン王も、結局は王族を手にかけた罪で前王弟の子に討たれました。」
「…全く。」
1を言えば10どころかそれ以上で返すコウリに、シンは苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
飴色に輝く腰までの髪をゆったりと一つに纏め、淡いモスグリーンの瞳を持つ切れ長の目をしたコウリ・ミンロンという男は、その柔らかな色合いと綺麗な外見に似合わずなかなか冷厳で陰湿な性格をしている。
以前彼を王の威を借る女狐と揶揄してきた貴族は、笑顔で辛辣な言葉を受け更に何かしらの報復があったのか、それ以降宮殿内でその貴族を見たことはない。噂によると、職場に顔を出すたびに痩せこけ、ついには青白い顔をしてふらふらと荷を纏めて帰宅する姿を見たとか見なかったとか。
まぁ、色々と尾ひれは付いているものの、己の乳兄弟であるこの男に対して外見と年齢に関する揶揄はご法度だろう。この城で健康に働きたければ、敵に回してはいけない人間第一位だ。因みにこれは、城内で働く者たちの中で周知の事実である。
「何を惚けてるんです、早く目を通してください。」
これが王に対する態度かと痛む頭を軽く振りながら、シンは書状に目を落とす。
不敬罪で手打ちにしたところできっと誰もが納得するだろうが、目の前の男が己の刃を避けないだろうことは解っていた。コウリという男はそういう男だ。
「…リーンは西の港を開き、我が国の行軍を希望するそうだ。その折に和睦も結びたいと言っている。」
「和睦も何も…今まで国交すら無かった国のはずですが。」
「仕方あるまい。あちらとて背に腹はかえられんのだろう。」
「確かに…まぁリーン内まで旅軍で行けるとなると随分楽になりますね。」
「初めは翼竜隊の急行軍のみで進軍する予定だったからな。」
ヒリュウ国のある大陸には、他に3つの国がある。
ヒリュウは大陸の東にあたり、国境となる山脈を渡れば騎士の国、リーンがある。大陸を、手を組むように分断するリーン国を渡れば北の大地に広がるのは魔術の国、レキだ。反対にヒリュウ国に面する南の大地はホウという国があり、彼の国とヒリュウとは古くからの盟約で深い国交が保たれている。
今回同盟を結ぼうとしているリーンは、敵対関係ではないもののこれまで殆ど国交が無かった国だ。というのも、ヒリュウとリーンの東西に渡る山脈は端から端まで険しく標高の高い山脈で、人が渡るには余りに過酷過ぎた。特にヒリュウ自体が国力に満ち同盟国であるホウ国も豊かな資源に溢れた国だったため、わざわざ山脈を渡ってリーンに侵攻する必要が無かったと言うのも大きな理由の一つだ。海を渡れば山脈を越える必要はないのだが、どちらの国も諸外国から国を守るために高い防波堤を備えた要塞ともいえる港を構えていた。
「リーンと同盟を結びレキを従えることが出来れば、大陸の統一も夢ではありません。」
「まぁな。だが、問題はレキだ。やはり情報が少なすぎる。」
「国力は然程でもないようですが…魔術師の国ですからね。」
「我が国とて魔術の開発には力を入れているし、船が出せれば騎士団も出せる。何よりヒリュウには翼竜隊がある。」
翼竜隊は竜騎士達が属する部隊だ。竜騎士とは文字通り、竜に騎乗して戦う戦士たちである。
騎乗するための竜が生息するのは大陸ではヒリュウのみで、知能の高い彼らは人間と意思の疎通ができた。竜騎士になるためには竜と心を交わし、共に戦うパートナーとして認められなければならない。
人より強い彼らが何故人間に力を貸すのか不明だが、この国では古くから竜騎士が存在していたのは確かだ。
だからこそ人々は竜を敬い、竜騎士となった戦士も命の続く限りパートナーの竜に礼を尽くす。
「しかし、こうも不気味な国だと何があるか判らん。」
「歴史や兵力くらいでしたら把握できましょうが…。」
「魔術については底が見えんか。」
レキの歴史は荒れに荒れていた。ここ数十年で入れ替わった王朝の数を見れば、ただ前国王が寿命を全うしたことによる戴冠とは思い辛い。
どちらともなく溜息をついたとき、バタンと荒々しく扉を開く音がした。