予感
何か言い知れぬ不安を感じる。
己は魔術師でもなんでもないが、勘は鋭い方だと自負しているシンが、不意にそんなことを思った。
コウリが言うには、ヒリュウ王家の三人は異様に勘が鋭いらしい。
それは遺伝なのか何なのか、シンにも判らない。だが、確かにそれは彼自身も感じていた。
特にヒリュウ王家の血を色濃く受け継いでいるシンは最も感覚が鋭く、危険察知能力においては、術でも使っているのではなかろうかというほど優れている。
そんな己が何かを感じたのだ、単なる気のせいとは思えなかった。
「コウリ」
己の向かいで膨大な書類を異常な早さで処理している男に声をかける。
彼の宰相は書類に目を通しながら、僅かに顔を上げてちらりとシンを見た。
「何です?」
「嫌な予感がする。」
「貴方のそれも久しぶりですね。リーンですか?」
コウリが少し目を見開いて、今度はしっかりと顔を上げた。
「解らん。だが何か嫌な感じがするんだ。」
「…予定では今宵、リュウキがレキに向かう日でしたね。」
「まさかリュウキに何か…」
「不吉なことを言わないでください。」
言い出したのはどっちだと思いながらシンは小さく息を吐いた。
リュウキにはシロがついている。あの騰蛇が竜にも匹敵するほどの力を持っていることを、シンもコウリも知っていた。余程のことがない限り、彼女を害することは難しいだろう。
それにまだシンの予感が何についての危険を訴えているのかも判らない。
コウリは少し考えるように俯くと、すぐさま顔を上げて口を開いた。
「…今朝出発した後発隊の中に、影を5名ほど入れました。港に着き次第、リュウキのもとへ向かわせましょう。」
「リュウキは既にレキへ向かっているのだろう?場所は判るのか?」
その問いに、にっこりとコウリが笑みを浮かべる。
「大丈夫です。出発前にリュウキに持たせたアンクレットに、彼女の居場所が判るようロウに術を仕込ませました。あ、勿論リュウキにはちゃんと伝えていますよ。」
本当に抜け目のない宰相である。
「“影”にはリュウキの副官を入れてあります。彼にアンクレットの受信具を持たせましたので、至急伝令を出しましょう。」
コウリの言葉に頷いたシキが、少し考えるように口元を隠す。次いで顔を俯け、深く溜息をついた。
「…やはり俺も出るべきだったか。」
「何を馬鹿なことを。ご自分の弟君と腹心の部下を信用なさい。」
にべもなく言い切ったコウリを見上げ、シンはそうだなと頷く。
「まぁ、腹心の部下というより、未来の王妃だけどな。」
ニヤリと笑ったシンに、コウリはピクリと片眉を上げた。
次いで凍えるような笑みを浮かべて、目の前でニヤニヤと笑う王に向き直る。
「まだ寝言を言うような余力があるようですね。貴方は無駄に消費するばかりのようなので、私が上手く使って差し上げますね。」
そのまま立ち上がり人の顔程の高さに積みあがった書類の山を持つと、心底楽しそうにシンの目の前にどさっと落とした。
リーンとレキの国境には、町ひとつ分程の川幅を誇る大河が流れている。
ゆったりと流れるその河はグウレイグ河といい、上流が泥を多く含む土地のせいかその流れは白く濁り川底は目視できない。所々かなりの深さを持つ上、肉食の生物も生息していることから、緩やかな流れに油断して飛込もうものなら対岸に辿り着くことなく命を落とすこと請け合いの魔の河だ。
そして、この河のもう一つの特徴が、どこまでも続く川岸に響き渡る不気味な音である。
グウレイグ河の両岸はごつごつと黒い岩場が連なっており、その岩場のせいなのか、風が吹くとまるで女の悲鳴のような音が響くのだ。
その不気味さもあって、人々がグウレイグ河に近づくことは殆どなかった。
リュウキも例に漏れることなく、今現在も耳に届く不気味な風の音に眉を顰めていた。
「…何度聞いても嫌な音だな。」
頭の中を引っ掻き回すようなこの音は、まるで人の正気を奪うような、そんな狂気を思わせる。
「ただの風の音だろ。さっさと行こうぜ。」
肩口から聞こえる声はシロのものだ。どうやら彼は平気らしい。
リュウキがやれやれと軽く肩を竦めると、もぞりとシロが身じろぐ気配がした。
「ここからは歩きかぁ…」
馬はグウレイグ河に辿り着く前の最後の村で置いてきた。
どうせその村を過ぎれば岩場が続くので、馬で行くのは不可能だからだ。まぁ、リュウキが考えていた通り日が変わる前には国境に辿り着けたので、取り敢えず重畳といったところか。
リュウキは口元を隠すように巻いていた布を下ろすと、右手をすっと前に出しながら何事か小さく呟き、そのままその手で自らの両足を撫でた。
途端、彼女の足元に小さな風が渦巻く。
「よし、行くぞシロ。」
「おうよ!」
口布を元に戻しながら川縁まで歩くと、数度つま先でとんとんと大地を叩き、そのままぐんっと河に飛び出した。水面に足が着くか着かないかのところで着地をするように膝を曲げる。
普通ならば水中に沈むはずの身体は、靴底すら水に濡れることなく、土色の水面を本物の地面の上かのように走り始めた。