シキ 11
口の中は普通、赤く熟れた果実のような色合いをしていると思っていた。
が、至近距離で開いた子供の口内は、まるで無限の闇に続く穴のように、ぽっかりと黒い穴が開いているように見えた。
ぞわり、と本能で危険を察知したリュウキが、ぎりぎりと拮抗していた刃を払い、その反動を使って大きく右に捻転しつつ身をかわす。
その瞬間、子供の口から真っ黒な光の塊がリュウキのいた場所へと放射された。
あまりの異様さに眉を顰めながらも、リュウキが間髪いれず子供の横合い、低い位置から一歩を踏み出し大きく剣を凪ぐ。
きろり、と子供の瞳がこちらを向いたかと思うと、その小さな身体を生かしてそのままひらりとリュウキの剣を避けた。
大きく仰け反った子供の口は、酸素を溜め込んだようにぷっくりと膨らんでいる。
再び先ほどの光が放射されるかと思われた次の瞬間、子供の背後に大きな影が現れた。
ひゅ、と誰のものともつかない呼吸音が聞こえる。
次いで、真っ白な閃光のように、大きな影――シキの振るった剣が背後から子供の腹辺りを横に切り裂いた。
真正面にいたリュウキの髪を、彼の放った剣圧がふわりと揺らす。
巨躯の割りに俊敏な彼の剣は、子供の腹をとらえたかに思えた。が、真っ二つに割れたのは子供の残像だけで、当の本人はシキの攻撃に合わせて横っ飛びに避けていた。
灰と金、二対の瞳が、見失うことなく子供の動きを追う。
見れば、子供の口が再びかぱりと開いていた。
「シキ!」
大きく攻撃を繰り出した反動で、シキが一瞬遅れを取る。
リュウキは子供が口を開くと同時に、強く地面を蹴ってシキの身体に向かって突進していた。
大きな身体に全身でぶつかり、シキを巻き込んでそのまま押し倒す。
その瞬間、彼女の背後を黒い光の塊が通過していった。
ぞわり、と背中を悪寒が駆け抜ける。
攻撃を受けることに対してというよりも、子供が放つ光のおぞましさに対する悪寒だろう。
「…っ!!」
と、今度はリュウキの身体を抱きこんだシキが、背中から地面に着地すると同時に、彼女ごと身をよじって左へ転がった。
横目で見れば、着地した場所に子供が深々と剣を突き立てるように跪いている。
シキは回転を利用して放り出すようにリュウキを投げると、彼女はまるで猫のようにその勢いを上手く利用し立ち上がった。
シキも片手を重心に、大きな身体を捻って素早く立ち上がる。
ふ、と息を吐くと、地面に剣を突き立てていた子供がゆらりと立ち上がり、ゆっくりと二人に向き直った。
――リュウキよ、わたしの愛し子よ。
――馬鹿な娘……わたしを拒む意味を、わかっているのか?
先ほどまでぎらぎらと滾らせていた怒りを消し去り、子供が虚ろな瞳でリュウキを見据えている。
――わたしを拒めば、世界が歪み、皆々等しく苦しむのだぞ。
――お前にその責が耐えられるのか?
――お前にその業を拒む権利が許されるとでも?
ぽつり、ぽつりとかけられる言葉は、偽りの愛情を滲ませながら、まるで毒のように心に重く落ちた。
――皆がお前を詰るだろう。
――皆がお前を恨むだろう。
にんまりと、子供の小さな口が歪む。
――それでも、わたしを、拒むのか?
何かを告げようと、小さく口を開いた彼女の言葉をさえぎるように、シキが一歩前に出た。
「馬鹿はお前だ。何故その責をリュウキが負わねばならん。」
顔一面に嫌悪を浮かべたシキが、見下すように目を細めて子供を睨みつける。
「リュウキ一人が、世界の業を背負う必要などない。リュウキ一人が世界のために苦しむ必要もない。」
チキ、と硬質な音を立てながら、シキが子供へとまっすぐに剣を構える。
「世界が歪み、人々に災厄が降るとしても、それは大陸に生きる命が等しく受ければいいことだ。災厄を退けるために、皆で頑張ればいいことだ。」
リュウキが一人で全てを受ける必要はどこにもない。
シキが迷いのない眼で、はっきりと告げた。
彼の背後では、リュウキがわずかに目を見開き、かなりの力がこめられているのだろう、サーベルを握る手が小さく震えている。
シキの正面では、子供が彼を射殺しそうな目で睨みつけていた。
「それでも皆が理不尽に嘆き狂い、リュウキ一人を詰るなら、俺たちが……俺が、リュウキを、守り通す。」
わずかに揺れていた金色の瞳が、今はっきりと子供を見据える。
シキの言葉を受けて強く輝くリュウキのそれは、もうわずかな迷いも不安も映してはいなかった。
――勝手な…ことを…。
ぞくり、と。
腹の底から這い上がるような低い響きに、対峙する三者が警戒の色を強める。
見れば、子供の両眼は、まるで血が滲み出すようにじわじわと赤く染まっていた。
鈍く光を反射する真っ赤な瞳が、憎悪を込めてシキを見つめる。
――貴様、貴様さえ、邪魔をしなければ…。
「生憎、人の感情を利用して縛り付けるような卑怯者に、こいつをくれてやるわけにはいかないんでね。」
シキがにやりと挑戦的に笑えば、目の前の子供はぎりりと歯を噛み締めて彼を睨んだ。
受ければ誰もが膝を屈しそうな程の視線を、シキは微動だにせず受け止めている。
――退きゃれ!!それはわたしのものだ!!
響く声は到底この世のものとは思えないほどの異様さをかもし出していたが、それはまるで子供の癇癪のようにも思えた。
「馬鹿を言うな、これは俺のだ。」
間髪入れずに応えたシキの言葉に、リュウキが目を瞬かせてシキを見た。
次いで、小さく苦笑を浮かべ頬を染めたが、シキはまったく気づかない。
「まぁ、そういうわけで、私は愛し子とやらにはならない。」
一歩シキの隣へ進み出たリュウキが、子供にはっきりと告げた。
それまでシキを睨みつけていた子供が、赤い眼を驚愕に見開きながらリュウキを見つめる。
――何を…何を言うのだ!?
――解っているのか、解っているのか!?
――言葉の意味を、わたしを拒否する意味を!!!
「わかっているさ。」
ふと、浮かべた笑みは、どこか勝気な、挑発しているようにも見える笑顔だ。
「わかっているとも。」
零れ落ちそうなほど見開かれた子供の瞳が、見る見るうちに細まり、釣り上がり、怒りを浮かべてリュウキを見つめる。
――なんと…。
――なんと、おろかな。
子供の言葉を、リュウキが鼻で笑った。
「愚かで結構。残念ながら、私は聖人君子でもなければ慈母の女神でもないんでね。」
リュウキの顔から笑みが消える。
「私は生きる。誰に詰られようと、誰に恨まれようと、私を求め、必要としてくれる人がいる限り、泥に塗れて地べたを這いずり回ってでも生きてやる!!」
――愚か者めぇぇえええぇえっ!!!!
叫びとともに、黒い髪を振り乱しながら、子供が剣を振りかざしてリュウキに跳びかかった。
冷めた目で見つめていたリュウキは、子供の動きを目で追いながら、ぐっと身を沈めてサーベルを構えると、子供が間合いに入った瞬間足を踏みしめ前方に飛び出す。
子供とリュウキの剣が交わる瞬間、無限に広がる空間から一切の音が消えた。