シキ 9
ぴしり、と、どこかでヒビが入るような音がした。
呆然と己を見上げる金色の瞳から零れた小さな一滴を、剣を握る男の無骨な指がそっと拭う。
まるで壊れ物を扱っているような錯覚に、シキは己の指がわずかに震えるのを感じた。
指先に触れた肌は、ほんのり温かく、柔らかい。
こちらを見つめているはずの金色は、先ほどからゆらゆらと焦点を定めず、至近距離にいるはずの己でさえ目に入っていないようで、シキはわずかに眉を顰めた。
それでも、彼女の意識を繋ぎ止めるように、細い肩を掴む手に力を入れて見つめていると、不意に目の前の小さな唇がぴくりと動いた。
「……は…」
もう殆ど吐息のような声は、シキにすら聞き取れない。
彼は言葉を聞き取ろうと更に顔を寄せた。
「……シキ、は…」
「リュウキ?」
突然リュウキの口から零れた己の名に、シキははっと肩を揺らす。
「…シキは、強い…?」
それは過去、彼が彼女にかけられた言葉。
己の知る彼女と、目の前のリュウキが重なる。
あの時と違って、それは問いかけるような言葉だったけれど。
「シキは、強い?」
行き場を失い、宙を彷徨っていた視線が、少しずつシキに定まった。
うっすらと涙の浮かぶ金色に、不安と期待が混じっていた。
それらを認識した瞬間、シキはくしゃりと顔をゆがめて、力強く頷く。
「あぁ、そうだ。俺は、強い。お前よりも、…ラルダよりも、ずっと強い!!」
だから、死なない。
その言葉がリュウキの耳に届いた瞬間、二人を包んでいた洞穴が、まるで薄いガラスのように音を立てて爆ぜ崩れた。
「これは……?」
彼女の肩を掴んだまま、突然起こったそれにシキが呆然と周りを見回す。
つい今しがたまでいたはずの洞穴がきれいさっぱり消え去り、代わりに現れたのはどこまでも真っ白な空間だった。
それは、シキがリュウキの意識に沈んですぐの景色に似ている、否、似ているというより最初の場所そのものだろう。
しばらく呆然と周囲を見回していたシキだが、不意に思い出したようにはっと肩を揺らして正面のリュウキに目を向けた。
いつの間にか顔を俯けていた彼女の顔を、覗き込むように首を傾ける。
「おい、リュウキ?大丈夫か?」
ぴくり、と掴んだ肩が揺れた。
リュウキが、覗き込もうとするシキから逃れるように、俯いたまま顔を背ける。
「リュウキ?」
「……。」
「リュウキ?」
「……。」
覗き込もうとすれば顔を背ける彼女に眉を寄せたシキが、彼女の肩から手を離し顔を確認しようと俯けたままの顔に手を伸ばした。
すると、あと少しで頬に触れるというところで、突然動いた彼女の手に、ばしりと音を立てて払われる。
「……見るな。」
いきなりの抵抗に、呆然と目を見開いていたシキの耳に、唸るような低い声がぼそりと届いた。歯切れの悪いその言葉は、語尾がわずかに震えているような気がした。
それと同時に、見えない彼女の顔から、小さな雫が落ちていくのをシキの目が捕らえる。
「おい。」
「……。」
きらり、きらりと雫が光を反射しては落下する。
「リュウキ、こっち向け。」
「断る。お前はあっち向け。」
強く切り捨てる言葉は、掠れ、震えて、いわゆる涙声というやつだ。
全てを悟ったシキが大きくため息を吐く。次いで浮かんだのは、安堵の滲む暖かな笑みだった。
やっと、彼女は泣けたのだ。
シキが再び彼女の顔に両手を伸ばした。
先ほどよりも素早く、しかも些か強引に伸ばされた手に、リュウキが慌てて身を引くも、今度は大きな両手に頬を包まれてしまった。
そのまま、シキにしては丁寧な動作で、そっと顔を持ち上げられる。
触れた頬はシキの予想通り、幾筋もの涙で濡れていた。
「泣いてるな。」
「……煩い。」
向けられた男の包み込むような笑顔に、リュウキが所在無さげに視線をそらした。
それでも、彼女の目から溢れ出す涙は止まらず、そのちぐはぐな表情にシキが小さく笑う。
途端に、リュウキの顔が不快げに歪んだ。
「…笑うな。」
「あぁ、悪い。」
そういいながらも、シキは笑みを絶やさない。
至近距離で向けられた、とろけるような男の笑顔に、リュウキは居心地悪そうに身じろぐと、わざと声を低くして呟いた。
むっと口を尖らせる様は、普段の彼女からは想像できないほど子供っぽい。
誰にも見せない彼女の表情を見た気がしたシキは、感じた喜びのままリュウキを抱き寄せた。
「おい!!」
突然の暴挙にリュウキが抗議の声を上げる。
わずかに視線をずらせば、彼女の耳がほんのりと赤く染まっていた。
「…記憶、戻ったか?」
無遠慮に身体を拘束するシキを横目で睨みつけながらも、耳元で囁かれた言葉にリュウキが小さく肩を揺らす。
彼の声には、心からの心配と真剣な想いがにじみ出ていた。
「…………見ての通りだ。」
少しばつが悪そうにリュウキが答える。
素直じゃない切り替えしに、シキが再び小さく笑った。
確かにそれは、シキの知る彼女だった。
「いつもと逆だな。」
楽しそうな、嬉しそうな声に、リュウキが眉を顰める。
顔は確認できないが、おそらく男の顔には先ほどの笑顔が浮かんでいることだろう。
「……何が?」
「まさかお前を泣かせる日が来るとはなぁ。」
「……おぼえてろ。」
先ほどから不機嫌そうに呟く彼女は、確実に照れているのだろう。
兄弟の中では最も鈍感と言われているシキですら、はっきりと分かった。
腕の中の温もりが心地よくて、しばらくそうしていると、今しがたまで身を硬くしていたリュウキが、ため息を吐いて身体から力を抜いた。
次いで、無言のまま真っ直ぐ下げていただけの腕を持ち上げ、ゆっくりとシキの大きな背中に回す。
思いがけない彼女の動作に、シキが目を見開いた。
背に回る細い腕に、わずかな緊張を感じる。
「シキ。」
「……何だ?」
「ありがとう。」
短く告げられた言葉は、彼女の柔らかな温度とともにじんわりとシキの心に届いた。