シキ 8
「……はなせ。」
「駄目だ。」
「離せっ!!」
二度目の狼藉ということと、これまでの感情の昂りからか、リュウキの口から女の声とは思えないような凄みを持った声が上がった。
それ同時に、太い腕に拘束された細い身体が渾身の力で抵抗してくる。
しかし、シキは彼女を押さえ込むようにぐっと腕に力を入れると、リュウキの身体を逃がさないよう更に抱きこんだ。
女性にしては強すぎるほどの力を持つリュウキだったが、さすがにシキが相手では彼の腕をぴくりとも動かすことができない。
その事実に、リュウキの顔が悔しげに歪んだ。
全身で暴れたためか、彼女の頬はわずかに上気している。
「離せと、言っている!!」
まるで野生の獣のような唸り声。
腕の中で殺気すら纏いはじめた女に、しかしシキは怯むことなく彼女を拘束したまま、こちらを睨みつける金色を見下ろした。
「…そんなになっても、まだ泣かねぇんだな。」
射殺すように睨み付ける金色の奥に見えたのは、未だに血を流し続けるリュウキの心。
まるで手負いの獣のようだとシキは思った。
受けた傷を心の深い部分で抱き込みながら、全てを拒否して孤独の内に立つ獣。
痛みを忘れ去ることを恐れ、癒すどころか自ら傷を広げて気持ちを繋ごうとしているように思えた。
彼女は気づいているのだろうか。その行為が、自身の心を、命を削る愚行だということに。
否、おそらく心のどこかで気づいているのだろう。
だからこそ、今シキの言葉を心の内に入れぬよう、彼女は必死に身を固めて彼を睨みつけている。
気を抜けば、途端に喉笛を食いちぎられそうな殺気を受けながら、それでもシキは、己の掌にすっぽりと納まる白い頬をそっと撫でた。
同時に、リュウキの肩がぴくりと跳ね、シキの手から逃れるように顔を背ける。
しかしシキはそれを許さず、片腕でしっかりと彼女の身体を抱きこんだまま、逃げるリュウキの細い顎を些か強引に捕らえた。
抵抗をものともしないシキの力に、リュウキの顔が悔しげに歪む。
「泣くのが、恐いか?」
「うるさい。」
「涙とともに、想いを失うことが恐いのか?」
「黙れ!!」
金色の瞳が、怒りに燃えている。
ゆらゆらと、まるで陽炎のように揺れる眼の奥に、シキは確かな恐怖の色を見た。
再びリュウキの顔に力が入り、シキの目から逃れようと、小さな顔が横を向きかける。
しかし、顎にかかった男の手が、それを許さなかった。
ぐっと両者の顔が近づく。シキの灰色の瞳が、リュウキの金色を捕らえるように射抜いた。
「リュウキ、弱さを恐れるな。」
「…っ!…わたしはっ」
びくり、と彼女の身体が震える。
「俺たちは人間だ。どんなに身体を鍛えても、どんなに心を殺しても、弱さを無くすことはできない。」
「そんなことっ!!」
解っている。
痛いほど、狂おしいほどに解っているのだ。
しかし、弱さを認め、心の嘆きを受け入れれば、もう一人で立つことすらできないのではないかとリュウキは思う。
それに、シキが言うとおり、嘆き悲しむことで、あの男への憎しみや、ラルダを想う気持ちが褪せることが何より恐ろしかった。
どん、とシキの胸に、リュウキの拳がぶつかる。
唇を噛み締めて己を睨みつける彼女は、まるで行き場を失くした子供のように不安を浮かべ、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
「受け入れろ、リュウキ。お前の弱さも、お前の傷も。」
一瞬緩んだ隙を抜け、顔を固定していたシキの手から逃れたリュウキが、言葉から逃れるように俯く。
「リュウキ。」
諭すように呼ばれ、リュウキが顔を俯けたままゆるゆると首を左右に振った。
「リュウキ!」
少し強めに名を呼べば、更に強く拒否を示すように彼女は首を振った。
黒く艶やかな髪がわずかに乱れてシキの腕を打つ。
リュウキの身体を包む腕が動き、片方が彼女の後頭部に回ると、そのまま強い力で抱き寄せられた。
「俺がいる!」
耳元に直接叩き込まれるような声に、びくりとリュウキの肩が跳ねる。
「お前が全てを受け入れて、痛みと悲しみに崩れても、俺がお前を守る。」
きつい抱擁は、男の鼓動も、熱も、想いさえもぶつけられるようで。
「お前がまた立ち上がるまで、俺が必ず守るから!!」
守る。
その言葉を聞いた瞬間、リュウキが大きく目を見開く。
次いでくしゃりと顔を歪めた彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
リュウキがシキの肩に額を押し付けたまま、更にゆるゆると首を振る。
「……やめろ…やめてくれ…。」
「リュウキ?」
「私を守るなんて、言うな。」
零れた声は弱弱しく、ところどころ掠れ震えていた。
「……ラルダも、そう言って…死んだんだ。言葉のとおり、私を守って死んだんだ!!」
ずっと抱えていた想い。
それらはいつも、一人生き残ったリュウキを責め続けた。
叫びを受けたシキが、更に腕の力を強める。
「俺は死なない。」
「そんなことっ」
「分かる!!絶対に、死なない!!」
シキがリュウキの小さな肩を両手で掴み、がばりと顔を上げた。
「約束だ。俺は、絶対に、死なない。」
灰色の瞳で見据えた金色から、ぽろりと宝石のような雫が零れた。