第八話 独房と黒猫
知らない天井。
僕は石の台の上で目覚めた。
凝り固まった体をゆっくり起こす。寝床の上の格子窓から、月光がさす。
寒い。
そこは、せまい独房だった。
捕まったのは初めてだけど、不安というより寧ろ変な安堵を感じる。
だって、牢屋に入れられたのだ。僕はまだ、裁かれることができる。まだ人間と認められている気がしていた。
見ると、扉の前にパンと一杯の水が置いてある。でもそれらを食べる気には到底なれなかった。まだ歯の隙間に血肉がこびりついていて、息が鉄臭い。
…これからどうなるんだろう。牢屋に入れられた人間は、労力として駆り出されると聞いたことがあるけれど…。
「そんなに甘いわけないだろう」
静まり返った牢屋に音が生まれ、一瞬後、それが試験場で聞いた声だと気づく。声がした方を見ると、鉄格子の窓枠に座った黒い影が視界に映った。
猫だ。黒猫が、黄色の瞳でこちらを見下ろしている。背中に月光を受け、毛並みが艶やかに光る。
「…君が喋ったの?」
聞くと、猫は隣に着地し、顔を歪めた。いや、笑ったのか?
「やっと俺と話す気になったのか。昼間はさみしかったんだぜ。」
猫はゴロゴロと音を立て、僕の手にその体を寄せた。温かい。視界がぼやけていく。
気がつくと、僕は泣いていた。
「君は誰?」
嗚咽が収まってから、僕は蚊の鳴くような声で尋ねた。
「やっぱり忘れちまってたのか。まあいい。俺はお前様のしもべだ。」
…たしか、ハオランが指輪は悪魔を住まわせると言っていた。じゃあ、この猫のようなモノがこの指輪の__。
僕は、目の前の小さな生き物が悪魔だとは到底思えなかった。それに、忘れてたってどういうことだ?確かにその声に聞き覚えがある気もするけれど…。
ふと違和感を感じて左手を見る。
そこには、何もなかった。中指の指輪が消えていたのだ。…胸がすく思いだ。
「食わないなら俺が食っちまうぞ。」
猫が扉の前のパンを咥える。それを見て、僕は空腹を思い出した。そういえば昨日の夜から何も食べていない。
僕が手を近づけると、猫は黙ってパンを持ってきて差し出した。味はほとんど分からないけれど、噛んでいる内にとりあえず空腹が軽減していく。
「君のこと、なんて呼べばいい?」
寝床に再び横になり、つぶやく。猫が僕の腕を押し上げ、勝手に抱き枕のようになる。
「名前はない。好きに呼べ。」
「じゃあ…オニキスとかどう?」
オニキス、我ながらセンスが良い。
強い黒色の輝きを放つ、魔術師に人気の宝石。
数年前屋敷に来た旅商人が話していたのが、記憶の片隅に残っていたのだ。邪気払いの石と言っていたから、悪魔の名前にはそぐわないかも知れないけど、黒猫は気に入ったようだった。
「オニキス、ね。いいだろう…。」
しばらくして、猫のいびきが聞こえてくる。
僕は腕の中の温かい生き物のおかげで沈み切った心が少し軽くなるのを感じ、それでも昼間しでかしてしまったことを回想し、自己嫌悪にうなされながら眠りに落ちていった。
「刑罰が決まった。死刑施行は3日後だ。最後の食べ物は好きなものを用意する。」
翌朝、僕は独房の窓から告げられたその言葉に、立ち尽くしていた。
考えてみれば当然だ。
だって僕は人間を、それも人類の敵を倒そうと奮起する集団の指揮官を一人、殺してしまったんだから。今の僕は、人間側というより悪魔側にいるのだ。
そりゃ死刑だ。当たり前。
黒猫は僕の腕の中で我関せずという風にあくびをした。
世界が崩壊していく音が他人事のように聞こえる。
僕、殺されるのか。
あまりに突然のことで、そんな発想は一つもなかったので、どうにも夢を見ているようだった。
考えてみてほしい。
突然明日殺されると知ったら、人はどうなる?
呆然と立ち尽くす?頭を抱えて泣き叫ぶ?知り合いに遺書でも書くのだろうか。
僕はそれらのどれもしなかった。
「ピザが食べたい。」
扉の向こうの誰かが頷く。
僕は半ばうわの空で独房の石台に腰掛けた。
「なにもしないのか」
オニキスが僕の隣にちょこんと座る。
「何もしないってなんだよ。僕はピザを待ってる。」
「そうかい。」
再び、静寂が独房を満たす。
しばらくして、オニキスが口を開いた。
「なあ、お前、年はいくつになるんだ?」
…今は話す気分じゃない。僕は目を瞑り押し黙ったが、静寂に耳をつんざかれそうになってしぶしぶ答えた。
「…来月で16。」
「どこで生まれたんだ?」
「あの屋敷さ。…ほんとかは知らないけどね。僕の両親は僕が小さい頃に死んだらしいから。」
「へえ。じゃあ__」
その後も、くだらない問答が続く。
でもそれ以外にやることもないから、僕は初めよりは素直に質問に答えていった。
「…お前の一番の親友って誰だ?」
いくつかくただらない質問を重ねた後、オニキスが声色を変えずに聞いた。
僕はオニキスを見た。まるで誘導尋問だ。何がしたいのか全く分からないけど。
オニキスは微動だにせず独房のひび割れた壁を見ている。
「今は…ハオランとリヴェンかな。」
「今は?前にもいたのか?」
「…うん。だけど、みんな魔王城へ行って帰ってこなかった。だから、もう屋敷にくる人間とは関わらないようにしてたんだ。けど…」
「けど?」
一番大事な人を忘れていた。
「レイン。」
オニキスが耳をぴくっと動かす。
「彼女は、僕に一方的に関わってきたんだ。最初は無視してたんだけど、ずっとくっついてくるから、もうなんだかどうでもよくなって…。」
今頃どうしてるかな。僕は猛烈に彼女に会いたくなってきた。ハオランとリヴェンも…。
…けど、彼らは僕がザイオンを無残に殺す様を見ていた。再会しても、口を聞いてくれるかどうかすら怪しい。
「もう再会することはないがな」
オニキスが言う。
「もう再会することはない__」
僕は黒猫の言葉を自分の口で繰り返していた。
そして、この親切な猫の意図にも何となく気がついていた。
「どうだ。段々わかってきたか?」
僕は首を振った。
まだ猫と、この風変わりな友人と与太話をしていたかった。現実から、目をそらしていたかった。
黒猫はため息をつき、すっと腰を上げる。
「俺は餌を取ってくる。せいぜいそこに座ってそのあほ面でピザを待っていることだな。」
そう言い残し、黒猫は格子窓から抜け出してどこかへ行ってしまった。
僕は一人冷たい牢屋に取り残され、暇を持て余した。
孤独は、嫌な妄想をさせる。
明日、どうやって死ぬんだろう。死刑といえば火あぶり?いや、斬首かも。
そういえば、ザイオンと一緒に来た街で、たまたま死刑執行を見学したことがある。
僕は古い思い出を回想していた。
人であふれかえる広間に、高い木の塔があり、その上に数人の死刑囚が等間隔で座っている。
右から順番に、首が飛ぶ。
その度に歓声が上がる。
僕はその異様な光景に、唖然とした。その死刑囚たちの罪を何も知らなかったからかも知れないけど、とにかく、怖かった。
あの時、ザイオンの大きな腕の中にいても、妄想から抜け出せなくなっていた。
あの台座に座っているのが僕だったら、何を考えるだろう。
下のほうでは自分の死を望む群衆が、目を輝かせて僕を見上げているはずだ。
刻一刻と迫りくるタイムリミット。
泣いても笑っても、やがて自分の番がくる。
しゃがんで血のしみがついた木の台に頭を乗せる。
下しか向けず、視界は狭くなるだろう。
首がむき出しになり、その時が訪れる。
斧の冷たい感触を感じた直後、体の感覚が消える。
僕は髪を掴まれ、最後の景色を目に焼き付ける。
首を切られてからも、数秒間は意識が持つと聞いたことがある。
徐々に視界が狭窄していき、やがて完全な暗闇が訪れる。
そこには音も、匂いも、ぬくもりも、何も無い。
ただ、永遠の、闇。
今、僕の目の前で、その時と同じ、黒くて深い、闇が、大きな口を開けている。
首筋に湿った生暖かい感触が伝い、僕は飛び上がった。
「やっと気づいたか、ストーム。」
いつの間にか、オニキスが僕の肩の上に乗っていた。
「は、早かったね。」
「そうでもないぞ。外はもう夕方だ。」
それを聞いて鉄格子から外を見てみると、確かにもう世界はオレンジ色に染まっていた。
扉の前に冷めきったピザが置いてある。誰かが入れてくれたんだろう。…気づかなかった。
「どうだい?何かする気になったか?」
オニキスは本当の猫がやるように僕の足元で大きなあくびと伸びをした。
僕はオニキスが伸びをし終わるのを待って抱き上げ、頭を撫でながら立ち上がった。
「僕、やっぱりまだ死にたくないみたいだ。」
オニキスは満足そうに喉を鳴らす。
「ここから脱出する。」
僕は人生初の脱獄に心を躍らせてしまっていた。この時命を投げ出していれば、さらなる苦しみは背負わずに済んだのに。
「そうかい。なら、俺はもう消えるぜ。また後でな。」
黒猫はそう言って鉄格子の隙間からあっけなく姿を消してしまった。
…何もしないのなら、何のためにここに入ってきたんだ。
不審に思ったが、なんだかんだあの黒猫のお陰で今正気を保てているのかも知れないと思うと、感謝の気持ちが湧いてくる。
僕はピザに乱暴にかぶりつき、考えを巡らせた。
こうして脱獄宣言をしたのはいいが、脱獄と言っても、何せ初めてだからどうすればいいのかてんで分からない。
「僕って、指輪がないと魔法を使えないのかな」
一人きりになった寂しさを紛らわそうと、僕は独り言を言いながら狭い部屋を歩き回った。
とはいっても、僕はフレイムの詠唱しか覚えてないし、そのフレイムも成功した試しがない。
第一、こんな場所で炎を呼び出したところで…。
部屋を見回し、ふと、鉄格子に目が留まる。
石は無理だけど、鉄なら熱で熔けるかな?鉄格子さえなくなれば、格子穴から脱出できそうだ。
寝床の上に登り、鉄格子を凝視する。
僕は体の中の何か、僕が魔力とイメージするものを両手から放出させる想像をして、力んだ。
外にいるであろう看守に気づかれないように、小声で唱えと、手から、煤のようなモノがふわっと排出され、鉄格子の埃が舞う。
…魔法が下手なのは認めるけど、まさかここまでとは。
僕は自分自身に失望しながら、別の要因も感じ取っていた。
この部屋には魔法が無効になる呪文がかけられているようなのだ。それを解かないことには、できるものもできない。
…愈々、万策尽きたみたいだ。一策しか試せていないけれど。
一昨日指輪を手に入れた時は何か特別なものになれた気がしていたのに、僕自体には何もないのだろうか。ただの運命のいたずらだってのか?
そうこうしているうちに、夜の冷気が牢屋を満たしていく。
僕は自分の首にかかった砂時計がとんでもない速さで時を刻んでいるのを感じて、戦慄した。死刑執行は三日後と言っていたから、時間が無いのに。
扉の取っ手をガチャガチャと音を立てて動かそうとしてみる。当然何も起きない。
月光が独房を照らし出す。
僕はやけになって扉に体当たりし出した。
「…出してくれ!ここから出して!」
近くには誰もいないようだ。大声で叫んでみても、ネズミの音さえ帰ってこない。
僕はありったけの力をこめてドアに体当たりし続けた。ドアはびくともしない。
繰り返し、繰り返し当たり続ける。
「僕が悪かった…!反省しています!もう二度としません…!!ですからここから出して!助けてください!お願いします…」
何度も叫び、声が枯れ、やがて乾ききった奇怪な音しか出なくなる。それでも、僕は扉にぶつかり続けた。
…死にたくない…!
頭がくらくらして、立ち止まりそうになる度、死への恐怖が脳天から降りてくる。
僕は動き続けるしかなかった。
どれくらい繰り返しただろう。無我夢中でぶつかり続けているせいで、もう右も左も分からない。
何の前触れもなく、外側から扉が開く。
勢いあまって独房の外、監獄の廊下に投げ出された。
もしかして、誰か助けに来てくれたのか…?僕は喜びで顔を輝かせていた。
そんな淡い期待をよそに、冷たい声が降り注ぐ。
「時間だ。」




