第四話 失敗
「何かいる」
僕たちは窓を越えない程度に身を乗り出し、食い入るように部屋の中を覗き込んだ。
何かが擦れる、隙間風のような嫌な音が老人の声に混じる。
ピンクの影は、やがて老人の周りを完全に覆ってしまった。
ここからでは老人がどうなっているのか分からない。
息をのんで見守っていると、なんの前触れもなく霧が晴れた。
何かが焦げるような悪臭が扉を越えて鼻をつく。
見ると、老人が部屋の中央で倒れていた。
「失敗だな。」
頭上でザイオンの声が聞こえる。いつの間にか扉の周りには部屋を見学する人だかりができていた。
ザイオンが扉を開け、部屋に入る。
横たわる老人を小突くと、老人は唸り声を上げてのっそりと状態を起こした。
左右の目はちぐはぐな方向を向き、腕や顔はグツグツと泡立っている。
一瞬で変わり果てたその様子を見て、背筋が冷えていく。
どこからともなく使用人が現れ、そそくさと老人をはけさせる。
「次は貴方です。」
ザイオンが、ハオランに新たな羊皮紙を渡した。
老人のものは燃えて無くなったらしい。
ハオランは緊張した面持ちで羊皮紙を受け取り、ペンタクルへ足を踏み入れた。
肩にはあの緑色の生き物が寄り添うように乗っている。
「こっちまで緊張してくるな。」
リヴェンが独り言のように呟く。
僕は頷いて、部屋の外から固唾を飲んで見守った。
ハオランも、もしかしたらあの老人のように…。
僕たちの心配を感じ取ったのか、彼はこっちを見てニヤリと笑った。
詠唱を始める。
「あいつ、召喚魔法が得意なんだ。」
リヴェンが部屋の中を注視しながら呟く。
そういえば、二人は同じ魔法学校を出たと言っていた。
お互いの得意不得意は知り尽くしているんだろう。
僕はリヴェンの言葉を聞いて、少し気を抜けた。
詠唱が終わる前に誰かに肩を叩かれる。
振り返ると、ゲイジがいつもの仏頂面で仁王立ちしていた。
「ついて来い。」
そう言って、ずんずん歩いていく。
レインが何か言いたげに目配せをしてきたが、僕は首を振った。強がりってやつだ。
喉がカラカラに渇いて心臓が壊れそうなくらい早鐘を打っていることは、きっとバレてない。
屋敷の奥。
僕は半ば引きずられるように別棟へ向かっていた。召集された魔術師たちが宿泊する棟だ。
この屋敷は主に2つの別々の建物から構成されている。
一つは、さっきまでいた新しい棟。もう一つは、今向かっている古い棟。
元々はただの宿屋で、宿泊する棟しかなかったが、後に訓練用に新しい棟が増設されたのだ。
僕の両親は元の宿屋のオーナーをしていた。二人は僕が物心つく前に亡くなったから、詳しいことは知らないけれど。さっきのペンタクルはきっと、増設される過程で描かれたものだろう。
新しい棟とは違い、こっちの棟は壁にひびが入ったり、窓枠が黒ずんだりして年季が入っている。
夕方の冷え込んだ空気がガラスを侵食していく。
薄暗く長い廊下の奥から、誰かがすすり泣く声が聞こえてくる。
しばらく歩いて、ゲイジはある部屋の前で足を止めた。
火の玉のランプが、彼の顔を不気味に照らし出す。
泣き声はこの扉の向こうから聞こえてくるようだ。
さっきレインと来たばっかりなのに、また引き返して来ることになるとは。
ゲイジが扉をノックし、ゆっくりと開ける。
そこには、想像通りの光景が広がっていた。
部屋の真ん中、血の海にトーマスが座りこんでいる。
泣き腫らしたその目の先には、血まみれになったネズミがいた。
さっき僕とレインで部屋に入れておいたのだ。
やっぱり、トーマスのペットだった。
彼は数時間前の僕と同じように両手でネズミを包み込み、何度も声をかけ続けている。
レックスはいない。
僕は形容し難い感情に襲われていた。胸がつまる。
「何を笑っている。」
そう言って、ゲイジは僕を突き飛ばした。
…そうか。僕は笑っていたらしい。
顔から血溜まりに突っ伏す。
「お前だな?僕のリリーをこんなことにしたのは!」
トーマスが声を震わせながらネズミをそっと置き、僕のみぞおちを蹴る。
「ただの…ネズミじゃないか。」
僕はトーマスの目を見て言った。
トーマスの顔が熟れたトマトのように真っ赤に染まっていく。…調子に乗りすぎた。
昼間治りきらなかった脇腹の傷がまた開く。
静まり返った棟で、鈍い音とうめき声だけが鳴る。
全身ぬめぬめだ。
これは自分の血?それとも、ネズミの?
多分、どっちもだ。
絶え間ない暴行の中、僕は何度も気絶し、何度も目覚めてその度に目覚めたことを後悔した。
しかし、その時間は思わぬ形で唐突に終わりを告げた。
「__儀式が!早く来い!」
誰かの声が遠くで聞こえる。
鼓膜が役に立たず、何を言っているのかはっきり分からないが、レックスの取り巻きに居そうな顔の誰かが切羽詰まったように部屋に入ってきて、そのままゲイジとトーマスを連れてどこかへ行ってしまったのだ。
その後、入れ替わるようにしてレインとリヴェンが部屋に入ってきた。
リヴェンは部屋の惨状を見て、すぐに何も言わず目をそらした。大体予想がついたのだろう。
レインが打撲と骨折にまみれた僕の体を治癒し、すぐに三人で部屋を出た。
部屋に向かう途中、僕は嫌な予感に翻弄されていた。
さっき、誰かが倒れたって言ってたよな...?
今儀式をしているのはハオランだ。
もしかしてハオランの身に何か起きたのか?
…生きてるよな?
リヴェンは、ハオランは召喚魔法が得意だと言っていた。まさか、死んだなんてことは…。
新棟に差し掛かると、突然屋敷全体が揺れ始めた。
ガラス窓がガタガタと音をたてる。
僕は地震だと思って咄嗟に姿勢を低くしたが、レインは歩みを止めずに告げる。
「儀式が大変なことになってるの。行けば分かるわ。」
部屋の扉の周りには、まだ人だかりがあった。
しかし今度はさっきまでとは様子が違う。
皆狼狽したように部屋の中を凝視し、立ち尽くしていた。
扉に空いた窓から中を見ると、黒煙がくすぶっているのが見える。
…いや、くすぶっているなんてもんじゃない。
竜巻のように渦巻き、部屋の中をかき乱している。轟音がせっかく治った鼓膜に効く。
「なんだこれ…。まさか、ハオランが…?」
僕は耐えられなくなって口を開いた。
「俺がどうしたって?」
突然耳のそばで聞き慣れた声がし、思わず飛び上がる。
ハオランだ。
彼は何ともなさそうにいつもの薄笑いを浮かべて立っていた。安堵で胸をなでおろす。
ハオランは竜巻の轟音に負けないように声を張り上げた。
「レックスが俺の後に儀式を始めたんだが、ペンタクルに入った途端あの調子さ!」
今儀式をしているのはレックスなのか。
黒煙の向こうで、確かに叫び声が聞こえる。
人間の手が、一瞬隙間から生える。
そういえば、彼はあの宝石を持っていたはずだ。あれで儀式をしているのだろうか。
竜巻は収まらない。
部屋自体は魔法で強化されているのだろうが、この調子だと中の人間はケガでは済まされなさそうだ。
くそくらえと叫びたくなる。
残念なことに、見ていると段々竜巻は勢いを弱めていった。
最後の一筋が消え、屋敷に完全な静寂が訪れる。
部屋の中には、きれいさっぱり何も残らなかった。
レックスは消えてしまったのだ。




