第二話 ネズミ
僕はレックスに両手を向けた。呪文は完璧に唱えれたはず。
上げた両手から小さな火花が散り、不完全燃焼の黒い煙が上がる。
…それだけ。暖すらとれそうにない。
僕はその威力の弱さに、裏切られたような惨めな気持ちになって立ち尽くした。
どうやら僕に魔法の才能は無いらしい。
レックスの憐れむような視線が刺さる。トーマスがけたたましく笑った。
「い、今の、炎の呪文か?湿気た花火でももう少し勢いがあるぜ。」
トーマスの肩のネズミも、腹を抱えて甲高い鳴き声を上げている。
こうなったらもう。僕は踵を返して扉のほうへ逃げ出した。
次の瞬間には思いっきり床とキスを決めていたが。ゲイジの足に引っ掛けられたのだ。
転んだ衝撃で、ポケットからあの宝石がコロコロと転がり出る。
取られまいととっさに手を伸ばす。それより早く、ネズミの小さな手が、すばしっこく宝石を奪った。物欲しそうに小さな瞳を光らせている。
レックスが手を近づけると、ネズミは名残惜しそうにしながらも宝石を手放した。
レックスが手のひらで指輪を転がす。
「お前…この宝石どこで拾った?」
僕は無言でレックスを睨んだ。起き上がろうにも、ゲイジの足で背中を踏み潰されていて身動きが取れない。
「…まあいい。どうせ他の連中から盗みでもしたんだろう。選抜には指輪が必須だってのに、非道いことをする。これはお前のような雑用には手に余る代物なんだぞ。」
レックスはそう言うと、さも自分のものかのように指輪を右手の人差し指にはめた。
僕は悔しくて暴れながら、貧弱な自分の図体を恨んだ。
「さあ今日も始めようか。さっき炎を使おうとしてたな。ちょうどいい。俺が手本を見せてやる。」
レックスは目を閉じて詠唱を始めた。朗々とした声が、広間に響き渡る。詠唱後、スッと片手を上げる。
地面に転がる僕を見据える。
視界が、赤い。
「っぎゃああっああああ」
叫んでいた。
涙が蒸発していく。
痛い__
「おっと、やりすぎた。これが宝石の力ね…。気を失うんじゃないぞ。」
レックスの声がどこか遠くで聞こえる。目を開けようにも、瞼が顔面と引っ付いて剥がれない。
新たな詠唱が聞こえるたび、体が宙に浮いたり、変形したり、もう何がなんだかわからない。
攻撃の最中、脇腹に何かが入ってくる。冷たい何か__。
違う。熱い。焼けるように熱い。
床に膝をつく。
平べったい金属が、体から引き抜かれる。ナイフだ。
僕は脇腹を押さえ、冷たい床にうずくまっていた。両手の中に暖かい液体が溜まっていいく。
「おいトーマス。やりすぎだぞ。」
楽しそうな声がぼんやり聞こえる。歩き去っていく足音。
それを最期に物音が止む。
幸か不幸か、今日の歯がいじめはそれで幕を閉じたらしかった。
僕は、最初と同じ格好で薄暗い広間に一人取り残されていた。
でも今は全身ボロボロだ。
さっき刺された脇腹が燃えるような熱を持っている。出血がひどい。
実験台にされ始めてからこれで何日だ?
僕は両手で弱弱しく頭を抱えた。
昼休みが終わると、必ずあいつらがやってくる。初めは引っ張ったり浮かせたりする程度だったが、それは段々とエスカレートし、いつしか出血が当たり前になっていた。
レックスは魔法の応用が得意で、複数の呪文を器用に操って見せる。取り巻きたちはそれを見て喜ぶ。どこに隠れていても、結局見つかってしまう。
僕は腰抜けだから、反撃ができず、いつも成されるがままだった。ザイオンとの稽古の時はもっと動けるのに。
うだうだと考えてていると、次第に意識が朦朧としてくる。広間の床に血だまりが広がるのが目の端に映る。
もしかして、死んでしまうかも知れない。
遠くで、楽しそうな笑い声が聞こえる。
昼食の時間だから、食堂に宿泊客がたむろして雑談話に花を咲かせているんだろう。
僕は独りぼっちだった。
「…ストーム!大変。」
聞き慣れた声が静寂を破る。
見えなくても、誰だか分かっている。僕はレインの声を聞いて泣きたいくらいほっとしていた。
「またあいつらにやられたのね。大丈夫。今治してあげるから。」
ひんやりした手が火傷でただれた皮膚を撫で、治癒していく。
冷たい手が、焼け付いた瞼に触れる。
引っ付いていた皮膚が剥がれる。ぼんやりと、光が入ってくる。
…やっぱりレインだ。緑色の瞳と一瞬視線が交わる。
耳にかかったレイン髪が、僕の頬に触れる。
心音と、静かな息遣い。
次第に手が震えてくるのが伝わる。
目に疲労が混じり、レインの全身から汗が吹き出す。
耳元でエメラルドのピアスが淡く光る。
みぞおちあたりに差し掛かったとき、僕は彼女の手首をそっと掴んだ。
「…もう、やめてくれ。治さなくていい。」
レインは困惑したように僕を見る。
「変なこと言わないで。早く治さないと本当に死んでしまうわ。」
手を止めようとしない。
「治しても、しょうがないんだよ。回復しても、またレックスたちにやられて終わりだ。意味がない。…僕に、治す価値なんて無いよ。」
「…じゃあ、死んでもいいっていうの?」
レインは珍しく目をうるませて僕を睨んだ。何か言いたそうに口を開きかける。でも、なにも出てこない。僕は、目を逸らした。
…僕って、馬鹿だ。
「…今死んだら、もう苦しまずにすむんだ。僕はお前が嫌いだ。お前が治すから、僕は毎日痛い目を見なくちゃいけないんだ。もう、ほっといてくれ…。」
自分で言いながら、その言葉たちに何の重みも、意味も無いことを、僕自身が一番痛感していた。
「…バカ。」
レインは一言呟き、再び治し始めた。
昨日と同じように。
一昨日と、同じように。
これからもこんな日々が続くのなら、本当に生きる意味がないみたいだ。
僕はレインへの申し訳なさと不甲斐なさを感じながらも、どうすることもできずただ彼女に身を任せた。
レインに肩を貸してもらい、なんとか部屋にたどり着く。
レインと別れ、僕はベッドに突っ伏した。
火傷はレインが治してくれたが、横腹の傷は回復しきらなかった。傷が深くてレインでもすぐには治せないらしい。代わりに、包帯を巻いてくれた。
ボーッと昼過ぎの天井を眺めていると、ノックの後に部屋の扉が開く。
「チュウ」
入ってきたのは、ネズミだった。
何やら鳴きながら、僕の寝床に這い上がってくる。
気味が悪くなって追い払おうとしたが、脇腹が傷んで体が上手く動かせない。ネズミはすばしっこく僕の胸の上に乗り、僕の目を見つめた。きっとトーマスのだ。あいつはネズミを妹のように可愛がっている。
なんだか、今日のネズミはどこかいつもと違った。
妙に目が熱っぽく、呼吸が荒い。ネズミが小さく鳴きながら僕の脇腹の包帯を撫でる。
その瞬間、僕の中で何かがぷつんと切れた。上体を起こしてネズミを掴む。
ネズミは拒むように僕の手の中で暴れた。
ネズミにすら馬鹿にされている。その事実が、どうしようもなく僕の感情を昂らせた。
「チュウチュウ」
ネズミが抗議するように甲高い声で鳴く。
苦しいようだ。
顔が青白くなり、口から泡を吹く。
僕は首を絞める手を緩めなかった。
ネズミの両目がひっくり返り、涙が頬を伝う。僕はただただくだらない復讐心に駆られていた。
ネズミの動きが鈍くなる。
鳴き声が掠れ、何も聞こえなくなる。
最後に激しく痙攣し、小さな生き物は僕の手の中でだらんと脱力し、動かなくなった。
だんだん体温がなくなっていく。死んだ。
死んだ!?
唐突に、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。
強烈な吐き気に襲わる。
死んだ。死なされた。
…殺した?僕が?
指が強ばって開かない。
ネズミを離せない。
僕は一種のパニックに陥っていた。
ムカムカをネズミの頭に思いっきりぶちまける。
臭い!
こ、こんなところ誰かに見られたらどうなる?
し、死ぬ。殺される。
僕は自分の口から漏れ出す嗚咽を否定するように、ベッドから転げ落ちて部屋で暴れまわった。横腹の傷が開き、血が吹き出す。
誰か助けてくれ!いや、やっぱり誰も来ないでくれ…!
部屋の外で、こちらに向かってくる足音。
僕は息を殺して目を見開き、扉を凝視した。
足音が部屋のすぐ前で止まる。
ドアノブに手をかける音。そのままドアノブが周り、扉が開く。




