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第十四話 逃亡

すぐ近くで狼の遠吠え。


「囲まれたな…。」


ハオランが唇を噛む。


最初の遠吠えは数時間前だった。

昨日と同じように夜の森を進んでいるうちに、微かだった遠吠えが近づいてきて、気づけば包囲されていた。


闇の中から、灰色の巨体がぬらりと姿を現わす。一匹や二匹じゃない。数十匹の狼。

僕らは背中合わせに膠着していた。リヴェンが長剣をそろそろと引き抜く。

狼たちは異様に目が血走り、ボロボロの牙の隙間から涎を垂れ流している。肉の腐った匂い。


「こいつら、山から降りてきたんだ。」


リヴェンが両手で剣を構えながら、震え声で言う。

…確かに、僕がこの森で見たことのある狼とは随分違っている。ここらの狼はこんなに大きくないし、毛もふさふさじゃない。ここより寒い場所、雪山から降りてきたんだろう。それに、なんだか様子が変だ。狂犬病のようにラリっている。


永遠に続くかのような膠着状態。崩したのは、狼側だった。一匹が狂ったように吠えながら飛び出し、一斉に襲い掛かってくる。


「皆離れるな!」


ハオランが叫ぶ。目の前に巨大な狼が躍り出る。


「ストーム!危ない!」


レインの声。緑色の光りがカッと照らす。狼が口から肉塊がドボドボと流れ出る。

ハオランの詠唱が聞こえ、リヴェンの剣が狼を切り裂いていく。


__僕も何かしなければ!でも、何を?指輪を使えば誰かを巻き込むかもしれない。また、人間を殺してしまうかも…。


指輪に触れてうずくまる。


頭上で仲間と狼の咆哮が混じりあう。血や千切れた腕が振ってくる。


ひと際鋭いリヴェンの叫び声。見ると、彼の右腕に狼が噛みついていた。

湧き出る血。

彼の指の力が抜ける。

剣が、地に落ちた。

次の瞬間、それをハオランが拾い上げる。一切の躊躇なく、狼の頭蓋に突き刺す。


静寂。森が息を止める。


狼たちはそれを見て、一匹、また一匹と逃げ出していった。


「こいつがボスか。」


ハオランが剣を引き抜き、狼を投げ捨てる。


「リヴェン、大丈夫か?」


リヴェンの右腕は狼に噛み砕かれてぐちゃぐちゃになっていた。顔を真っ青にしてガタガタ震えている。


「レイン、治癒できるか。」


「ええ。短剣を。」


レインがハオランから短剣を受け取り、傷口を削ぐ。リヴェンが痛みに顔を歪ませて叫ぶ。

ハオランが暴れるリヴェンを押さえつける。


「我慢してちょうだい。狼は魔王の毒に侵されていたから、全身に回る前にこそぎ落とさないと__」


レインは淡々と治癒していく。

僕はただ、腰を抜かして見ていることしかできなかった。





狼に襲われて疲労困憊だった3人は、寝床を見つけると暗いうちからすぐ眠ってしまった。

僕は最初の寝番を買って出た。…それくらいしかできることがないのだ。三人は何も言わなかったけれど、僕をじれったく思ったに違いない。だって、あんな力を見せつけていながら、何もしないんだから!

…リヴェンが剣を使えたのも、知らなかった。愈々、役立たずは僕だけだ。


「ストーム、寝番代わるぜ」


数時間後、ハオランに肩を叩かれ、僕は首を振った。


「まだ寝ていて。僕は、疲れていないから。」


ハオランはあくびをして隣に腰を下した。


「…そうかい。だが、睡眠は大事だぞ。眠くなったらすぐ代わるからな?」


短く唱え、空中に明かりの球を出す。橙色の光りが柔らかく手元を照らす。


ハオランは紙とペンを取り出し何やら書き始めた。…いや、ペンじゃない。昔、フォーイェンの商人が売りに出していた。木でできた細い棒の先に、ふさふさの毛。…確か、筆と言っていた。

覗いてみても、見たことのない文字で読めない。


「何を書いているの?」


聞くと、ハオランは手を止めて筆を鼻の上に乗せた。


「手紙さ。リヴェンのことでな。あいつ、さっき腕を酷く怪我しただろ?レインに治してもらいはしたが、まだ不安なんだ。助けてくれる人間…じゃないな。知り合いがいる。その人宛に。」


そう言ってまた書き始める。


数分後、ハオランは紙を丸めてから革ひもでユエの足に括りつけた。


「よろしくな」


ユエの鱗を撫で、お札を取り出す。彼は小声で唱えながら、ユエの額にお札を張り付けた。

途端に、ユエの姿が霞んでいく。見ていると、ユエは宙に消え去ってしまった。


「怪我しているのに、配達はできるの?」


「契約を交わした相手の元へ行けるんだ。飛んでいくわけじゃないから、翼が使えなくても移動できる。」


瞬間移動みたいなものか。


「無理すんなよ?」


ハオランは眠そうにそう言って、再び横になった。浮いていた光の玉も消え、暗闇と静寂があたりを満たしていく。


今回の秘密基地は巨大な倒木だった。幹の中はとうに朽ち果てていて、ちょうどいい寝床になる。


空が明るみ始めても、僕は誰も起こさず、寝番を変わらなかった。それがせめてもの償いだと思った。どうせ目を瞑ったって眠れやしないから適任だ。


ボーっと倒木の外を眺める。


太陽が真上に登った時、突然、足元が揺れた。

すぐ頭上でメキメキとけたたましい音。直後、頭に固い何かが触れた。


違う。頭をがっちりと掴まれている。


僕は一気に外へ引っ張り出された。地面がぐんぐん遠ざかっていく。

ガーゴイルだ!ガーゴイルが僕の頭を足で引っ掴んで上昇している。


角笛の音。長く太い振動が空気を震わせ森全体に広がっていく。


「離せっ!」


暴れてもびくともしない。足元で、倒木に大きな穴が開いているのが見える。…居場所が気づかれていたんだ!


ガーゴイルは僕を掴んだまま樹冠を突き抜けた。一気に視界が開ける。


「…!」


なぜ気づかなかった。


あたり一帯が、燃えている。倒木を取り囲む歪な楕円形の火の手。

僕らは囲まれていたのだ。

外側の森は何キロにも渡って焼失していた。…魔王はこんなことをしてまで僕らを見つけ出したかったのか…?どうして?


ガーゴイルはどんどん高度を上げていく。倒木が豆粒のようになる。

遠くに、山脈の向こうが見える。

魔王城から北東へ向かって何筋もの黒煙。

__魔王軍が、進攻しているのだ。


その行く先は多分__。


突然緑色の矢が目の前に現れる。

矢はガーゴイルの右翼を正確に貫いていた。

ガーゴイルの重心がぶれ、宙に放り出される。


…なんだか、デジャブだ。

地面に激突する寸前、僕の体は急激に減速した。ふわりと尻もちをつく。


「ストーム!大丈夫?」


レインに抱きつかれる。


「すまない。俺がお札を貼るのを忘れていたから…。」


ハオランが言う。僕は気持ち悪くなって吐きそうになりながら見たことを報告した。


「…僕ら、火の手に囲まれているみたいだよ。さっき空から見えたんだ。半日くらいでここも火の海になるだろう。それと__」


「なんだ」


「__魔王軍は、新王都へ向かって進軍している。まだ大河は越えられていないけれど、僕らより先に王都へ到着してしまうかも知れない。」


ハオランが唇を噛み、リヴェンが息を飲む。


「__今は、自分の命を守るのが最優先だ。早く逃げるぞ。」


ハオランが鞄を背負いながら言う。


「逃げるってどこへだよ!囲まれてるんだぞ」


リヴェンは顔を青くして聞いたが、ハオランはニヤリと笑って走り出した。


「囲いを突破するしかないな。…まだ日は落ちてないが、そんなこと言ってる暇はなさそうだ。行くぞ!」


倒木を飛び出し、駆ける。頭上ではガーゴイルが集まり始めている。


弓矢が降り注ぐ。

空中から攻撃できるガーゴイルと、地面を走ることしかできない僕らとじゃ、正に天地の差だ。レインがバリアを張る。矢の半分くらいは木の幹や枝に突き刺さって届かないが、量が多すぎる。


「やつらは木の間を縫って飛べるほど器用じゃない!密集帯を行くぞ!」


ハオランが号令する。確かに、ガーゴイルたちは樹冠をくぐって攻撃してこない。


走って脇腹が千切れそうだ。喉の奥で鉄の味がする。呼吸が掠れる。


「わっ」


しばらく走り、ハオランの背中に激突する。


「…行き止まりだ。」


ハオランが呟く。目の前に、メラメラと渦巻く業火の壁。

ハオランは詠唱を唱え始めた。後ろからはゴーレムの大群が押し寄せている。


両手を突き出し、広げる。

次の瞬間、炎が、割れた。左右に、崖のように。

黒焦げになった地面が露になる。


「ダメだな…」


ハオランが苦笑する。割れた炎の先には__炎があった。どこまでも限りなく続いている。


そこから現れる、一本の腕。鋭い爪の生える節くれだった指。固い毛で覆われた、獣のどす黒い腕。

みるみるうちに全身が露になる。

悪魔を具現化したような生物。額に冠のような角。山羊の瞳。図体が僕の3倍はある。屋敷の召喚部屋で見た姿が重なる。


脱力したかと思うと、そいつはハオランに飛びかかった。

リヴェンが素早く剣を引き抜き、攻撃を受ける。重圧に足が地面にめり込んでいる。袖の下で紫に変色したミミズ腫れが蠢く。


「ハオラン!」


リヴェンが歯を食いしばり、ハオランが詠唱を叫ぶ。悪魔の顔に切り傷が現れるが、浅い。悪魔がリヴェンを投げ飛ばす。リヴェンは後ろに吹っ飛び、木に激突した。


目のすぐ横を弓矢が通り過ぎる。見ると、レインのバリアがボロボロになっていた。


悪魔とハオランがぶつかる。リヴェンが駆け寄って加勢する。


炎に囲まれ、逃げ場は無い。ここを抜けたところで、外ではガーゴイルから守ってくれる木も灰になっている。


__死ぬのか?このまま何もせずに?


ハオランが膝をつき、また立ち上がって詠唱を叫ぶ。

リヴェンはボロボロになった剣で悪魔に攻撃し続けている。

レインのバリアが輝きを放つ。


だが、攻撃は止まない。ガーゴイルの数はさらに増していく。炎の向こうから悪魔たちが次々と姿を現わす。


指輪を握る。火傷するような冷たさ。吐き気がこみ上げる。


「指輪の力、使いたいんだろう?」


声に、足元を見る。

黒猫と目が合う。


「昔話をしよう。」

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