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第十二話 鹿

「ここが森でよかった。なるべく腰を低くして、木の陰に隠れながら動こう。」


ハオランが小声で言う。

幾重にも重なる葉の隙間から、ガーゴイルの姿がちらっと見える。思ったより、近い。互いに一定の距離を保って空を徘徊しているようだ。まるで、何かを探し回るような…。


…僕らを探しているんだ。唐突に気づく。


でも、なぜ?せっかく魔王城から解放されたんだから、とっとと村や人里を支配して回ればいいのに。なんで僕らに執着するんだ。お辞儀をしたのも、テラと言っていたのも、ただの人違い?悪魔違いかも知れないけど、どこか引っかかる。


…分からないことを考えても仕方ない。僕らは木から木へ、陰から陰へ用心しながら移動していった。ここらへは散歩しに来たことがあるから、迷子にならない自信はある。


「これ、食えそうだな。」


ハオランがしゃがみこんで言う。見ると、倒木にキノコが密生していた。

腰に下げた袋にキノコを五つくらい入れる。


「このあたりに、川はないか?水を汲んでおきたい。」


「近くに小川がある。案内するよ。」


その川をたどっていけば、屋敷に着く。さらに上流まで行けばもう一つの運河と合流しているのだ。__ひと際大きく燃やされていた場所。


五分ほど歩き、僕らは小川にたどり着いた。ハオランが革袋を取り出す。


対岸に二つの影。

鹿だ。雌鹿が小鹿を連れて小川の水を飲んでいる。

ハオランが舌なめずりをする。


「狩猟には魔法を使わないようにしてきたが…今はしょうがない。」


ハオランはその場にひざまずき、顔の前で両手を併せて目を閉じた。

雨の匂い。

しばらくそうしてから、再び立ち上がり小声で詠唱を唱え始める。鹿は気づかない。


風が、静かに木々を揺らしていく。見ていると、ふっと、親鹿が膝をついて倒れた。驚いた小鹿が駆け寄る。

甲高い鳴き声が、森に響き渡る。


「…小鹿も殺そう。」


僕が言うと、ハオランは少し黙り、再び詠唱を始めた。


鹿を回収するには、木々の屋根がない川を渡るしかない。


「ガーゴイルが見てない隙に、渡るぞ。」


ハオランが空を注視しながら言う。近くに二匹のガーゴイル。幸い、小鹿の鳴き声を訝しんではいない。二匹とも別の方向を向いている。


ハオランが、雨で濡れた岩の上を飛ぶように渡る。物音ひとつ立てない。渡りきると、こっちを振り向いて手を振った。…僕はあんな風に身軽に動けない。


「手伝ってやろうか?」


肩に乗ったオニキスが囁く。


「手伝うって、どうやって__」


オニキスはニヤッと笑い、僕の左手の指輪にかぎ爪を引っかけた。そのまま、指輪に吸い込まれていく。直後、全身に変な感覚が伝う。


『体借りるぜ』


頭の中で声がしたかと思うと、足がひとりでに動き出した。叫びそうになり、慌てて口をふさぐ。オニキスが動かしてるんだ。足を踏み出そうとして、よろけて転ぶ。落ち葉が舞い上がる。


『力抜け。』


そんなことできるかよ!


『寝転ぶ感じで!やってみろ』


ハオランが怪訝そうに見ている。僕は、しぶしぶ言われた通りに脱力した。倒れこむつもりで。…だが、ちゃんと立てている。勝手に口角が上がる。


体が浮く。僕の体はふわっと飛び上がった。着地する直前、思わず力む。


石の上で足を滑らせる。


「うわっ」


水が跳ねる。

けたたましい音が一帯に響く。


「まずい!」


舌が勝手に動く。二匹のガーゴイルと目が合う。


ハオランが素早く詠唱を唱え、一匹が川に落ちる。同時に、彼は地面に膝をついた。魔力切れだ。

考える間もなく、右手で指輪に触れる。オニキスが指輪を使おうとしているんだ。

指先から、指輪の冷気が体内を侵食していく。再び吐き気がこみ上げる。


「__嫌だ!使いたくない!」

「わがまま言うな!」


自分に叫び返される。頭上で、残ったガーゴイルが何かを取り出す。巨大な角笛。


仲間に知らせる気だ。


オニキスは舌打ちし、川岸の石を掴んだ。そのまま空に放り投げる。角笛に直撃し、粉々にする。

地面を強く蹴り、空中へ飛び上がる。次の瞬間には、地面が何メートルも下にある。ガーゴイルの口の中に手を突っ込む。


「おぎゃあああ」


僕の悲鳴とオニキスの掛け声が同時に舌をひねる。

両手でガーゴイルの上顎を掴む。一瞬、天地が逆転する。勢いに任せて体を回転させ、巨体を地面に叩きつける。


「どうだ!」


オニキスは猫のように着地し、自慢げに胸を張った。ガーゴイルは伸びて動かなくなっている。


「さっさと出てってくれ!」


僕が声を抑えて叫ぶと、オニキスは口を尖らせて猫の姿に戻った。こんな騒ぎを起こしたのだ。奴らにバレるのも時間の問題になってしまった。


「ハオラン!大丈夫か?」


急いで駆け寄る。


「ああ。早くここを離れよう。」


木に寄りかかって言う。その様子を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「…水を入れてくるよ。」


ハオランから革袋を受け取り、水でいっぱいにする。

いつの間にか、落ちたガーゴイルは二匹とも消えていた。…まさか、もう飛んで行ったのか?


「消失したんだ。」


オニキスが僕の不安を感じ取って言う。僕はそれを無視してハオランのところへ戻った。

ハオランが親鹿を、僕が小鹿を抱える。まだ温かい。僕らは駆け足で洞窟へ帰った。





洞窟の中は、暖かい空気で満たされていた。レインの焚火のお陰だ。外気に凍えていたから、一気に気が抜ける。


「おかえりなさい。」


レインが、僕らに気づいて立ち上がる。

彼女は鹿を見て目を驚いたように目を見開いた。


「ガーゴイルに気づかれた。」


ハオランが鹿を投げ出して告げる。


「何があったの?」


レインに聞かれ、僕はさっき起こったことを全部話した。レインは顔色一つ変えずに聞いていたが、僕が話し終わるとオニキスを射るような視線で睨んだ。


「ウラ…オニキス。いらないことはしないでちょうだい。あなたがいなくても私たちは旅をできるの。むしろどこかへ行ってしまったほうがマシだわ。」


オニキスは怖がるようにレインをちらっと見て、一声鳴いた。白々しいと思ったのは僕だけではないだろう。

それにしても、レインがオニキスを呼び間違えるのはこれで二回目だ。何かあるのか…?もしかして、ウラヌスというのがオニキスの本名なのだろうか。黒猫は頭をかすかに横に振ったように見えた。


「腹が減って叶わねえ!」


ハオランが叫ぶ。彼は今にもかぶりつきそうな勢いで鹿を掴んだ。腰の短剣を抜き、一気に肛門から首辺りまで切り裂く。血の匂いに胸やけする。


「ストームも、やってみるか?」


そういって僕に別の短剣を寄越す。僕はハオランの隣で、彼の見よう見まねで小鹿に刃を入れた。すぐに両手が血まみれになる。


ハオランは慣れた手つきで皮を剥ぎ、血抜きをしていった。どこからか湧いたハエがうるさく飛び回る。


「フォーイェンの子どもは15になると成人儀礼をするんだ。」


ハオランがおもむろに口を開く。


「三日間、ロンシャンって山で生き残れた者だけが成人と認められる。死人が出る年もあるから、成人していない奴は死なないために死ぬ気で、一人で生きる術を会得する。」


洞窟の岩肌を血が流れる。細かく解体し終える頃には、洞窟の空気は鹿の血のむせ返るような匂いで充満していた。


森で拾った木の枝を鋭く削り、串を何本か作る。レインがハオランから鹿肉とキノコを受け取り、串刺しにして焚き火にくべる。いつの間にか三人それぞれに役割が与えられていた。


「食べ終わって一休みしたらここを出ましょう。移動は夜の方が良いわ。」


焼けたキノコを頬張りながら、レインが言う。僕も試しに一本口に運んだ。案外柔らかくて美味しい。ハオランがどこからか瓶を取り出して、肉に振りかける。塩味が加わって美味しさが際立つ。


「旅の間は寝番を立てよう。今日は俺とストームで交代で、いいな?」


ハオランの言葉に頷く。レインは早速壁を向いて寝てしまった。


「…さっき、ガーゴイルが”テラ様”って言ってたよな。ドラゴンの上にいる誰かに呼びかけてるようだった。」


鹿肉を堪能していると、ハオランが口を開いた。


「僕もそう思った。」


「テラって、お前のことなんじゃないか?」


真剣な顔。


「…僕の名前は、ストームだ。」


「本当に?ザイオンが、勝手にそう呼んでただけかも知れない。」


…ザイオンが呼んでたんなら、それが本名でいいじゃないか。たとえ、親につけられた名前と違っていたとしても。

僕が黙っていると、ハオランは再び口を開いた。


「…ユエは、フォーイェンの王族が代々使役してきた使い魔なんだ。大昔からな。リヴェンの腕輪も、あいつの師匠が渡したもので歴史は深い。でも、その指輪は」


首を傾げて僕の指輪を見る。


「どこから出てきたのかも分からない。初め透明だったんなら、ストームが一人目の主人なのかも知れない。…その悪魔の、一人目の主人かも知れないということだ。」


『ご名答』


オニキスが頭の中で言う。何だか楽しそうだ。


「オニキスといったか?それが本当の名前かもわからない。…魔術の世界では、真名は大きな力を持つんだ。特に、命や魂に関わる呪文ではな。」


「何が言いたいの?」


「自分が知らずに、相手に名前を知られているのが一番マズいんだ。…とにかく、気をつけろよ。」


雨音が響く。


前半の寝番はハオランに任せて、僕は洞窟の硬い土の上で横になった。

雨音とリヴェンの唸り声。目を閉じると、瞼の裏の闇に目が回る。今まで寝るのに苦労したことなんて無かったのに。

何度も寝返りを打っていると、オニキスが僕の頭の上に寝っ転がった。


「重い…」


頭から下ろして抱き枕にする。オニキスは人形のように成されるがまま、僕の腕の中に収まった。

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