第十話 崩壊
向かい風が頬を切り裂いていく。
見渡す限り、空。世界が灰色だ。
いつもハオランが肩に乗せていた小さなドラゴンが、まさかここまで巨大化できたとは。その頭だけで僕の身長くらいある。大きくなったとはいえ、ドラゴンは一気に4人もの人間を乗せて危なっかしく揺れていた。鞍や手綱の代わりに、背中に生える豊かな毛を握りしめる。
魔王城の方向を目指す。深く被ったフードの隙間から遥か下の景色を観察する。
小川は、あんな風に流れていたのか。村の位置は、形は、あんな感じだったのか。
いつも等身大で見ていた景色が、空中からだと全く別のものに見える。
…進行方向に、豆粒くらいに小さく屋敷が見え始める。そのすぐ背後に広がる森に、黄土色の試験場。ザイオンはどうなっただろう。今も一人ぼっちで森の中に…。
冷たい風が擦り向けた両腕を侵食していく。
顔をしかめると、後ろに座るレインが心配そうに言った。
「今治してあげるから」
腕を触ろうと手を伸ばしてくる。僕は振り向かずにレインの手を払いのけた。
「このままでいい。」
声は相変わらずしわがれている。この痛みが、僕を許してくれている。これを忘れてしまったら、また僕は__。
レインは口を閉じ、しばらくおし黙った。背後でゴソゴソと音がした後、細長い布を持った手が伸びてくる。…いらぬお節介だ。僕はレインを睨み、彼女の手を避けた。服の裾がボロボロになっているのが目に入る。
レインはそれでも僕の腕を掴み、とうとう包帯のように両手をグルグル巻きにした。目をそらし、足元の風景を眺めるふりをする。…もう、何も考えたくない。
ふと体温を感じて視線を落とすと、いつの間にか膝の上に黒猫がいた。
「オニキス、ついてきてたのか。」
黒い毛並みを撫でると、オニキスは本当の猫のように喉を鳴らした。
「その猫、ストームの知り合いだったのか。」
前方に座ったリヴェンが振り向きざまに言う。彼が撫でようとすると、オニキスは僕の背後に回ってその手を避けた。リヴェンがオニキスを睨む。
先頭でドラゴンの舵をきるハオランが口を開く。
「ストームが連れて行かれた後、その猫が屋敷まできて君のところまで連れて行ってくれたんだ。…真夜中だったが、レインがどうしても今行くって聞かなくて___」
「ギャッ」
後ろで鋭い悲鳴。振り向くと、レインがオニキスの首根っこを掴んで凄い形相で睨んでいる。別人みたいな表情をする彼女に驚いていると、レインはすぐにはにかんだように笑った。
「うげえ」
オニキスの言葉に、首根っこを、いや、首を掴む手に力を入れる。レインに首を締められ、オニキスは窒息死しそうにだらんと舌を下げた。
「か、勘弁してくれえ」
「喋った!」
リヴェンが目を引ん剝く。ハオランももの珍しそうに目を細めた。
「私、猫が嫌いなの。」
レインは笑みを貼り付け、声の震えを隠せずに言う。そのまま投げ捨てられそうになるオニキスを、すんでのとこで受け止める。
「ひどいことしやがる…。」
オニキスは涙目になり、さっきよりも数倍ほど体を縮めて僕の足の中に収まった。リヴェンは、喋ったことが信じられないという目でオニキスを眺めている。
「…何だあれ。」
ハオランの言葉に、彼の見ている方、ドラゴンの進行方向に視線を移す。
地平線の近く、城周辺の地面に、小さい赤が密集してあちこちに見える。
火事だ。
赤い炎が鮮やかに燃え上がり、森の木々や村の一部まで燃やしている。細く長い煙のすじが地表と天空を繋ぐ。火事は水平線の向こうから始まり、屋敷の裏の森に向かってきているようだ。まるで、巨大な生物の足跡のように。
「ただの山火事には見えないな」
ハオランが言う。じっと見ていると、しだいに細かいことが分かってきた。炎の近くで蠢く無数の影。
「魔王の軍団だわ。」
レインがそっと呟く。
「魔王…?魔王は王都に封印されているんじゃないのか?」
ハオランが信じられないという風に聞き返す。実際、僕もにわかには信じられなかった。だって、魔王は10年前に封印され、それから今まで一度も外には出れずに籠城していると聞かされてきたから。
「まさか…封印が解かれたのか?」
リヴェンが顔を青くして言う。
「…よく見て」
レインの視線の先、前方の木々の隙間から、黄土色の靄が立ち昇ってきている。…いや、違う。靄じゃない。動いている。おびただしい数の生物が、空を支配し始めている。
「おい、あれ…」
ハオランが水平線を指さす。
巨大な青い膜が、魔王城を覆うように構築されていく。
「もう一度封印しようとしてるんだ」
リヴェンがぼんやりとつぶやく。僕らはドラゴンの背中で固唾を呑んでその光景を見守っていた。まるで分厚いガラスを一枚挟んだ、別世界のよう。音も、匂いも何もなく、ただ視覚だけに情報が伝わってくる。
半円が完全に城を覆い隠そうとしたちょうどそのとき、眩い漆黒の光が、城のてっぺんから太い柱のように天空へ昇った。その直後、青い膜があっけなく崩壊する。
「ああ」
リヴェンが涙目に呟く。
僕は居ても立ってもいられなくなり、ハオランに言った。
「助けに行こう。このままじゃ、また10年前みたいになってしまう。」
ハオランは首を振り、方向転換して城とは逆の方向へドラゴンを導いた。
「無理だ。間に合わない。それに、今行ったところで…俺らにできることはない。」
なんで今弱気になっているんだ!
「そもそも、元から魔王城へ行こうとしてたじゃないか!」
ハオランはこっちを向かず、前方を見据えて淡々と言った。
「俺たちは屋敷を出た後に、王の軍隊と合流してから城へ行く予定だったんだ。」
「なら、今から合流すればいい!」
ハオランは振り返って地上を見やる。
「あそこ、川と川が交わるところ、見えるか。」
屋敷から王都へ行くまでの道の途中にある、巨大な運河の合流地点。そこに、ひと際大きな炎が燃え上がっている。
「軍隊がいたのは、あそこだ。」
背筋が冷えていく。
「…じゃあ、これからどこに__」
「伏せてっ!」
レインの言葉に、とっさに体勢を低くする。ぴゅうと風を切る音がし、その直後、真上を一本の太い矢が通り過ぎていく。唖然として落ちて行く矢を追っていると、突然ドラゴンが激しく揺れ、危うく振り落とされそうになる。
どうやら、ガラスはぶち壊されたみたいだ。
「マズいな…」
ハオランが後ろをちらっと見やる。
__振り向きたくない。それでも、視界の端に黄土色の影が近づいてくるのが映る。
いぼだらけの皮膚。ちぐはぐに折れ曲がった関節。身の毛もよだつような醜い顔。
巨大なコウモリの羽を背負った、石の身体。
ガーゴイルの大群が、空を覆い尽くす勢いで迫ってきている。
全員が骨でできた弓を持ち、僕らに向かって構えている。
恐怖に目を見開く。しかし大群は突然、静止画のように止まった。
その中でも、飛びぬけて図体の大きい一頭が前に進み出る。
「テラ様」
ガサついた、隙間風のような声。
「ご無礼をお許しください。ここからは我々が引き継ぎます。」
訳の分からないことを言って、そいつはかぎ爪の生えた手を胸の前に添え、腰のところで上半身を折った。__お辞儀をしたのだ。それも、並大抵の人間は敵わぬほど優雅に。あの、ガーゴイルが!
呆気にとられていると、レインが目の前で前触れもなく立ち上がった。
ゆっくりと、ドラゴンの上で両腕を伸ばす。どこかで見覚えのある構え。
弓を引くときの動作だと気づいた直後、彼女の細い指先が何かを解き放つ。
ヒュッ
空気が、裂ける。
何かが飛んだ。
__見えない。
遠くで、お辞儀をしたガーゴイルが体をのけぞらせる。
矢。
直後その眉間に、一本の緑矢が出現する。
眼の前で、レインは弓を引いたポーズのまま静止している。その顔を見上げてみるが、何の感情も読み取れない。
一秒の静寂を打ち破り、凄まじい怒号がビリビリと空気を震わせる。
何百ものガーゴイルたちが、一斉にこっちへ突進し始めた。巣を破壊された蜂の群れのように!
それを見て、僕らも我に帰る。
「逃げるぞ。」
ハオランの声に、リヴェンの絶叫が重なる。
「しがみつけ!」
そう言って、ハオランはドラゴンに向かって知らない言葉で叫んだ。ドラゴンがうなずくように顔を上下させ、翼を大きく羽ばたかせる。ぐん、と体に負荷がかかる。頭が置いて行かれる。
ドラゴンの背にしがみつくと同時に、ゴブリンたちの攻撃が始まる。
一斉に矢が放たれる音。
レインが空中に巨大なバリアを展開し、弾き飛ばす。
僕は左手の指輪を触り、手を前に突き出して加勢しようとした。
その瞬間、耳の奥でザイオンの頭が潰れる音が響く。白目をむいて泡を吹く群衆の顔。
胃がひっくり返る。喉が焼ける。僕は我慢できずにドラゴンの横に吐いた。嗚咽だけが漏れ出る。…クソ!なんで僕はいつもこうなんだ。
足元が激しく揺れる。ひと際大きく、炎をまとった弓矢がレインのバリアに直撃した。
レインのピアスがまばゆく光る。腕を張り弓矢に対抗しているが、矢の勢いは収まらない。意思を持って、バリアを破壊しようとしている。
「ウラヌス!見てないでなんとかしなさいよ!」
レインが叫ぶ。…ウラヌス?誰のことだ?
「いやあ、そうは言ってもですね。主様が動かないことにはどうにも…」
オニキスが、僕とドラゴンに挟まれてほとんど押しつぶされそうになりながら気の抜けた返事をする。
「ウラヌスって__」
僕が聞きかけたとき、レインのバリアが崩壊した。あっという間に小さい粒となって空中に離散する。
足元が消えた。体が浮く。
いや、浮いてるんじゃない__落ちている。
とっさに背中の羽毛に手を伸ばす。届かない。風が顔を叩く。炎の矢が、ドラゴンの翼の付け根に突き刺さっている。森が迫ってくる。
地面に激突する直前、遠くの空で渦巻く巨大な黒渦が目の端に映る。僕の意識はそこで途切れた。




