その先に
今日もスピーカーからはTM NETWORKが流れている。
「BEYOND THE TIME (メビウスの宇宙を越えて)」
ジェラピケのブルーのモールワンピに包まれたあたし。
どうしてこう肌触りがいいのかしら。
気持ちいいのよほんとに。
カツラは、ゆるウェーブのプラチナブロンドのボブ。
マリリン・モンローみたい?
マドンナみたい?
って、誰も言ってくれないのよ。
え?
なんて?
古典的なホラー映画の最初の犠牲者。
あんた。
笑ったわよね。
次は、あんたの番よ。
ほら。
あんたの後ろに……。
そして、今夜もこのひなびたバーに、ジャックとカルーアしか置いてないカウンターに、またひとり転がり込んできた。
「こんばんは」
低くて厚みのある、心地良い声。
「いらっしゃい」
男はベレー帽を目深にかぶり、年季の入った濃いベージュのトレンチ。
ノーネクタイのワイシャツに、チャコールグレーのスーツ。
あたしはジャックのボトルを開ける。
男はうつむき加減に、鋭い眼光を僅かに揺らし店内を一巡させ、三つある丸椅子の一番奥に腰を掛けた。
さりげなく切り替える音楽――
『Don't Look Back in Anger』オアシス。
あたしは琥珀色のグラスを差し出す。
「どうも」
男が飲んでいる間に、あたしは枝豆の皿をそっと置いた。
黙ってそれに手を付ける男。
きれいに切りそろえられた爪。
太い指に厚みのある手。
それを横目に、あたしは自分の分のジャックを注ぐ。
男はその視線であたしや店内を観察している。
隙があるようでない。
「刑事ね、あんた」
男は片方の口の端を持ち上げて笑う。
「ママはスパイかな?」
あたしも同じようにニヤリと笑う。
「何で分かった?」
そう言いながら、男はグラスの氷を指で回している。
「あらやだ、認めちゃうの?」
鼻で笑い、男はジャックを口に含む。
そして、少し顔をしかめると、カウンターに乗せた腕を組んだ。
「……今年で退官したんだ」
「あら、それはお疲れさまでした」
あたしは別のグラスにジャックを注ぐ。
「これは、あたしからのおごり」
「そりゃあ、ありがたくいただこう」
男は最初のグラスを空ける。
「で、ママは、どうして俺が刑事だと分かった?」
帽子に隠れていて見えなかったけど、眉間に刻まれた深いしわが男の歴史を物語っているようだった。
店に入って来たときよりは、温和な眼差し。
「うーん。まずは、何かを探ろうとしている目つき。それから左手にだけ硬いタコ。これって剣道やってる人でしょ?」
「それだけか?」
あたしがグラスを揺らすと、 琥珀がその縁を波打つ。
「結婚指輪をしていない。今は緩和されたみたいだけど、昔は出来なかったって聞いたことがあるわ」
「……独身かもしれない」
「それはないわね、ワイシャツはきっちりアイロン、スーツも同じ。あんたの年代って、そういうのって奥さん任せでしょ?」
ハハハと肩を揺らして男は笑う。
「決め手は靴ね。靴底がすり減ってる……」
でも、退官したはずよね。
何かまだ、捜査しているのかしら?
「お見事」
グラスを掲げ、元刑事はジャックを流し込む。
「もしかして、警視庁の赤バッジだったりして」
「ほう……」
目を細める男の表情は驚きよりも、感心、いや興味を含んでいるように見えた。
「あっ、これは当てずっぽうね」
あたしが投げたウインクを、茶目っ気のあるウインクで返してきた。
この元刑事はお堅いだけじゃないらしい。
間が空かないように次の音楽へ。
ASKA「晴天を褒めるなら夕暮れを待て」
枝豆を口にして、あたしはジャックをゴクリ。
「じゃあ、元刑事のあんたの目に私がスパイって映った理由、聞きたい」
グラスを置いた元刑事は少し屈みながら、あたしの少し脇を見つめる。
「そーだな、まずその格好」
人差し指を上下させる。
「あら、そう?」
「ブロンドにボブ。アメリカ映画じゃ出来るスパイの典型だ」
あたしは、ブロンドを耳に掛け、腕を組んで元刑事に微笑みを返す。
「それに、この店の大きさ。カウンター席に丸椅子三つ。売り上げを重視している訳ではない。それでいて、壁も床も棚も埃がなくて整然としている。配置を覚えやすい」
「その裏口は、恐らく別の通りに出られる。外からの気配にも気づきやすく逃げやすい。会合や取引にはうってつけの地の利」
元刑事はジャックで口を湿らす。
「……ママの手元にある、なんだろうタブレットか何かあるんじゃないか? それは音楽を変えるためだけのものじゃない……とか」
「そして、何よりもママの風貌。カツラやメイクで誤魔化しているけど……素顔を知る者は少ないのではないかな?」
一気に、よどむことなく畳みかける。
圧こそはないけど、まるで取り調べを受けているよう。
ただ、元刑事は視線を合わせようとはしなかった。
「……あら、素顔を見たらあんた、消すしかないじゃない」
ニヤリ。
そして、ブロンドを手の甲で払う。
元刑事はベレー帽のつばをそっとなぞった。
「どうかな?俺の推理は?」
「いい線いってる……って言いたいところだけど」
あたしは両手を挙げる。
「そうか、俺の目も勘も鈍ってきたか」
枝豆を口に運び、苦虫をかみつぶしたような顔をする元刑事。
「もしかして、あんたさ、まだ何か調べてるんじゃない?」
「……ますます、どこぞのスパイだと考えたくなるな」
「だって、現役を退いたのに、その靴の底の減り具合ったら異常よ」
「……ああ、一つ心にしこりのある事件があってな」
「ふーん。でも捜査権はなんでしょ?」
「ああ、探偵の真似事だよ……」
ボヤキにも近い響き。
元刑事はジャックをあおり、空になったグラスを見つめる。
あたしは新たに琥珀を満たしたグラスをその視線の先に置く。
「……よかったら、聞かせて」
元刑事はくっと顔を上げる。
その瞳には今までにない凄味が宿る。
本物って、なんにしてもいいわね。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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