思慕
今日もスピーカーからはTM NETWORKが流れている。
「Dawn Valley」
哲っちゃんのピアノソロ。
柔らかなクリーム色のハートアランカーディガンと、ショーパンに身を包んだあたし。
そうよジェラピケ。
カツラはワインレッドのショートボブ。
生クリームの中にある苺みたいでしょ。
あまーい、あたしごと食べてくれる人いるかしら。
どう?
まあ、いないわよ。
笑った?
笑った、そこのあんた。
夢に出てやるから。
忘れた頃に、こっそりとね。
え?
なんですって?
マッチ棒みたい?
そもそも今どきマッチ棒なんて知ってるあんたが古いのよ。
そして、今夜もこのひなびたバーに、ジャックとカルーアしか置いてないカウンターに、またひとり転がり込んできた。
スーツに身を包んだ……
丸坊主。
所作がやたらと整っていて、背筋なんか定規みたいにまっすぐ。
あたしはグラスに注いだジャックをコースターごと押し出す。
「お酒は、心を惑わすものでございます」
開口一番、それ。
自己紹介なんていらない、もう住職だと名乗っているようなものよ。
「そうねぇ、でも惑わされたい夜もあるでしょ。お坊さんだって」
住職の前に、柿ピーと枝豆を一皿ずつ、すっと差し出した。
あたしはつい、ニヤリと笑った。
「……惑わされに来た、というわけです」
間を置いて、住職はぽつりとそう答えた。
そして枝豆を一摘まみ。
その声が妙にしっとりしてて、ふだん説法で何百人を相手にしてる人とは思えなかった。
「惑わされるのが煩悩ってやつかしら」
「ええ。しかし、煩悩を遠ざけるよりも、抱きしめる方が人は救われるのです」
「ふぅん。じゃあ、あたしのジェラピケ姿に惑わされてもいいってこと?」
くすっと笑って、住職はグラスのジャックを口に運ぶ。
……ちゃんと惑わされてる顔をしてる。
「仏様だって、笑いながら人を救ったでしょう」
「そうね。じゃ、あたしも少しは救いになってるのかしら」
「少なくとも、今夜の私には」
そう言ったきり、住職はそれ以上言葉を重ねなかった。
今度は柿ピーを摘まんでいる。
ジャックの琥珀色がグラスの底でゆらめいて、氷が小さな音を立てる。
それを合図に、あたしは音楽を変える。
「Longing」ジョージ・ウィンストン。
沈黙――
けれど、それは気まずいものじゃなくて、不思議とやわらかい。
住職とあたし、場末のバーのカウンターで、言葉よりも静けさのほうがしっくりくるなんて。
スピーカーから流れる滑らかなピアノの旋律が、会話のようにリズムを刻む。
住職は姿勢を崩さず、静かに酒を口に含む。
あたしも、柿ピーをひとつ指先でつまんで、口に運んだ。
「……沈黙も、お経みたいなものかしら」
ぽつりと、あたしが口を開く。
「言葉を尽くすよりも、沈黙が人を癒すことがあります」
住職は視線を落としたまま、静かに応える。
たしかに。
こうして沈黙の中に座ってると、酔いよりも早く、心のざわめきがすっと引いていく。
惑わされたい夜に、惑わされるよりも先に、沈黙があたしをさらっていくみたいで。
「……ねぇ住職。惑わされるのと、静まるのと、どっちが救いなのかしら」
「どちらも、です。惑わしがなければ沈黙の深さはわからない」
あたしは柿ピーを一粒、住職の前へそっと滑らせる。
住職は小さく合掌してから、ぱくり。
「供養はやめなさい」
「いや、ママがろうそくに見えたもので」
「や・ら・れ・た」
「無常の灯火ってやつですな」
「ちょっと!燃え尽きる前提じゃないの」
ふたりで、ほんの少しだけ口角が上がる。
その言葉のあと、また長い沈黙が訪れる。
だけど今度は、沈黙そのものが答えのように思えた。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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