きづくということ
今日もスピーカーからはTM NETWORKが流れている。
「KISS YOU」
ジェラピケはピンクのパンダジャガードプルオーバーのピンクのショーパン。
カツラはパステルピンクのお腹辺りまでのロング。
毛先にかけては、ふわりと大きなウェーブ。
あまーい、でしょ?
全身、ももいろ。
あたしのハートも。
むなしく一人ウインクをしてみる。
そして、今夜もこのひなびたバーに、ジャックとカルーアしか置いてないカウンターに、またひとり転がり込んできた。
足元はローヒールのブーツ。
深いボルドーのニットワンピース。
羽織るのは着慣れた感じのグレーのウールコート。
首元には柔らかいアイスグレーのカシミヤのマフラー、そのせいか顔は少し明るく見える。
女は三つある丸椅子の手前に腰掛け、隣の椅子に掛けていた黒のハンドバッグを置く。
「ふっ」
と小さく肩で息を吐く。
カウンターの上で組まれた両手。
その左手の薬指には結婚指輪が照明を受けて鈍く光る。
「カルーアでいいかしら?」
「お願いします」
小さく頭を下げた女の髪がはらりと揺れる。
お出かけのために、遊ばせたのか、カールした毛先が首元をなぞる。
あたしは枝豆の皿を前に出し、カルーアを作り出す。
「いいお店、こんなとこがあるなんて気がつかなかった」
「見つからないようにしてるから」
ふふっと笑う女。
息抜きの主婦ってところかしら。
ハンドクリームを塗った手の甲にかすかなあかぎれの跡。
音楽が終わったので、次を――
「We Are the Champions」クイーン。
女は小さなため息一つ。
「毎日この辺、通っているんですけどね」
「それはきっと、あなたと波長が合っていなかっただけよ」
「波長?」
ミルクで満たされたグラスを、あたしは女の手の前にそっと置いた。
「ありがとう」
早速、口をつけた女は、首を傾げ眼を細める。
「何年振りかしら、これ飲んだの」
「忙しいの?」
「子供は独り立ちして手はかからないんだけど、母が寝たきりで、夫も仕事が忙しくてね」
笑いながら枝豆を一摘まみ。
女って笑顔で自分を守れちゃうとこあるのよね。
悲しくて、辛くて、苦しい時に限って。
「頑張ってるんだね、あんた」
女は口を手で押さえながら、もう一方の手首を動かし宙を扇いだ。
「やだ、ママったら、それが当たり前なのよ、だって娘だし、主婦だし」
「でも、働いてるんでしょ?」
「パートよパート。近所のスーパーで」
カルーアを飲み干す女。
おかわりを作りながら、女を横目で見る。
そうは言うけど、朝起きて朝食作って、後片付けして、掃除して洗濯して、パートに出て、家に帰ってきたら、母の世話、夕食を作る。
これ下手なサラリーマンよりお金もらう価値のあることよ。
その“当たり前”を積み重ねることが、どれほどの気力と体力を奪うか。
「ほんと、私なんて大したことしてないのよ」
そう言って笑うけど、目の下の影は隠せない。
おかわりのカルーアを、そっと差し出す。
「久しぶり、だからかな、すごくおいしい」
女は肩をすくめる。
「あんたさ、すごいよ、大したことないなんて言っちゃだめよ」
「でも、ママ、それが普通だから」
「その普通、当たり前のことを毎日続けていることがすごいのよ。特別な成果を出すのと同じくらい、いや、それ以上に尊いのよ。このピンクで甘々のあたしが言うんだから間違いないの」
クスッと小さく笑って、女は両手で包んだグラスを見つめる。
カラン。
氷が溶ける。
「でもどこもそうでしょ? 旦那も子どもも、私がやるのが普通だと思ってるし」
「あんたさ、自分で思ってるよりずっと頑張ってる。すごいよ。だからさ、あたしがみんなの代わりに言うわ」
あたしはカルーアをゴクゴクと飲み干す。
カタンとグラスを置いた。
「いつもありがとう。当たり前を頑張ってくれて」
ポカーンと口を開けたままの女。
やがて目を瞬かせ、その唇が震えながら閉じられる。
あたしを見つめる瞳に薄っすら溜まった水が光で揺らめく。
そっと手元を操作する。
流れ始めたのは――
いきものがかり「ありがとう」
「……そんなふうに言ってもらえるの、久しぶり」
女はわずかに唇を噛んだ。
傍に居る誰かが伝えた方がいいに決まってる。
頑張ってくれてありがとう――
時には、自分が代わりにやるから――
その一言が、張りつめた心をほどき、次の一歩を優しく支えるのよ。
「ありがとうなんて言われたこと、いつからなかったかしら」
震える声でこぼした後、カルーアを流し込む女。
「当たり前を続けることほど大変なことはないの。毎日欠かさずやってる、それだけで十分にすごいのよ」
女はしばらく黙っていたけれど、やがて小さな声でつぶやいた。
「……ありがとう」
そして、少し胸を張った女の左手の指輪が誇らしげに光った――
気がした。
「よかった。このお店に気がつけて、ママに会えて」
「それは、いままで、あなたに必要じゃなかったからかもね。今、必要になったからあたしの店に気づいた。そういうのってあるのよ、馬が合うとか、物に一目惚れと一緒」
「そっか……」
目尻を下げた女。
そして、あおったグラスの氷が――
カラン。
柔らかく跳ねる。
「また、明日から頑張れちゃう私」
「ほどほどよ、あたしの店、潰れてるかもしれないから」
驚く女と見つめ合った後、二人の笑い声が歌詞の「ありがとう」と重なった。
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