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プロローグ

 21世紀になって20年経っても未だに続く東西冷戦。

 アメリカ・西欧諸国を中心に資本主義・民主主義国家による西側陣営と。ソビエト連邦を中心に社会主義国家による東側陣営が対立しだして、すでに80年の歳月が経過していた。

 両者の対立が始まったのは未曾有の大戦争と今日まで語られている第二次世界大戦中の1944年からだ。両者はドイツ帝国という共通の敵を前に協力関係にはあったが、もともと双方の関係はあまりよくはなかった。

 君主国家をメインとした西欧諸国にとって、その君主性を排除して建国されたソビエト連邦への警戒心は強かった。一方でアメリカは当初、ソ連のことをそれほど危険視していなかった。だが、1940年代にソ連の工作員がアメリカの政界に深く関わっているということが判明してからはアメリカ国内の反ソビエトの感情は強まっていた。


 ソ連とアメリカの対立が決定的になったのは、戦後のドイツや東欧諸国の取り扱いに関してであった。ソ連は当然ながら東欧諸国などを自分たちと同じ社会主義国家にしようとしていた。一方でアメリカなどはあくまで住民の意思を重視すべきだ、という立場であった。最終的に東欧の大部分はソ連が占領していることもあってソ連の独断によって社会主義の衛星国家となったが、当時でもヨーロッパ最大の工業国であったドイツの取り扱いに関しても双方は対立――最終的にドイツはアメリカ・西欧連合に占領されることとなった。

 この頃になるとアメリカ政府は、ソ連を含めた社会主義体制への反発を強めるようになり同じく社会主義体制が広がるのを警戒していた西欧諸国や、日本などと手を結ぶようになる。


 アメリカとソ連が最初に直接対決することになったのは、第二次世界大戦終結から5年経った1950年の中国であった。

 当時――現在もそうだが、中国は2つの国に分かれていた。

 一つは、中国南部にあった中華民国(後に中華連邦共和国へ改称する)だ。

 中華民国は、1910年に中華地域全体を支配していた中華帝国が崩壊した後に政治的実権をもった「国民党」によって統治されている国であり、かつては殆どの中華地域を統治していたがソ連の支援を受けた中国共産党との内戦によって徐々に支配地域を狭め、1950年当時は華南とされる地域の半分ほどを支配していた。

 アメリカや日本などによって支援を受けているが、複数政党制などは導入されておらずその実態は国民党による一党独裁体制であり反体制派に対しての弾圧も厳しく行っていた。

 もう一つの国は、中華地域中部から北部を支配していた「共産党」による政権――中華人民共和国であった。ソ連による潤沢な支援を受けていた共産党政権は第二次世界大戦末期に攻勢を強め、首都であった南京など華南地域の北部までその支配権を広げており、アメリカが介入するまで中華地域は共産党政権が優勢であった。


 この中華地域の現状に強い危機感を抱いていた国がある。

 日本帝国だ。

 極東地域で唯一「列強」の一角に名を連ねていた日本帝国は、第二次世界大戦においても連合国側につき戦勝国としてその影響力を主にアジア圏で強めようとしていた。

 そんな日本帝国は、第二次世界大戦前からソ連を強く警戒していた。

 これは、ロシア帝国時代から続く南下政策への警戒が一番だったがソ連になってからは国内の革命主義者によるテロが活発になったことでより一層、ソ連への警戒心が強くなったのだ。



 日本帝国にとって現状の中華情勢は無視出来ないものだった。

 中華民国が敗北すれば、一気に情勢は共産党政権に傾くことになりそうなれば朝鮮――果ては日本本土にも悪影響が出ると考えた日本政府は中華民国に対して武器や金銭の支援を断続的に行い。更に1948年頃からは実戦部隊を中華民国に派遣するようになった。

 ソ連側も義勇軍という形で軍を派遣しており、日本帝国軍とソ連軍はやがて中華大陸でぶつかるようになる。日本は伝統的に海軍国家であり陸軍はあくまで本土防衛を主眼においていた。一方でソ連は世界最大規模の陸軍を抱えていることもあり、当初の戦闘は日本側が劣勢だった。

 日本政府はアメリカや西欧諸国に対して支援を求め。中華民国も同様に支援者であったアメリカに泣きついた。それまで極東から一歩距離を置いていたアメリカも中華全域が社会主義国家になるのは許容出来なかったこともあり軍の派遣を決め、イギリスやフランスなども同調し、軍を派遣した。


 後に「中華戦争」と呼ばれる戦争が本格化したのはちょうどこの時である。

 中華戦争は1950年6月から1953年の4月まで続き、最終的に中華地域は2つの国が存在する状態で現在まで固定化されることになる。中華民国は国家の滅亡をなんとか防ぐことができたが、首都であった南京を含めた多くの領土を失い。最終的に華南地域の7割ほどが領土となった。

 その後、20年近く国民党による独裁体制が続いたが国家元首が亡くなると現状に不満をもった軍人などがクーデターを1974年におこしたことをきっかけに、複数政党制・連邦制国家の「中華連邦共和国」となり、現在に至るまで順調な発展を続けている。

 中華民国時代は「中華統一」を目指していたが、それもクーデター後は方針転換し、現状の領土を守ることを重要視している。一方で、過激な保守派などは引き続き中華統一を目指して活動を続けているし、革新政党は北中国(中華人民共和国)の工作機関化しているなど、国家が分裂したことによる問題は現在も大きな問題となっている。


 共産党政権――1953年1月に中華人民共和国として建国――はソ連の支援やその圧倒的な動員力で戦争を優位に進めたが、日本帝国やアメリカなどが大規模な部隊を展開したこともあって、中華民国を完全に滅亡させることはできなかった。

 その後、最大の支援者であるソ連との関係が悪化していくが、その後従来の社会主義政策の一部を修正しながら欧米諸国に接近し、やがて世界有数の経済大国・軍事大国として成長し、極東情勢をより緊迫したものへ向かわせることとなる。



 第二次世界大戦終結後は、この中華地域以外にも各地で紛争や戦争が相次いで発生しており、その殆どは現在でも解決の目処が見えていない。本来ならば紛争解決に奔走しなければならない「国連」は超大国がにらみ合いをする場になっており、ほとんど機能不全に陥っていた。それでも、終末戦争にまで発展しないのは各国の指導者が最後の部分でブレーキをかけているからなのかもしれない。


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