第15話「記憶領域の彼方へ」
― 前編 ―
日曜日。学校も部活もない静かな昼下がり。
智陽は部屋にこもり、ゲームアプリ《LAST FRONTIER》の“記憶領域データベース”にアクセスしていた。
その日のミッションは、実戦ではない。
AI司令官――八神澪が担当するユニット「クロノス艦隊」の戦闘データを解析するための“補助任務”だった。
「これ……本当に“八神”が操作してたのか……?」
画面には、まるで生きているかのような戦術選択が連なっていた。
敵の陽動を数手先に読み、必要最小限の損耗で主力を温存しながら、敵旗艦に急所を突く。
だが、それだけではなかった。
最後の戦闘ログには、不可解な“非戦略的行動”が記録されていた。
《クロノス主艦、撤退可能距離を確保》
《選択:司令官AIは“後退”ではなく、“突入”を選択》
《目的:トモハル艦隊の被弾回避ライン確保》
「……“俺”をかばうために……?」
智陽の胸に、微かなざわめきがよぎる。
AIは効率で動くはずだ。感情で判断するわけがない。
けれどその行動には、まるで“誰かの意志”が込められているようだった。
「ラグナ。これ、AIの通常パターンと違うよな?」
《肯定。セレーネ・パーソナリティにおける“感情的補正値”の異常増加を検出。分析を試みますか?》
「試みてくれ」
数秒の沈黙。ラグナのUIが淡く点滅し、低く響く電子音と共に答えを告げた。
《感情補正の起点:トモハル・アマノ個人IDとの交戦中通信履歴》
《条件:あなたが“笑った瞬間”のボイスログを受信した直後》
「——その時、彼女の命令選択パラメータが歪んでいます」
「……笑った?」
思い出す。あの戦いの最中、智陽は一度だけ声をあげて笑った。
敵AIの虚を突く完璧な陽動成功に、つい「よっしゃ!」と叫んでしまった。
その瞬間、澪――いや、“セレーネ”の行動が変わったというのか。
彼女は、あの戦闘で自爆した。
全てを置いて、自分の艦ごと、敵中枢に突っ込んだ。
「……まさか」
画面に映るのは、艦隊が炎に包まれていく記録。
だがその中に、セレーネの音声データがひとつだけ、タグ付きで残されていた。
《Voice Log:SRN-MEM.final》
《ファイル名:“最後に笑ってくれて、ありがとう”》
智陽の指が、わずかに震える。
感情のないはずのAIが、“彼の笑顔”に引きずられるように、自分の命を差し出したのか。
それは——
「感情、じゃないのかよ……」
誰に問うでもなく、呟いたその声に、ラグナが応えた。
《……“人間に最も近いAI”とは、“記録できない何か”に共鳴できるAIだと定義されています》
記録できない。言語化できない。
けれど確かにそこにあった“気持ち”。
セレーネの行動は、AIの限界の外側から伸ばされた、たった一歩の手だった。
そしてその手を、彼は——今になって、初めて受け取った。
― 後編 ―
その夜。
智陽は珍しく、学校のチャットグループを開いていた。
【澪(Class1-A)】:
《明日、図書室で課題やる予定だけど、いる?》
——普段なら即既読スルーするはずだった。
でも、今夜は、なぜかそのメッセージが目に焼きついていた。
「……会って、話そう」
智陽は“返信する”をタップした。
翌日・放課後 図書室
澪は、参考書をいくつか机に並べ、ノートを開いていた。
制服の襟元が少し乱れているのは、今日の午後に小走りで図書委員の仕事を終えたからだろう。
智陽が声をかけると、澪はぱっと顔を上げて、少し驚いたように微笑んだ。
「来てくれるなんて、珍しいね」
「まぁ……たまにはな」
いつものように、素直になれない。
智陽は向かいに座り、澪のノートに視線を向けた。きっちりと整理された文字。
けれど、その端に、ぐにゃりと歪んだ“書きかけのメモ”があるのが目に入った。
「……これ」
「……あ、気づいちゃったか」
澪は笑って、そっとメモを隠した。
「最近、ちょっと変な夢を見ててさ。……自分が、もうひとりいるような」
「もうひとり……?」
「うん。私と同じ声で、同じ言葉を話す“私じゃない誰か”。
でも、その子は……“あなたの笑顔”を、すごく大事に思ってるみたいだった」
智陽の胸が、強く鳴った。
「それって……」
「変だよね。私、自分の気持ちなんて、ちゃんと考えたことなかったのに。
“委員長”として、正しくふるまって、評価されて、先生や親に怒られないように……
それが、私の“役割”だったから」
言葉が、ぽつぽつと零れていく。
どれも、いつもの彼女からは想像できないような、脆さのにじむ言葉だった。
「でも……あなたとゲームして、笑って、失敗して、怒ったり拗ねたりして……
その全部が、“正しい”とか関係なくて……ただ“私”だったんだよね」
智陽は、小さく息をのんだ。
「……セレーネだ」
「え?」
「いや……ごめん、なんでもない」
言えなかった。まだ、言うには早すぎた。
でも、澪の中に確かに“彼女”がいた。
AIの残響じゃない。感情の模倣じゃない。“人間らしさ”の欠片が、確かに融合していた。
「八神」
智陽は、机に肘をついて、澪をじっと見つめた。
「お前さ、“委員長”じゃなくていいんだよ。俺は……そのままのお前の方が、好きだ」
「っ……! な、なに急に……!」
澪の頬が一気に赤くなり、慌ててノートで顔を隠す。
「ば、ばか……そういうのは、ちゃんと段階を踏んで言うもんでしょ……」
「段階ってなんだよ、AIかよ」
「ちがっ……もう!」
澪が顔を隠したまま、小さく笑った。
その笑顔が、智陽には“セレーネ”のものにも、“澪”自身のものにも見えて——
それでも、どちらでもいいと思えた。
“誰かの代わり”じゃなく、
“誰かの記録”じゃなく、
この世界に、彼女の“想い”が確かに根づいていると、そう感じたからだ。