プロローグ
夜の帳が静かに街を包み込む中、錆び付いた街灯の下で一人の若者が立っていた。彼の身体は細身で、染に失敗したかのようにカラフルなジャケットが風に靡く。街の喧騒は遠く、彼の周りには異様な静寂が漂っていた。彼の瞳は遠くを見つめ、思索に耽っているようだった。
周囲の建物は古く、歴史を感じさせるレンガ造りで、幾つかの窓からはぼんやりとした光が漏れ出ていた。しかし、彼の注意はそこには向かない。彼の視線の先には、ほんの数メートル先に広がる暗い路地があった。その闇の中には何かが潜んでいるような気配があり、彼はそれを探るようにじっと見つめていた。
そして、酔った頭がその存在に目星をつけた時、いやそれより前に、その可能性に気づいた時点で彼の足はその場から離れるためにできる限りの高速回転を始めた。
男の耳に不愉快なノイズが走る。
大きくなっていく砂嵐がテレビジョンに映ったときのような音。
酔いの疲れは何処へやら、男は息が荒れてもなお走り続ける。
男にとってだけ悲しいことに、こんな夜更けに繁華街へ向かうための寂れた道を通る人間はいない。
運悪いことに、普段は巡回しているはずの人間たちも見当たらない。
臭いは高く伸びた煙突から未だに吹き出る排気ガスのまま。
けれど、音だけは強く荒れていく。
男の心の中に不安と焦燥が溢れていく。
なぜ?どうして?どうすれば?
余計な思考は男の体力を精神的に追い詰めていく。
飲み屋のある通りは騒がしく、奴らの格好の餌だ。だから避難用防音室は多い。
男がそれに気づくことはできない。荒れたノイズは心をも荒らす。
正常な思考はすでに男には残っていない。
どこへ行けば?どこなら助かる?
正解へのもう一歩が男には踏み出せない。
どちらへ踏み出せばいいのか、既に判断がつかないのだから。
ノイズは大きくなる。耳を塞ぐことはできない。
最適な耳栓でやっと小さくなるようなノイズは、人間の未熟な両手では防げない。
息が荒れる。男はついに足の疲れを認識した。
してしまった。
交差点へ差し掛かって、音が男の直ぐ側に近寄る。
「たすけ」
叫び声を上げる間もなく、男は不可視の存在によって地面へと打ち付けられる。
臭いは変わらない。未だノイズだけが酷く聞こえている。
悲鳴一つ、声は上げられない。
ノイズは聞けなくなった。
『今日未明、中央繁華街三番ストリートに向かう路地で音臨の出現がありました。現場に向かった音響師によると、音臨は発生時には『レンティーノ』相当であったものの、調律時には『アンダンティーノ』相当であったとのことです。また、中央繁華街を管理している政府には管理の杜撰さや、巡回担当の音響師の職務怠慢など、不満の声も上がっています。
中央市民の皆様におきましては、音臨と遭遇した際には・・このように、耳栓をして最寄りの防音室へ急ぐよう心がけましょう。決して焦らずに、学校や職場での訓練どおりに行動しましょう。
それではこの件について、元ファゴッティ派音響師の』
『それでは今日の天気です。中央市は1日中快晴の予報です。火の街は曇り、所によっては雨。続いて水の街ですが、今日は晴れますが風が強く波が荒れる予想です。渡航の際は十分に避難経路をご確認ください。続きまして木の街は』
『連日速報です!昨日、中央政府は『コンダクター』という人物について声明を発表しましたことは、皆さんご存知でしょう!先程音臨対策本部次官の弓塚氏による会見が開かれました!弓塚氏は記者の質問に対して会見で以下のように発言しました』
「そろそろ世間を揺るがせているコンダクターなる人物についてお教えください!」
「我々として長年の研究、そして音響師との連携によりこれまでいくつもの音臨を調律し、また様々な対策を講じてきました。ですが、コンダクターの存在はこれまでの我々の活動とは一線を画すものになるでしょう」
「具体的には!」
「まだそこまではお教えするわけにはいきません」
「不明ということでしょうか!」
「最高責任者である長官が不在の為、回答を控えさせていただきます」
「弓塚次官!!」
「それではこれで会見を終わりとさせていただきます」
『いや〜、なかなか刺激的な会見ですね〜。えぇ、良い意味でも悪い意味でも!今回の会見で判明こそしませんでしたが、我々は独自にコンダクターについて調べていく所存ですので!引き続き続報をお待ち下さい!!』
デスクの上に置かれたリモコンを操作して、早朝ニュースの音を消す。
「そんなに期待されると困るな」
間に合せのコーヒーを飲む。うん、程よくぬるい。食べ物は舌に優しいのが一番だ。
湯気に顔を当てながら、底に砂糖が残らないよう上手に飲み干していく。
傍目で見つめるパソコンの前は少し使用のためらわれる新品のキーボードやマウス。
そしてこちらも使用のためらわれる書類群。
一枚一枚は大した内容でもないのに、ここまで積み重なるとどうしてもやる気を削いでしまう。
「一応、勤務初日なんだけど」
どこどこ所属のだれそれとか、覚える気力も少ないものだ。ましてや顔も知らないわけで。
子供みたいに、白くなるのを期待したため息は書類の山を一切揺らせないで消えた。
改めて、視線と、そして指を動かす。
間に合せの蛍光灯を反射して黒光するケースをゆっくりと開く。
まるで宝物を捧げるみたいにケースの中に恭しく置かれた指揮棒、『杖』。
自分がコンダクターとして活動するために必要不可欠なものであり、コンダクターとしての証。
茶色だとか黒色だとか、どこからどう見てもただの木材加工品にしか見えないソレは、窓から差し込む光で淡く空色に見えたりもしている。
どうしてなのかはわからない。
大事そうにつかみ上げれば、40cm程度のソレは非力な私でも軽々しく持ち上げられる。
なるべく自然なように曲がった持ち手部分をぐっと握れば、その頑丈さが伝わってくる。
反対の手で表面をなぞれば、目を凝らさなければ見えない、微細な模様が彫られているのもわかる。
それは何らかの記号のようで、そして意味のない符号の羅列にも思える。
これが『枝』。私の力。
杖をケースの中に戻し、視線をデスクに戻す。
「はじめまして、コンダクター」
「・・誰?」