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恋愛の舐め方

 私の名前は大寺 彩智(さち)。今は満員電車の一部である。


 四月の最初の頃なんかは電車を利用するものではない。

 早朝ラッシュ。朝の電車はいつも込んでいるものだが、今日は一味違う。

 さながら人地獄。『ジャガイモの詰め放題じゃないんだぞ!』と言いたくなるほどの人・ヒト・ひと。


 四月の電車。それはつまり新入学と新社会人の雪崩込みを意味する。

 むさくるしい車内は端から端までそんな新人で超満員。誰か一人くらい圧死しているのでは? と思える有様に、しばらくこんな地獄の登校をしなくてはいけないのかと愚痴もこぼれようというものだ。


 入学式も終え、今日は登校初日。女子高生としての華々しいスタートは、芋煮会の芋を体験することに始まったわけだ。


「あっつ……」


 すし詰め状態の車内は生きた心地がしない。春の陽気とはいえ、これだけ人が密集すれば汗も流れる。この狭さときたらたまらない。ハンカチで拭おうものなら他人の体を撫でながら手を上げるようなものだ。私の無駄にデカイ胸のせいでサラリーマンの背中を押しているのも申し訳ない限りである。


 申し訳ないと言えばもう一つ。私の手は電車が揺れるたびに隣の男性のアレに何度も手が触れていた。

 気まずい。もちろん触れているのは不可抗力だ。だらりと下げた腕が電車の揺れで触れてしまっているにすぎない。私のことを痴女かなにかと勘違いされてないか不安だ。

 考えようによっては、私の手にわざと股間を擦りつけてきているとも考えられる。しかし冷静に考えるとそれは無い。股間を女子高生に触られて快感を覚える男などいるか? いないだろう? わざわざ自分の急所を見ず知らずの女子高生に握らせにいくわけがないのだ。


 拷問のような時間が流れる中、やがて満員電車はトンネルに入った。

 窓ガラスが鏡になり、いつもより目つきの悪い自分と目が合う。


 その時。

 視界の端、反射した昇降口の窓に怪しい動きを見つけた。

 僅かに、ニギニギと、いやらしく動くソレ。

 ソレは女子高生のシリを鷲掴みにする中年男性の手であった。


 痴漢である。

 あの張りのあるやわらかい肉の塊を撫でていやがる。いや、スカートに指がめり込んでいるから、あれはもう掴んでいるといっていいだろう。同性の私でもなかなか触る許可が下りないむっちりとした桃尻をなんてうらやま……卑猥な!

 動きからなにから確信犯。許せない。これは逃れようもなく事案である。


 さらに許せない理由はもう一つ。痴漢されていた相手に見覚えがあった。見間違いでなければ明菜ではないか?

 何という奇縁。痴漢に遭っているのが中学からの友人・桜井 明菜(あきな)だった。


「……んっ」


 明菜は赤面しながら必死に口を手で覆っている。


 なぜ助けを呼ばない。恥ずかしいからか? すぐそばに私がいることに気付いていないのか? それとも公衆の面前で痴漢されていた事実を誰にも知られたくないとかそういうアレだろうか。


 思えばたしかに言い出しにくい。『痴漢に襲われています!』とこの状況で宣言するのはなかなか勇気の要る行為だ。


 私だったら絹を裂くような悲鳴をあげた後にプロレスのルチャ・リブレがごとく挟み技のひとつでも繰り出していたところだろう。


 しかし明菜は私と違って恥ずかしがり屋である。

 非力な彼女が密集した集団の中で意思表示するというのはなかなかきびしいアクションに違いない。痴漢に成されるがままになっている状況というのは、さぞや悔しいことだろう。


 ……。


 ここは、友として助け船を出さねば。


 満員電車内を泳ぐようにかき分けながら、私は明菜の元へ向かう。


 ちなみに私は喧嘩で負けたことはなかった。そこらにいる男だったら三人相手でも負ける気はしない。車内なので投げ飛ばすのは無理としても、手を取ってひねり上げるくらいはできるだろう。いっそ事故を装って二・三本骨を折ってやってもいい。

 そんなことを考えていると。


「……ハッ!」


 ふと、一つの疑念が矢となって頭を貫いた。その矢文にはこう書かれている。




 果たしてこれは、痴漢なのだろうか?



 

 それというのも、私は今まで痴漢された経験が一度もなかったからだ。

 痴漢されると不快であるとは人伝いで耳にする。しかし、すべての人間が痴漢に対して拒否反応を示すものなのか? というのは、話題が出るたび終ぞ思うところがあった。 


 仮に彼氏彼女のカップルならどうだろう? 愛し合っている二人ならそういった“合体”の合間に“ふれあい”をすることは珍しくもないはずだ。それが見ず知らずの人間になった途端に、『シリを触られるのは嫌だ、訴訟だ!』 となるのはどういったわけか?

 シリを触られるのは嫌。でも好きな相手だったら『まぁ、いいだろう。触ってヨシ!』と容認しているのか?


 そもそも他人にシリを触られるシチュエーションというのが特殊だというのも疑問を深める要因だ。身持ちがズボラな私を例に挙げてはなんだが、はたして他人にシリを触られて不快に感じるかどうかというと未知の領域である。


 ……。


 いや、待てよ。

 ある、あるぞ! 私は他人にシリを触られた経験があった!


 記憶を遡ること中学時代の水泳授業。そこで気合を入れるという名目で理不尽にシリを叩かれたことが一度だけあった。

 あの時はイラッとしたのを覚えている。けれど、気持ち悪いという感じではなかった。


 思い出すにつれてあの時の記憶が鮮明になる。

 泳いでいる間、水の中でジンジンとするシリ。痛くはない。むしろ血の巡りがよくなったような、気が楽になったような? そう、気持ちよかった……。気持ちよかったのだ。


 そうだ! 私はシリを叩かれて気持ちよかったのだ!


 長年の謎が解かれ、脳内が晴れ渡る。つまりこういうことか。


 『シリは弄られると気持ちいい』


 まるで難関定理を読み解いたときの達成感である。

 痴漢されて助けを呼ばない。この謎の真相は、本人がシリを触られながら快楽の悦にひたっていたからだったのだ。

 痴漢にシリを撫でられながら興奮していたのか、明菜。


 だとすれば別の問題が浮上する。


 『このまま痴漢を止めに行ってもよいものか?』


 仮に、この痴漢をとっちめたとしよう。結果、明菜は痴漢の魔の手から解放される。しかし明菜はせっかく気持ちよかったところを邪魔されてご立腹となるだろう。快楽の邪魔をした私は明菜にとってお邪魔虫でしかない。明菜と友好な関係を続けたい私にとっては致命的な友情の亀裂を生むことになるはずだ。


 ならば何も見なかったことにしておくか? というわけにもいかない。他の誰かにこの痴漢現場が見つかれば彼女の社会的尊厳が危ぶまれるからだ。


 これは難題。あちらを立てればこちらが立たず。


 ……どうすればいい?


 私は考えるのが苦手だ。別に馬鹿というわけではない。成績も上位に食い込めているし自他共に認める秀才である。それでも欠点というものは誰にでも存在する。

 私の場合は『無神経』であることが欠点だ。


 無神経。その言葉が意味するものを、私は未だに理解できていない。今回も私の無神経な部分が痴漢に遭っている明菜に悪い影響を及ぼさないかという一抹の不安がある。


 だが、そんなことを考えている暇はない。今にも明菜は痴漢され続けていて、その現場を他の誰かに見つかってしまうかもしれないのだ。

 この状況の正解とはなんだ? 解決の糸口が見つからない。


 八方塞。ならば、残る手段は一つだ。


「どうすればいいと思う?」


「ヒッ! えっ? な、なに?」


 慌てたように受け答えする明菜。まさか痴漢に遭っている状況で友人に話しかけられるとは思ってもみなかった様子だ。目が動揺で分身して見えるほど泳いでいる。


「……ふむ」


 なぜだろう。異様な汗をかきながら顔を紅潮させる明菜は別人のように見える。なんというか、こう……エッチだ。


 改めて見ると、涙目の明菜はすごくカワイイ。普段はメガネが似合う大人しい委員長という感じで男受けはそれほどでもない。

 それがどうだ。ズレたままのメガネ。何かに怯えた表情。火照った肌。なんだか同性ながら抱きしめたくなるほど愛おしい。さながらブービートラップにかかったハムスターを見ている気分だ。痴漢犯がついついシリを触りたくなるのも頷ける。私が痴漢犯だったなら……いや、やめておこう。


 彼氏か……。私には縁遠い言葉だ。そういえば、明菜にはいるのだろうか? いたとしたら今現状を彼氏さんに見せることはできない。いや、むしろ見せてやったほうがいいか?


 とはいえ、地味目な明菜に彼氏なんていないだろう。確証を得るために尋ねてみたい気もするが、しかし痴漢に遭っている状況で訪ねる事でもないだろう。


 そう思いながら、私は明菜に言った。


「明菜って彼氏とかいたっけ?」


「えっ!」


「あ……」


 しまった。心の声がつい。

 ……まあいいか。明菜の顔が見る見るうちに赤くなるのを眺めているのは、それはそれとしてホッコリする。


「彼氏とか、そ、そんなの……いるわけ、ない……うぅっ……」


「……?」


 なんとも歯切れの悪い返事である。痴漢犯の指がシリの穴にでも侵入して口籠ったのか?

 不思議に思っていると、やがて茹だったタコのように赤くなった明菜は、妙に艶のある小声でボソリとこぼした。


「私……彼氏いるんだ」


「え、いるの!?」


「うん……」


 意外や意外。冴えない女と思っていた友人は、実はやる事やっていたのである。これは吉報。素直におめでとうと言いたい。


 しかし出し抜かれた感は否めない。なぜ今まで私に黙っていた? 友人としてその彼氏に言ってやりたいことはいっぱいあるというのに。


「えー、教えてよ。どんな人?」


「えっと……その、彼氏、なんだけど……」


 明菜は恥ずかしそうにしている。もちろん痴漢されていることも含めての恥じらいだろう。そういえばシリを撫でられながらよく会話を続けられるものだ。


「サチになら、いいかな」


 ひたすらにチラチラと背後を気にする明菜。そんな明菜の様子に、私は嫌な予感がした。


 明菜の照れた目配せがどうも“向いてはいけない相手”に向けられているような気がしたからだ。


 それだけは違ってくれ。そう願いながら、しかし大概のお願いというのは悪い方向へと転んでいくもので。


「実は、この人が私の彼氏なの」


「……」


 悪い予感は的中した。


 明菜が紹介した彼氏。それは、今も明菜のシリを撫でている中年の小太りな男だった。




「彼、“たっくん”って言うの」


「た……!?」


 その不意打ちをきいてパニックに陥らなかった自分を褒めてやりたい。


 “たっくん”とな?


 愛称呼び!? そこまで親密な関係なのか? この痴漢と?

 見れば見るほど信じられない。

 収穫後の田んぼのようなハゲ頭。水風船を上下に二つくっつけたようなデブ体系。少し距離があるのに確かに香るオヤジ臭。


 ……コレと明菜が?

 地獄だ。地獄が眼の前で展開されている。見た感じ、たっくんって言うかおっさんなんだが?


 嗚呼、現実は非情だ。

 中年彼氏にケツを揉まれながら悦に入る女友達が微笑んでいる。


「えへへ」


 えへへじゃねぇよ。


 私はなんて返せばいい? 『お幸せに』か? 『お似合いだね』って言ったら怒るか? 適当な祝いの言葉が出てこない。見ているこっちは服毒自殺を見せつけられている気分だからしょうがない。


 一体どうした明菜? 私の知っている明菜はもっと堅実な考えの子だったはずだよ?

 そんな心の叫びが届くはずもなく、明菜は恋する乙女のようにハニカミながら、私に上目遣いで言う。


「ね、素敵なヒトでしょ?」


 ……。


 友達だからって何でも肯定するとでも思っているのだろうか? ただのハゲデブオヤジだ。素敵ってなんだ?


 そもそも彼氏のたっくんときたら私に見向きもせず、一言の挨拶も無しにお前のシリにご熱心ではないか。そんな奴が素敵と思えるなら双方とも正気の沙汰ではない。


 しかし残念なことに、私の心のブレーキは正常に稼働した。


「……明菜がいいなら、いいんじゃない?」


 あぶないあぶない。もう少しで『あんなブタとはすぐに別れろ!』といってしまうところだった。

 言った方がよかったのか? なんかどうでもよくなってきた。 

 どうしてこんなのを好きになってしまった、明菜……。


 次第に緩やかな流れになる街並みを眺めながら悶々としていると、しばらくして電車は目的の駅にゆっくりと停まった。


 どうやらたっくんはここで降りないらしい。明菜のシリから手が離れる時、たっくんが少し寂しげな顔をしていたのが嫌な意味で心象に残った。


 手を振って別れを惜しむ明菜と、それを見送る中年という画。知らぬものが見れば同じ電車を利用する仲睦まじい親子に見えたのかもしれない。


 知らなくていいことは、確かにこの世にはあるようだ。


 ついていけない。


 彼氏に手を振り続ける明菜を置いて、私はさっさと駅のホームを抜け出す。

 ホームを出る時もそうだったように、学校までの道のりは入学式の時よりも道のりを長く感じた。


「あの……」


 不意に制服の袖を引っ張られる。見ると、同じ学校の制服を着た男子がいた。


 小学生かと見紛う背の低さ。童顔な顔も相まって、いよいよコスプレのような姿だ。

 真新しい制服の袖から指先だけが見え、短く切られたサラリとした髪は、思わず鼻を近付けて嗅ぎまわりたくなる。怯えた小動物が上目遣いで見てくる瞳は、むしろ襲ってくださいとおねだりしているように潤んでいた。


 ……なんだ、これは?


 私がこの世でこよなく愛するものがある。それは小動物や子供など小さな生き物だ。虫は範疇ではない。


 それは私が180センチの長身であることをコンプレックスに思っている裏返しでもある。


 そんな私の理想とする男性像が私の袖を引っ張っているのだ。


 夢や幻を疑う。

 しかし確実にそこにいる。幻影や幽霊なんかでは決してありえない手の温もりが袖から伝わる。


 一体何用で私なんかに? なにが目的だ? 金か?


 混乱を解くカギは、男子の発した次の言葉にあった。


「同じクラスの大寺さんですよね。一緒に学校、行きませんか?」


 ぎこちない言葉遣いに何か違う思惑が見え隠れする。

 私は無言で頷いて見せた。


 ……。


 そんなことあるわけない。


 恋愛を舐めるな、私。心臓の鼓動を速めて何を期待している?

 こんなデカイ女とつり合いが取れる相手ではないだろう。相手もそう思っているはずだ。

 淡い期待をするな。どうせ肩透かしに終わるだけだぞ。私なんかが、彼氏が欲しいなんておこがましい。


 その時。


 私の頭を今日二度目の矢文が貫いた。




クラスメイトだからといって、気がない異性に挨拶なんかするだろうか?




 ……わからない。


 私は考えるのが苦手だ。別に馬鹿というわけではない。成績も上位に食い込めているし自他共に認める秀才である。それでも欠点というものは誰にでも存在する。

 私の場合は『無神経』であることが欠点だ。


 無神経。その言葉が意味するものを、私は未だに理解できていない。今回も私の無神経な部分が彼に悪い影響を及ぼさないかという多大な不安がある。


 しかもそんなことを考えている時間は長いようで短い。今にも襲い掛かってしまいそうな下心をなけなしの自制心で抑えつつ、下卑た下心が隣の彼に知られてしまうかもしれないという恐怖と戦っているのだ。


 この状況の正解とはなんだ? 解決の糸口が見つからない。

 ならば……。


「ねえ、キミ」


「なんですか?」


 恋愛とは縁がないと思っている。恋愛を舐めている気も毛頭ない。


 でも、ハゲデブオヤジの痴漢とあれだけ幸せそうにできる女だってこの世にはいる。


 私にだって……彼氏くらいできるはずだ。


 そうさ、どうせ実らぬならさっさと玉砕してしまえばいい。


 恋愛を舐めるな? 知るか。涎だらけになるまで舐めてやろうじゃないか、恋愛!


 なんたって私は『無神経』だから。


 だから、私は……。


「背の高い女って、どう思う?」




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