06.ディルクの恋人
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「今日も任せっきりで、悪いな」
広間のカウンター席で既に待っていた受付のケイトとコーディが一度立ち上がり、ディルクが座ると二人も隣に並んで座った。双子のムッチョ&モッチョが、いつもの白いタンクトップにフリル付きの腰エプロン姿でカウンター内に並ぶ。皆が揃った。
目の前を暑苦しい胸筋の壁に塞がれたディルクが、煙で広間を満たす。話に嘘がなければ何も恐れることはない。ギルド員は皆それを知っている。
今日のミーティングは、五人。テーブルに静音効果の魔法道具でもある魔石式のランタンが灯された。
先に、いつもの報告から始まった。冒険者や依頼人とのトラブルは、ほぼなく、まあまあ平和な一日だった。
アンバーが何者なのか、それを冒険者たちから聞かれるのは想定内だ。「新人冒険者です」と無難に答える場合と、下心がありそうな者には「ギルマスとアレンのお気に入りの」を、前に付けることを忘れない。大体それで黙るからだ。
「受付カウンターと床の修理は、したようだな」
「はい、毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません。弟に手伝ってもらいました」
「問題ありません(姉様の力に耐えられない、床とカウンターが悪いのだ)」
「‥‥‥ん、なるほど」
強化魔法の重ねがけを依頼するか‥‥‥。
「街では、アレン殿たちの話題で持ちきりですな」
「ギルドの冒険者たちの間でも、そうですぞ」
パーティーの水魔法使いとその従者が、裸で縛られて小舟に乗って流れて来た。小舟には魔物除けがされていた。二人とも日焼けはしていたが、一人は水魔法使いなので水分補給はしていたようだ。
川遊びをしていた子供たちが気付いて母親らを呼び、その姿に悲鳴を上げた女性の声で更に人々が集まり、無事に助け出されたそうだ。
「‥‥‥悲惨だな」
無事と言えるのか? 晒し者だ。
「男爵家でも一応は貴族の四男ですから、すぐに親が出て来ると思ったのですが‥‥‥」
「今日のところは誰も(姉様を煩わせずに済んだ)」
「そうか。だが、明日以降も様子を見てくれ。どうもアレンは今のパーティーを解散したいようだが、今回は随分とやり方が激しいな」
「余程のことがあったのでしょうか?」
「‥‥‥」
アンバーに関わることか?
領主の娘の件もだが、やはりアンバーに確認するしかないか。
王都から来た他ギルドの冒険者が、途中で利用した宿に偶然アレンのパーティーがいたと話していたそうだ。
「立ち飲み屋にいた冒険者たちが聞いた話ですが」
その宿の食堂では、白魔法使いフェリクスのみがアレンの隣に座り、他の者は四人いたがテーブルが別だった。皆、不満そうな顔をしていたそうだ。そして翌朝には、四人から二人に減っていたらしい。
「二人‥‥‥。それは水魔法使いたちだな。そこで追い出されたのか」
「「では、残るは、あと二人ですなぁ」」
視線を上げて双子の顔を見ると、若葉色の二対の瞳がディルクを見下ろしていた。
「追い出されるのは、か? 何だか楽しそうだな」
「「おっと、これは失礼」」
ディルクとケイトは苦笑いしたが、コーディは複雑な顔をしていた。
コーディにとって姉のケイトが一番だが、実は、フェリクスのことをひっそり尊敬している。
冷静で、美しくて、高身長。勇者パーティーの白魔法使いフェリクスは、冒険者コーディの憧れの存在だった。
姉と共にギルド員になったばかりの頃は、中途半端に冒険者をやめたコーディを、姉の尻を追いかける貧弱な弟と嘲笑う人間がそれなりにいた。いつも怪力のケイトがいない時ばかりを狙って、受付に立つコーディを笑いに来る。こいつら暇なんだな、と無視して相手にしなかった。
「彼はきっと有能だからギルマスにスカウトされたのですよ。卑怯で無能な、あなた方では‥‥‥、ああ、無理ですね」
美しくも冷たい声。勇者パーティーを解散して冒険者になったばかりのフェリクスだった。その一言はその場を凍らせた。元・勇者のアレンもいたが、フェリクスの後ろで肩を震わせていた。
コーディは、自分の代わりにフェリクスが何かされないか心配したが、結局は、今までコーディに卑怯な嫌がらせ行為した数人が、消えただけだった。
今も、元・勇者のアレンの側には、あの銀髪の美しい人が静かに微笑む。
「アンバーがD級になった経緯だが‥‥‥」
次の話に進んでいた。コーディの隣にいる姉は、あのアンバーという冒険者を随分と気に入っているようだ。コーディが渋い顔をする。
「レアを捕獲したのは俺ではなくアンバーだ。シークレットにした〘ギフト〙の【状態異常無効】が、短剣を通してブラックスライムの毒を消し、無色透明にした。アンバーがレアを作り出したんだ」
「‥‥‥っ!」
「まあっ」
「「なんと!」」
同行したギルマスが言うのだから、本当だ。何より彼の煙がそれが真実だと証明している。
「「気に入っているようでしたな、あのスライムを」」
「ああ、そのうち名前を付けそうだ」
「ふふっ」
ケイトは大きな丸眼鏡にランタンの灯を映して、楽しそうに笑った。
姉様‥‥‥。
あの青年には特別な何かがあるのだろう。コーディは、まだ彼をよく知らない。
A級冒険者アレンたちが保護した青年が、ギルマスと同居することになったと姉から聞いた時は、本当に驚いた。恋人と別れて数年、ひとり暮らしの彼が、会って間もない青年と上手くやっていけるのだろうか。
コーディは、魔法鞄でずっと眠っていた服や初心者用の短剣を用意した。
それから、姉が選んだ髪に良い香油と、双子が作った室内履きを持って、アンバーとディルクがいないうちに、脱衣所とシャワー室に置いた。
全て、姉様にお願いされたからだ。あの新人冒険者アンバーのためではない。
「アレンに借りた金を返すために、アンバーは黒い魔石を持って来る。目立たないよう数回に分けるよう言ったから、よろしく頼む」
「「「承知致しました」」」
「‥‥‥コーディも」
「はい、承知致しました(随分と過保護だな)」
「か‥‥‥‥‥‥解散」
「「「「お疲れ様でした」」」」
「‥‥‥お疲れさん」
コーディの心の声でダメージを受けたのは久々だ。
ギルド員たちが帰ると、正面と職員用の扉を施錠して、階段を上った。二階の資料室・応接室・代表室の戸締まりを再確認して、三階の住居に戻るまでの間、考えた。
随分と過保護だな。
正直シスコンに言われたくはないが、その通りだと思った。アンバーはこの世界を知らないし記憶がないからと、つい過保護になっていた。
自分はギルマスで、アレンに頼まれたアンバーの保護者でもあるが、親になりたいのではない。アンバーはもう十七歳で、男で、成人している。
今日、互いに好意を寄せていると知った。アンバーの心の声が聞こえたからわかった、両想いというやつだ。
だが、まだ恋人と呼ぶには早いような気がする。昨日出会ったばかりで、知らないことばかりだ。
ギルマスになったばかりの頃に、付き合った女がいた。今思えば、本当に好きだったのか?と疑うほどの、浅い恋愛だった。
自分なりに彼女のことを大事にしていたつもりでも、「愛が足りない」「ギルドと私、どっちが大事?」、最後の方には「息が詰まる」とまで言われ、ある日、別れ話もなく突然出て行かれた。勝手に転がり込んで来たのは、向こうだったのに。
ショックというより、静かになった部屋で、あの時はこう思った。
ああ、疲れたな、と。
アンバーと、話をしよう。
そうしなければ、自分が変わらなければ、きっと同じように繰り返してしまう気がする。
口を開けて寝ているアンバーの顔を見たら、何だかホッとした。鉄紺の髪は昨日よりも艷やかで、手に取るとスルンと逃げた。
「‥‥‥」
この髪のように、俺から逃げないでくれよ。
ベッドに座り、アンバーの白い額に吸い寄せられる。優しくキスをすると、琥珀の宝石が二つ現れた。
「約束通り、起こしたぞ」
「‥‥‥」
「アンバー?」
「‥‥‥また寝ている時におデコにキスした」
頬を膨らますアンバーが起き上がって、ディルクの顔を両手で挟んだ。
「お、おい」
わ、髭がザラザラ。キスしたら痛そう‥‥‥。
「‥‥‥三十前の男の肌をナメるなよ。手に脂がついたんじゃないか?」
「えっ?‥‥‥あ、こら、逃げるな!」
ディルクがアンバーの手から開放され、立ち上がる。
「これからシャワーを浴びる。ムッチョとモッチョから聞いたぞ?岩漿鰐のカリカリ焼きがあるんだろ?」
ディルクがニヤッと笑った。
「そう!それと、エールを飲みたい!」
「用意しておいてくれるか?」
「うん、任せろ」
ペタンコの室内履きを履いて、アンバーがディルクの前を通り、ダイニングキッチンへ行った。ふわっと、髪から良い香りがした。
双子が作った室内履きは、足のサイズもピッタリのようだ。ディルクも以前作ってもらったが、長持ちするし足に馴染む。
シャワー室に昨日まではなかった香油があったので、「これか」と手に取った。アンバーの艷やかな髪と香りを思い出す。
俺には勿体ない上等な香油だな。ケイトがアンバーのために用意してコーディが置いたのか。俺は、使わない方がいいだろうか?
「いや、一度は試してみるか」
変わらなくてはならないのは中身なのだが、気分を変えるのも必要だ。
シャワー室を出て、まだ濡れた髪と体のままで、脱衣所の洗面台にある鏡を見た。
「髭か‥‥‥」
三・四日は手入れをしてない髭に触れる。「老けて見える」と言われた気がする。それに、先程のアンバーの心の声。
キスしたら痛そう‥‥‥。
ディルクは大判の手拭いを頭に被り、ガシガシと髪を拭いた。
あいつ、俺の頬にキスするつもりだったのか?
アンバーと同じ香りになるといつまでも落ち着かない。洗髪液はともかく、あの香油だけは今日でやめておこう。
「スベスベになってる!」
暇だったのか、座って虫籠を覗き込んでいたアンバーが、ディルクの顔を見て笑顔になった。こんな顔をするなら、髭を丁寧に剃って良かった。
「年相応か、若く見えるよ」
「それだけか?」
すっごく、カッコイイ。
「お、おう」
照れてるディルク、カワイイ。
「もうやめてくれ」
「ふふっ」
アンバーが笑いながら食品収納庫にエールを取りに行った。ディルクが椅子に座る。
テーブルには、岩漿鰐のカリカリ焼きの皿に、薄く切った橙色のチーズがあった。表情が変わったディルクの目の前にエールのジョッキが置かれ、アンバーも座った。
「‥‥‥どうしたの?」
「‥‥‥このチーズ、食品収納庫にあったのか?」
「あったよ。ひょっとして、知らなかった?」
この色のチーズを食べたいとも思わなかったし、探さなかったから、残っていたのを忘れていたのだ。食品収納庫の中は時間が止まっているので、入れた時の状態が保たれている。
「熟成チーズが食べたいなと思って探したら、これが出てきたんだよ」
ちょっと変わった匂いがしたから一応、味見したけど。
「‥‥‥変わった匂い?」
「あ‥‥‥」
こういう時って、聞こえちゃうと困るね。
アンバーが、椅子の上で両膝を抱えるように座った。怒られると思ったのだろう。
「‥‥‥」
「‥‥‥あのね、ディルク」
先程までの俺なら、きっと怒っていた。「何故そんな無茶をした!」と。
「俺ばかりが聞こえてしまって、悪いな。アンバー、話してくれるか。俺も話すから。俺は、お前さんとは、ちゃんと話し合える関係でいたい」
アンバーが目を瞠った。
両想いになったばかりで、まだ互いを知らない。ずっと一緒にいられるわけじゃないからこそ、そうした時間を大切にしたいと、アンバーも思っていた。
嬉しい。
「オレも、ディルクとそんな関係でいたい」
膝を抱えたままの蕩けるような笑顔のアンバーを、今すぐ抱きしめたい気持ちになる。ディルクは深呼吸した。
「アンバー」
「食べた後に体が少し熱くなったから、たぶん何かは入ってたけど、毒ではないと思うよ。ちょっと甘い匂いがした」
状態異常が無効化されるアンバーだからこそ、食べてみたのだ。体が熱くなるのは体に異常があったからで、即効性の毒だとしたら、口に入れてすぐにわかる。甘い匂いなら媚薬の類だろう。アンバーには効かないまま体内から消えた。
ディルクは、アンバーに左耳を見せた。煙水晶のスタッドピアスの他に、普段は髪で隠れるヘリックスに銀のフープピアスがあった。
「状態異常を緩和するピアスだ」
「緩和?‥‥‥耐性じゃなくて?」
「お前さんのように無効化されるのが一番いいが、俺の場合は、体の異常が何なのかを残す必要がある」
ディルクには〘ギフト〙【真偽】がある。煙の結界と合わせて、悪意の正体を捕らえることができる。
「ここの食品収納庫に入っている料理や食材は、ムッチョかモッチョが持って来るから、安全だ。いや、安全だった」
「このチーズは?」
「‥‥‥以前付き合っていた、彼女が置いて行ったんだろうな」
アンバーが顔を顰める。別れた女の話が出たからではない。
ディルクは二十九歳だ。付き合った人の一人や二人、三人くらいはいただろうと思っている。いや、四・五人はいたかもしれない。ディルクは格好良いから。
そうではなくて、ディルクに黙ってこんな事をするのが許せなかった。
卑怯だろ。
アンバーの怒りが伝わり、ディルクは苦笑いした。嫌な気持ちにさせたくはないが、話すと決めたからには言わなくてはならない。
「俺には無駄だとわかっていて仕込んだんだ。彼女自身が食べて騒ぎを起こすか、俺の友人や次の恋人が口にしたら面白いと考えたのかもしれない」
「それもう犯罪だろ」
「ああ、だからお前さんは怒っていい」
「ディルクも怒っていい!オレに〘ギフト〙がなかったらどうするの?新人冒険者に媚薬を使ったのはギルマスだと疑われるじゃないか!」
「それが、目的だったんだろう」
「‥‥‥!」
だが、これでもう、完全にあの女は出入り禁止だ。
「その彼女って、チーズが好きだったの?」
「ああ、この熟成チーズを好んでよく食べていた。実は、あまりスッキリしない別れ方でな。思い出したくなくて、俺はチーズを食べなくなっていた」
「えっ?でも‥‥‥」
作ってくれたサラダやバゲットサンドにも入っていたし、昼には街で一緒にピザを食べた。チーズを増量して。
「ちゃんと栄養バランスを考えて食べさせたかったから入れた。ピザは、お前さんとなら楽しく食べられる気がしたんだ。あのアツアツでたっぷりのチーズ、美味かったな」
「ディルク‥‥‥」
「アンバーのおかげで、いろいろ克服できた。チーズも、人を好きになる気持ちも」
アンバーは真っ赤になった。頬が熱くて、虫籠のひんやり冷たいスライムを出した。
頬にピトッとスライムを付けるアンバーの姿に、ディルクの顔が少し引き攣った。別に、スライムに嫉妬しているわけではない。そう自分に言い聞かせた。
「あのさ。この無色透明のスライムの時みたいに、チーズをキッチンナイフでツンとしたら、食べられるチーズになったんだ」
「そうか。‥‥‥このスライムは、なかなか役に立つな」
「でしょ?名前を付けようかと思って」
「‥‥‥ん、やはりそうきたか」
予想していた通りだった。
「アンバー、そろそろエールを飲まないか?」
「賛成」
せっかくのエールと岩漿鰐のカリカリ焼き。それと、無害になった熟成チーズに罪はない。
「「乾杯」」
初めてのエール。そのエールが温いので、アンバーは驚いた。そうなってしまったのではなく、キンキンに冷やして飲まないのだ。
「ん、何だろ‥‥‥上手く言えないけど、香りがするし、苦みもあるね」
「そう言えば、お前さんの瞳に似ているな。琥珀色だ」
「それなら、エールを飲むと皆がオレを思い出してくれるかも」
そう言って笑い、岩漿鰐のカリカリ焼きとエールとを交互に口にして「美味い、辛い、苦い、止まらない!」と興奮した。
カラになったジョッキを除けて、ディルクは食品収納庫からエールのジョッキを追加した。
「良かったな、これがこの世界の大人の味だ」
「これが、大人の味‥‥‥!」
成人を前に死んでしまった前世の代わりにはならないかもしれない。きっと生きていれば、友人たちや家族から盛大に祝ってもらえたはずだから。
それでも、今はこの世界で生きる彼に、人生の先輩としてこの言葉を贈りたい。
「アンバー、成人おめでとう」
大きく見開かれた琥珀色の瞳は次第に潤んでいった。二杯目のエールのジョッキを、カツンと合わせる。
「‥‥‥ありがとう、ディルク」
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三つの月を眺め、琥珀色のエールを飲みながら、あの子を思い出す。
「この世界で、再び一緒に生きることが叶ったんだ。神に感謝をしなければ」
温いエールの苦みには慣れることはないと思っていたが、これからは好きになれそうな気がする。この宿の広いバルコニーは、夜風が気持ち良かった。
「珍しいですね。貴方が、神に感謝とは」
隣のベッドで眠っていた彼を、どうやら起こしてしまったようだ。ストールを羽織って、バルコニーに出て来た。
「‥‥‥そうだったかな?」
願ったはずの人生は、想像したものと全く違っていて、本当に何度も後悔した。
「確かに、片手で数えられるほどしか、感謝をしていないかもしれない」
「ふふっ、神職の方が聞いたら顔を顰めますよ」
「聞いていたらね」
残りのエールを一気に飲み干した。
「‥‥‥」
「あの二人は、どうするんです?」
「うん、どうしようか」
あの子に何かしたわけではないが、一人は王女と繋がっている。何もしないならと放置していたが、早く理由をつけてスッキリしたい。
「キミに嫌がらせとか、してない?」
「残念ながら。嫌われてはいますが、何もされていませんよ」
「参ったなぁ」
僕は、悪人にはなれないんだよ。他の者たちが次々に消えていくのを目の当たりにして、慎重になったかもしれないな。
「‥‥‥ですが、もう一人はあの子たちの邪魔になるかもしれません。今は大人しいですが、何を考えているのか。貴方や私に好意を寄せていたのは最初だけでしたし。出来るだけ、ガレイルから離さなければなりません」
「邪魔、か。‥‥‥そうだね。でも少し複雑だな。僕もあの子の邪魔をしてしまうかもしれないから」
少し寂しそうな碧眼が、カラになったエールのグラスを見つめる。
「ダメですよ。あの子が選んだなら、背中を押してやらないと」
背中に温かい手が触れて、ピクリとした。
「取り敢えず、明日には王都に入るのですから、そこまで連れて行ってから考えましょう」
「キミが、そう言うなら‥‥‥」
腰まであった長い髪は、背中に触れている彼の白く美しい手を借りて短くなった。一度やってみたかった、ベリーショートだ。明日の朝、他の二人はきっと驚くことだろう。
「その長くて美しい金髪が私は好き。お願いだから切らないで」と、潤んだ瞳で懇願する王女が、本当に鬱陶しかった。
王女よ。
貴女のことは、最初から愛してなどおりません。
この姿を見て嘆くなら、勝手にどうぞ。
僕はもう勇者ではない。自由な冒険者になった。
「早く気付いてもらいたい」
勘違いしている愚かな王女に、
「気付いてくれるかな」
僕の、お姫様に‥‥‥。
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橙色の熟成チーズを食べたアンバーが「果実のお酒にも合うよなぁ」と呟いた。
‥‥‥ジェイクに、頼んでみるか。
ディルクは果実酒を飲まないので、ここには置いていない。それとは別に、彼に言わなくてはならない事がある。
アンバーがステータス画面を確認した時、〘ギフト〙の【状態異常無効】に+が付いていた。そして、無害化・特級が新たに追加されていた。
無害化?何だそれは。浄化ならわかるが、初めて聞いたな。‥‥‥しかもいきなり、特級?
「〘ギフト〙の+ならば、俺のギルドカードにも付いている。結界に近い役割をする煙がそれだ」
煙で嘘がわかることに加えて、別の能力が使えるようになると、〘ギフト〙【真偽】に+が付いた。
「それと、お前さんの心の声が聞こえるのも、俺の新たな力だ」
そっか。オレのギルドカードでは【状態異常無効】をシークレットにしたから、+も出なかったんだな。
「そうなるな。ところで、短剣以外でもナイフで使えたなら、お前さんに合った武器を考えなくてはな」
「うん!」
「【自己管理】にも+が付いたら、教えてくれ」
「あ、はい」
そっか、そっちもあるんだった。
「‥‥‥そろそろ寝るか?」
気付けばもう一時だ。エールを二杯も飲んだから、少しは酔って眠くなっているのではないかと思った。
「んー‥‥‥、ディルクは疲れた? あのさ、カモミールティー飲みたいし、星も見たい」
「ああ、乳白色の妖精からもらったカモミールか」
確かに、あれを飲んだほうが疲れが取れて、良い眠りに繋がるだろう。
「わかった、そうしよう。用意する」
明日ディルクは仕事は午後からで、午前中はゆっくりできる。
「オレここを片付けるから、湯が湧くまで先に歯を磨いちゃおうよ。すぐ眠れるように」
「それがいいな」
昨夜の香草茶は、それなりの味になってしまった。せめて飲みやすくするために、アンバーにはハチミツを入れたのだが‥‥‥。
「今日は、ハチミツの出番はないぞ」
美味しく作れる自信があると、ディルクは言いたいらしい。食べ終えた食器を運ぶアンバーがクスッと笑った。
「期待していい?」
「ああ、任せろ」
「わあっ、今夜の星空もキレイだな!」
街の中では街灯や店の灯りで見えにくい。やはり、この高さの建物が他にない三階のルーフバルコニーから見る星空は最高だ。
なんて贅沢!‥‥‥酔っ払いの声は聞こえるけど。
「ははっ、それは諦めろ。ギルド前は飲み屋が多い」
「だね」
カモミールティーのマグカップを持って、ディルクとベンチに並んで座った。
「あのさ、次の日が休みか午後からの仕事の時にだけ、夜飲みしようよ。どう?」
「そうだな。どうしても俺がギルドを閉めてからだと、十一時を過ぎてしまうからな。香草茶はどうする?」
「飲みたい。でも、ディルクが疲れてなければでいい」
「美味いのが飲みたいから?」
「ふふっ、それもあるけど、‥‥‥それだけじゃないよ」
毎日そうすると決めてしまったら、きっとディルクは無理をしてしまう。
「わかった、無理はしない」
「うん」
晴れた日はこうやって星を見ながら、曇りや雨の日は室内で飲んで、少しだけでもいいから、話をしてから眠りたい。そう言うと、ディルクが頷いた。
「昼や夜は、食事は一緒にできない場合がある」
「それは、ディルクはギルマスだから、ちゃんとわかってるよ。昨日も一昨日も、オレがこの世界とギルドに不慣れだから、合わせてくれたんでしょ?」
忙しいのに、オレのために時間を作ってくれた。
「‥‥‥まあな。だが、そうして良かったと思っている。あの時間がなければ、お前さんと今こうして過ごせなかった気がする」
ディルクは空を見上げた。月は最近二つから三つになったばかりで、これから少しずつ寒くなっていく。いつもと同じ星空が輝きを増したと感じるのは、気持ちのせいだけだろうか。
「朝は一緒に食べて、話をしよう。もちろん、互いに無理のないように、だな?」
「うん」
乳白色の妖精からもらったカモミールで作ったお茶は、ハチミツが入っていないのにとても甘く感じた。
心も体も温まり、飲み終わったマグカップを少し離れた丸テーブルに並べて置いた。アンバーは再びディルクの隣に座ると、ソワソワとした。
「‥‥‥トイレか?」
違うわ。
「ねぇ、ディルク」
スベスベになった頬に、触れてもいいでしょうか?
「許可制になったのか?」
「触れたい」
「ああ、触れてくれ」
白くて細い両手が伸びてきて、先程と同じようにディルクの頬を挟んだ。
「‥‥‥触れるどころか、ガッツリだな」
「へへっ。オレさ、スベスベの方が好き。無精髭のディルクも、ワイルドでカッコイイけど」
褒めると照れて困ったように笑う。そんな顔も堪らなく好きだと思う。
このまま、キスしたい。
「ああ、俺も‥‥‥」
アンバーがディルクの唇に、自分のそれを重ねた。
「‥‥‥っ」
好き、ディルク、好き。
想いが伝わる、啄むようなキスを、何度も、何度も。
頬にあった温かい両手は、ずれ動いてディルクの耳を塞いでしまっていた。アンバーは何も考えていなかったが、そうしたことで、街のざわめきよりもキスの音が大きくディルクに響いていた。
初々しくて可愛らしい、それでいて情熱的な口付けに、ディルクは幸せで涙が出そうになる。
もっと深く、隙間もないほど深く、この甘くて愛しい唇と、そんな風に繋がれたら。
そう願った時に、唇が離れて、アンバーの手が滑り落ちた。苦しくなったかと、ディルクはアンバーの後頭部と背を支えるように腕を回した。
「アンバー」
「‥‥‥」
「‥‥‥アンバー?」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
おい、嘘だと言ってくれ。
「寝たのか?本当に?」
顔のあちこちにキスをしても、抱き上げてベッドへ運んでも、アンバーは起きなかった。
「なぁ。ここを自分の居場所だと、俺の隣は心地良いと、そう思ってくれたってことでいいのか?」
気持ち良さそうにスヤスヤと眠る、無防備な恋人。少し乱れた鉄紺の髪を、ディルクは優しく撫でて整える。
「おやすみ」
さて、朝になったら、こいつはどんな顔をして起きてくるのだろう。
読んでいただきありがとうございます。