余目家二階 1
「どちら様ですか?」
駅からほど近い一等地に建つ豪邸。
開業医の余目医師の自宅を訪ねた人見 誠巡査は、玄関から顔を出したサラサラ黒髪の美少女にそう尋ねられた。
「きのうも会ってます。人見です」
「あ、きのうの刑事さん」
黒髪の美少女が真顔でそう答える。本当に本人かどうか疑っているのだろうか、じっと見つめた。
余目 花織。
余目医師の一人娘だ。
大麻の売買捜査の張り込みで、余目家の一部屋を借りることになったのだが、父の余目医師も母の余目夫人もふだんはほとんど家にはいないとのこと。
応対することになるであろう娘、花織に自己紹介したところ、人の顔が見分けられないのでそのつど名乗ってもらうかもしれないと言われた。
「わたし失顔症なんです。申し訳ありませんけど、きのうの刑事さんって証明できます?」
きのうも同じセリフを聞いた。万が一別人だった場合の保険だろうか。
失顔症。正確には相貌失認。
彼女の場合は生まれつきのもので、目に異常はないのに、人の顔だけ限定で見分けることができないとか。
誠は少し戸惑ってから、警察手帳をとりだした。
開いて見せる。
「わぉ。本物はじめて生で見た」
花織が黒目がちの大きな目を丸くする。
「僕の同僚は来てます?」
誠は家のなかを覗き見た。
「来てますよ。百目鬼刑事さん」
「百目鬼さんはパスしたんだ」
「頬の肌の感じに特徴ありましたから。肌理の粗い濃いオークルでややたるんだ感じ、無精髭、髪の生えぎわは不ぞろい。呼び鈴の押しかたは、ピン……ポーン」
花織が顔を上げて、テヘッというふうに笑う。
「顔が見分けられないから、ほかの部分で見分けるんです」
髪の生えぎわって。誠は苦笑した。
「僕は分からなかった?」
「うちの駐車場についた時点で分かりましたけど、いちおう」
花織が答える。
「車から降りるときに衣ずれの音が大きいのと、ドアの閉めかたが慌ただしくバンッ。靴底で地面をこするようなザッ、ザッ、ザッて足音」
花織は誠の顔をじっと見た。
「結構せっかちなんですか?」
誠はなんとなく目を泳がせた。
少し動きのクセを変えてみよう。
「どぞ」
花織が玄関のドアを大きく開け、なかに促す。
一部にスロープのついた上がり框に、紺色のスリッパを出してくれた。
「お構いなく」
「部屋借りて張り込みなんて、本当にあるんですね」
クリーム色のスリッパを履いて、花織が二階へと案内する。
「上司の許可が出れば。意外とやるよ」
「予算って、税金?」
トントンと軽い足取りで階段を昇りながら花織が問う。
「いやまあ……」
誠は顔をしかめた。
公務員をやっていれば、「税金泥棒」と罵られることはままある。
「上限がある場合もあるよ。……ない場合もあるけど」
ふうん、と花織が相槌を打つ。
「二人一組ってのも本当なんだ」
「単独行動のときもあるよ。役割分担が必要だとこんな感じ」
花織が二階の廊下をスタスタと進む。
大正ロマンにでも出てきそうな和洋折衷の感じの豪邸だ。
階段を昇ってその先に伸びる廊下に複数の扉が並んでいる。こんな一般住宅はじめて生で見たと誠は思った。
花織がいちばん奥のドアを開ける。
ニ十畳ほどのフローリングの部屋。
一角に絨毯が敷いてある以外は何もない殺風景な部屋だったが、余目家の配慮でベッドとテーブルが一台ずつ運ばれた。
南側の窓ぎわ。双眼鏡で外をじっと見ている恰幅のいい男性がいる。
百目鬼刑事。
先輩刑事で、捜査専科講習の実務から何度か組んだことのある人だ。
「ベッド、本当に一台で良かったですか?」
百目鬼の横に歩みより、花織が問う。
「ああ」とも「んあ」ともつかない口調で、百目鬼が外を見ながら返事をした。
花織も同じように窓の下を見下ろす。
「おとなりの一之瀬さんのお庭、さいきん芝生がめっちゃ青いんですよね」
「あ?」と返事をして、百目鬼が双眼鏡から顔を外す。
花織がとなりの三十坪ほどの土地に建つ平屋の一軒家を見下ろしていた。
見張っているのはとなりの家ではなく、まったく違う方向の十字路なのだが。
「となりの芝生は青いもんじゃねえの?」
百目鬼がそう答えて、十字路のほうに視線をもどす。
「うちの芝生のほうが綺麗な青だと思いません?」
花織がそう答えた。