ガターンゴトーン
「がたーんごとーん、がたーんごとーん。次はだいどころーっ、だいどころーっ」
小さな手にオモチャを掴み、フローリングの繋ぎ目を線路に見立ててご機嫌に電車を走らせる息子。
「あーちゃん、もうご飯だから止めなさい。あーっ、もうっ床に傷がっ!」
身に付けていたエプロンで床をごしごし磨いても、ついた傷は修復しない。
私たち親子が住む家は賃貸だ。少しでも敷金が戻ってこればと綺麗に丁寧に暮らしている。
「ほら、もう片して! 片さないと捨てちゃうよ」
「はーいっ」
床を傷つけてしまった息子に罪はない。だけど気に食わない。何が気に食わないって、電車のオモチャを買い与えた義母だ。
節約、節約で、息子にオモチャを買い与えていないのは確かだ。だけど、その分、公園に連れていったり、図書館で本を借りたりしている。大好きな電車だって、入場券をわざわざ買って駅の構内で見せてあげている。それなのに、
『アツコさんはケチなのよ。欲しいもの一つ買い与えないで。あーちゃんには、おばあちゃんがいっぱいオモチャを買ってあげるからねぇ』
息子にいい顔ばかり見せる義母。お陰で息子はすっかりおばあちゃん子だ。私はそんな義母がイヤでたまらない。
計画もなく散財して何度もお金を無心してくる。いろいろ買い与えてるはずなのに、人をケチ呼ばわりする。いいかげん自分の財布の紐くらいきちんと締めて欲しい。
得意気に困っているようにみせる顔。その顔を思い出すたび、腹が立つ。ニヤニヤ勝ち誇った顔にイラッとする。
力任せに置いた味噌汁がこぼれた。「あーあー」と息子が呟く。
「ごめんね。今片付けるね」
「うん、あーちゃんも手伝う」
「ありがとう」
「うん。あーちゃん偉いから、おばあちゃん、また新しい電車買ってくれるね?」
息子は可愛い。だけど義母にオモチャで洗脳された息子は可愛くない。
◇◇◇
「ほら、あーちゃんに電車の本を買ってきましたよぉ」
頻繁に顔を見せにやってくる義母が、今度は電車の写真集を持ってきた。本屋や図書館では目にしたことがないオールカラーの通好みの本だ。
「それ、どうなされたのです?」
「これ? この間お友だちと旅行に行ったのよ。そこで電車の博物館みたいなのがあって、立ち寄ったら売っていて」
「そうなんですか……」
裏の値段をみれば、有名ブランドのティーシャツが買えるほどの価格が書いてある。
「結構な値段ですね……」
「そうなのよ。だけど、あーちゃんの喜ぶところみたいでしょ?」
「そうですけど」
「それでね、ちょっと使いすぎちゃってお金を融通して欲しいの」
またか。うちだって家計は火の車だというのに。
渋々、食器棚の引き出しに入れていた銀行の封筒を取り出す。これは息子と一緒にテーマパークに行くために用意したお金だ。入園料の他にも行き帰りの交通費だったり、園内で楽しむ食事代だったり。お土産代だって入っている。
「お義母さん、どうぞ」
奥歯を噛み締めながら手にした封筒を差し出すと、当たり前のように受け取り、中のお金を数えだす。
「あら、こんなに貯めこんで。おばあちゃんが、ちゃんとあーちゃんに使ってあげますからね」
カチンとくる。
今渡したお金も、その前に渡したお金も、全部全部ひっくるめてしまえば、こんなにケチケチした生活なんてせずに済んだというのに。行きたがっている電車の博物館にだって気が済むまで連れていくことが出来るし、泊まり掛けで行くことだって可能だ。なんなら、豪華寝台列車を乗り継いで日本一周だって出来る。
だけどこの人は知らない。千円もしない電車のオモチャを両手いっぱいに買ってきたとしても、高価な写真集をプレゼントしたとしても、この子から本物に触れる機会と感動を永遠に奪っているということに気付いていないのだ。
「──でね、アツコさん」
「あ、はい」
「これ、博物館近くの露店で売っていた物なんだけど」
レトロで雰囲気あるのよ、とバッグから取り出したのは、プラスチックで出来た安価なオモチャなどではなく、見るからに重厚感のあるオモチャの電車だった。細部までしっかり作られていて、まるで本物をそのまま小さくしたような。
「すごいですね」
電車にあまり興味のない私ですら感動を覚えるレベル。
「でしょ。これね、引退した電車の一部を使って作ってるんですって」
「本当ですか?」
引退した電車が博物館で保存されたり、海外に運ばれ現役で走っているという話は聞いたことがある。けれどオモチャの一部に使われているというのは初耳だ。
「でね、その中でコレはとても稀少らしくて──」
◇◇◇
「で、あーちゃんの一番のお気に入りになった訳だ」
カレンダーの裏に描いた線路の上を息子が「がたーん、ごとーん」と例の電車を走らせている。夫は食後のお茶を啜りながら、その様子を微笑ましそうに見ていた。
「よし! あーちゃん、線路に駅も足そう。踏み切りも、鉄橋も、山も、川も」
息子は「うん!」と元気に答えたが、欲張りすぎだと思う。
「描けるの?」
「こうみえても学生時代は美術で3以外とったことない」
自慢にならない。
「よーし! 駅はどこに描く?」
「ここぉ!」
「じゃあ、踏み切りはこの辺に描くか」
「だめぇっ!」
「どうしてだ?」
「これ◯△線だから、駅よりもずっとこっち」
「あーちゃん、詳しいな」
「えっへん!」
「◯△線ってお義母さんが乗ってくる路線よね?」
「そうだな。母さんが教えたのか?」
「どうだろ?」
息子は覚えたての平仮名で駅の名前や踏み切りの名前を書き込んでいく。いつの間にこんなことが出来るようになったのだろう。不思議だ。
「そうだ! 今度の休みにみんなで線路沿いの写真を撮って歩かないか?」
「え?」
「絵で描くより、それっぽいのが出来るだろ?」
たしかにそうだけど……
「のんびり歩きながら散策すればいい運動にもなるし、ストレス解消にもなる。お腹の子もママのイライラから解放されて喜ぶんじゃないか?」
夫は私がイライラしていることに気が付いていたようだ。少し嬉しくてほっこり胸が温かくなる。
けど、一体誰の親のせいよ! と突っ込みたくもなる。
「なあ、あーちゃん、お写真撮って歩かない?」
「歩くぅ」
「じゃ、決まりな。ママに美味しいお弁当作ってもらおうな」
「うんっ!」
◇◇◇
◯△線ツアー初日は息子が作ったてるてる坊主のお陰か、梅雨の晴れ間となった。物干し竿に滴る雨の雫がキラリと光って美しい。
お弁当は昨夜から仕込んでいたおかずをお弁当箱に詰め込み、一口大のおにぎりと大きなおにぎりを用意した。
「──え? そんなこと急に言われても……」
夫は朝っぱらから掛かってきた電話に対応中だ。その間息子は特製線路の上でお気に入りの電車を走らせている。
カレンダー裏の線路が特製になったのは、ここ数日の間に近所の写真を撮って貼ったからだ。方角を考えずに撮ったため視点がまちまちになってしまったが、息子は出来上がっていく特製線路図を大いに喜んでくれている。
「だから……」
夫の呆れた声がする。電話はまだかかりそうだ。いつになったら出掛けられるのか。
「あーあっ」
「どうしたの?」
「ん? 置き石。置き石で電車が止まっちゃったの」
「置き石……」
電車が止まる理由で報道されている一つだが、あまり聞き慣れない言葉に驚いてしまう。最近そんなニュースが流れたっけ? と首を傾げてしまう。
「あー、もう分かった! 分かったから! じゃあね」
夫が電話を切った。その顔は不機嫌そのものだ。
「お義母さん、なんだって?」
「今度生命保険を解約するから、俺たちのところで契約しろって」
「それってお義母さんが自分の葬儀分は用意しておくって言ってたやつ?」
「うん。断ろうとしたら『私に何かあったら困るのはあなたたちでしょ?』だって」
「嘘…… お義母さんっていくつだった? 今から入り直すんじゃ……」
「保険料は高いだろうな……」
「それじゃあ、私、働きに出た方がいいかな……」
「止めとけ。また身体を壊しちゃ元も子もない。俺が頑張るからさ」
「だけど……」
正直、今の夫の収入だけでは不安だ。二人目も初秋の頃には生まれる。出産費用は準備してあるが義母の無心と保険料を負担しなければならないとなると……
「痛たたた……」
「どうした?」
「ちょっとお腹が張っちゃって」
「大丈夫か? 病院に行くか?」
「平気、休めばすぐに良くなるから」
私はソファの上に横になった。息子が「まだ行かないのぉ?」と寄ってくる。
「うーん、ママの体調も良くないみたいだし、おうちで遊ぼうか?」
「うーん」
息子は今日という日を楽しみにしていた。せっかくの予定を無駄にはしたくない。
「パパと二人で行っておいで。ママはおうちでお留守番してるから」
「おい?」
「いいの、いいの。せっかく良い天気になったんだし楽しんでおいで。そうしてくれた方がゆっくり出来るし」
「そうなのか? それなら行ってくるけど」
「うん」
「じゃあ、ママの分も楽しんでくるか!」
「うん! じゃあ、パパ行こう!」
「よし、行こう! 何かあったら連絡寄越せよ」
「うん、気を付けてね」
「ああ、いってきます」
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
二人が出掛けた後、私は眠ることにした。目を瞑ると開け放っていた窓から、梅雨の時期には珍しく涼しく爽やかな風が入り込んでくる。
気持ちいい……
私は夕方になるまで、すっかり眠りに落ちていた。
◇◇◇
「その写真はここでね、それはここ!」
夕食後、帰りに現像してきたという写真を息子が得意気に並べる。
「すごいねぇ! すごいねぇ!」
息子は予想以上のできに喜んでいるのか鼻息を荒くして飛び跳ねている。
「あーちゃん、下のおうちにご迷惑」
「大丈夫じゃないか、これくらい」
そうかも知れないが用心に越したことはない。飛び跳ねるのを止めさせる。
「それにしても、ずいぶん沢山撮ってきたのねぇ。パノラマ写真みたい」
「だよな。提案したのは俺だけど、ちょっと歩く度に写真撮るから周りの人に変な目で見られちゃって。あーちゃんがいたから、まだ平気だったけど」
「下手したら職質案件だったかもね?」
「だな」
丁寧に景色の隙間なく貼られていく写真。が、一枚だけ不自然な方角から撮られた写真が混じっていた。
「ちょっとズレてる?」
「ん? ああ、それな。その近辺で何かあったらしくて、警察とか鉄道会社の社員かな? 集まってて…… あ、テープ無いや。替えはある?」
「あるよ。電話台の引き出しに」
この時の私はまだ不自然な写真を貼った場所が置き石の場所だと気が付かずにいたのだ。
◇◇◇
翌日、お昼過ぎから降りだした雨はやがて豪雨となった。風も強く、窓から外の様子を見ることすら叶わない。
「ほら、早くお夕飯食べちゃお」
パチンパチンと時折電気が途切れる。停電が起きるかも知れない。こういう日は早くご飯を食べて、お風呂に入って寝てしまうにかぎる。
「あーちゃん、ご飯のテーブルに電車を持ってきちゃダメでしょ! ご飯でしょ!」
早めの夕飯で息子はまだ遊び足りないのかテーブルの上で電車を走らせる。
「あーちゃん!!」
テーブルに叩きつけるように箸を置く。すると息子の肩がビクリと跳ねた。大きな瞳を潤ませて私を見つめる。
「ご飯って言ってるでしょ!?」
ここで怯んではならない。今のうちから躾をしっかりしておかなければ下の子が生まれてから大変だ。
「ごめ、ごめ、ごめんちゃい…… うわーん!」
泣かずに、言葉につかえながらも謝るが、結局大声で泣き出してしまう。幸い今夜は大雨だ。雨音で泣き声の苦情がくることはないだろう。
「ほら、お箸をちゃんと持って」
「うえーん!」
持たせようとした箸が電車の前に転がる。それを馬鹿にしたように電車が鈍く光る。全く持って忌々しい。
私は息子の涙に濡れる電車を掴むと、息子の手が届かない高い場所に置いた。「返して」と散々喚いたけれど、頑として譲らなかった。今までこんなワガママを言うことなどなかった。こんなにオモチャに執着することなどなかった。それなのに。
どれもこれも全部義母のせいだ。
怒りに任せて怒ったりしないようにと思っても気持ちの歯止めがきかない。
「あーちゃん!」と怒ってしまう。
イヤだ、こんなの。
分かっているのに止められない。誰かに止めて欲しい。なのにそんな日に限って、夫から「今夜は帰れなさそうだ」という連絡が届いた。豪雨の影響で電車が止まったからと。
その夜は気まずいまま息子と過ごした。電車のオモチャは返さないまま寝かしつけ、私も早々布団に潜り込んだ。
ごうごうと雨が降る。ガタガタと家を揺らし、眠らせてくれやしない。
イライラする気持ちが不安に変わっていく。
息子がそのうち、怒ってばかりいる私を捨てて義母のところへ行ってしまうかもしれない。
そう思うと怖くて仕方がなくなった。
暗がりの中、私は息子の頬を撫でる。
明日には電車を返してあげよう。
そう心に決めた。
◇◇◇
朝になれば快晴で息子の表情もきらびやかなものだった。
手には電車。今日も順調に特製線路の上を走らせている。
「がたーんごとーん、がたーんごとーん。まもなく◯◯駅です。お降りの際は── あっ、オーバーしちゃった」
「何? オーバーって」
「止まらなくちゃいけないのに、止まれなかったの」
「???? へぇ……」
よく分からないが、どうしよっかなぁって悩んでいる。「どうしようねぇ」と私に答えを求めてくる。頼りにしてくれてるし、捨てられたりしないだろう。
「うーん、わからないなあ。わからないけど、電車を見に駅まで行こうか?」
「うん! ママ、早く行こう」
「わかった、わかった」
お出掛けの準備をし、私たちは駅まで歩いた。
駅前のバスターミナルには人が並び、見かけたことのないバスが待機している。
『代替輸送』
バスのフロント部分にはそう書かれた紙が貼られてある。
駅に入れば、夫が利用している△△線が倒木のため不通になっていると電光掲示板に表示されていた。
「いっぱいいるねぇ」
「そうねぇ」
人の多さにめまいを覚えながら券売機で入場券を買う。改札を通し、ホームにおりてベンチに座って一息つく。
息子も隣に座り、足をバタバタさせて電車が来るのを待ち始めた。
「あーちゃん、喉渇かない? 麦茶は?」
バッグから水筒を取り出すと「のむーっ」と言って、ストローに口をつける。ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を飲んでいると額から汗が流れた。ハンカチを取り出し汗を拭ってあげる。そんなことなどをそうこうしているうちに電車が構内に入ってきた。
「いつもよりはやいねぇ」
「そうだね」
「これ、オーバーするんじゃねぇか」
隣に立っていたサラリーマンがぼそりと呟いた。
オーバー?
今日、二度聞く言葉だ。
電車は駅のホームから少し外れたところで停車する。駅員が慌てて走り回る様に、オーバーってこういうことかと理解した。
それに……
「いや、たまたまだろ? 置き石だって、倒木が線路を塞いでしまうことだって珍しくない」
夫は私の言うことに首を振り、信じてくれない。
「じゃあ、ホームの、電車の停車位置をこえちゃうことは? あれはどうなの!?」
「少しくらいずれることはたまにあるよ。ただ大きくニュースに取り上げられないだけで」
そんな筈はない。あの電車にはきっと不思議な力があるんだ。
◇◇◇
「アツコさん、ちょっと駅まで行かない?」
梅雨明けのニュースが流れたお昼過ぎ、義母からそんな電話がかかってきた。駅ビルの催事場で着物の展示会が開かれているという。「見るだけ一緒に見ましょうよ」と誘ってくるが、これはまた帯留めの一つくらい買ってくれと催促されるに違いない。
「たった今、あーちゃんがお昼寝を始めたところで」
やんわりと断りをいれるが、物欲とは恐ろしい。赤ん坊じゃないんだから起こせと言う。それでも機嫌が悪くなるからと渋っていれば
「パフェ食べさせてあげるって言えばいいのよ」などと簡単に言ってくれる。
相変わらずの傍若無人ぶりに私はもう限界だった。この先もずっと振り回されるのかと思うと、こともあろうか殺意が芽生えた。
生命保険にも入ったし、たまたまだって言われたけど……
私は例の電車とカレンダー裏の特製線路図を用意した。
物は試しよね? あとは……
押し入れから結婚式の写真が収められたアルバムを引っ張りだす。ページを捲り、義母の写真がないか探す。
うまくいかないかもしれない。だけど……
義母の写真が一枚だけあった。夫と私と三人で撮った写真だ。それを駅に置く。これで義母の上を走らせれば……
「ガターンゴトーン、ガターンゴトーン」
私は電車を走らせる。川の上に架かる鉄橋を渡り、次は踏み切りを通過させる。
「カンカンカンカン……」
もうすぐ駅だ。減速を始めて……
「◯◯駅、◯◯……」
「ママぁ?」
「えっ!?」
私は手にしていた電車を手放した。
「何してるの? あっ、電車ごっこぉ?」
「う、うん。あーちゃん、いつも楽しそうだから、やってみたいなって思ってて」
「なぁんだぁ。そういう時は『まーぜーてっ』て言うんだよ?」
息子は私が落とした電車を拾うと勢いよく線路の上を走らせた。
写真!!
写真はひっくり返っていた。息子が隣の部屋から入ってきた拍子に裏返ったのかもしれない。
私は写真に手を伸ばした。
『ピーンポーン』
「誰かきた! おばあちゃんかな?」
勢いよく走っていた電車は息子の手という制御装置から外れ、描かれた線路の上を滑るようにして進む。たいした減速もせず駅構内に侵入すると拾い損ねた写真の上を通過した。
嘘……
「ママーっ、やっぱりおばあちゃんだったよ」
私の腕を引く息子。迎えにきた義母を前に私は写真を拾うことが出来なかった。
◇◇◇
「パフェおっきかったね」
帰り道、ごったがえす駅のホームで義母の手を掴んで前を歩く息子はご機嫌だ。
パフェ代は義母が払ってくれた。それに紙袋いっぱいの洋服代も。
私をここまで引っ張り出した着物の展示会というのは方便で、生まれてくる子の洋服を買いに連れ出されただけだった。
「ねえ、アツコさん。同じ赤ちゃんの服でも女の子のは特に可愛いわよね」
「ええ、本当にそうですね」
お腹の子に新しい服を買ってあげる気はなかった。息子のお下がりがあるし、すぐに着られなくなるからだ。あるもので賄おうとしていた私を義母は甚だ疑問に思っていたらしい。義母が『女の子も欲しかった』っていうのもあるだろうけど。
「赤ちゃん、僕が選んだの気に入ってくれるかな?」
「ええ、きっと気に入ってくれるわよ。だってお兄ちゃんが選んでくれたんだもの」
「ぼく、おにいちゃん?」
「そうよ。頼れるお兄ちゃん。だからママのお手伝いいっぱいしてあげてね」
「ぼく、たよれるの?」
「うんうん、頼れる頼れる」
息子の目が輝いて見えた。自信をつけて胸を張っている。
こんな輝く息子、見たことない……
眩しかった。義母に微笑む息子はいつの間にか成長していた。
振り返れば、その成長はみてとれるものばかりだった。
字を覚えた。お手伝いをするようになった。人を思いやることが出来るようになった。「止めなさい」と言えば止めるようになった。寂しいのを我慢するのはまだ下手だけど、謝れるようになった。人と仲良くする方法もその方法を教えることも出来るようになった。
私は何か思い違いをしていたんじゃないだろうか。
息子はオモチャなんかで洗脳されたんじゃない。
義母が褒めてあげるから……
足が止まった。
誰かと肩がぶつかり「邪魔だ」という声が聞こえた。よろめく足をもたつかせていると、ふいに身体が宙に浮いた。
空が見えた。
浮遊感を覚えた。
その直後全身に痛みが走った。
なんとか身体を起こすと、けたたましいブザー音が響いていた。
ホームのあちこちでランプが点滅を繰り返していた。
そして「ガタンガタン、ガタンガタン」
あの電車は特急だったはず……
私を見下ろす義母が「ママー!」と叫ぶ息子を抱き締めていた。
「アツコさん!」
義母が目を逸らした。
私の脳裏に鈍く光る電車が浮かんだ……