谷の墓標
「お前の罪を裁く」
それは罪ではないと、彼は抗った。
では、罪でないなら何だと彼らは問うた。
それは必然であると、彼は答えた。
個の意志が介在するものをこそ、罪と呼ぶ事が許されると。
「必然は、罪だ」
光は退けられ、意志なき罪は肯定される。
彼という個は、誕生へと遡り否定された。
裁きは滞らない。最も強く賢き者達は、無為な停滞を認めない。
「詭弁を弄するな、若き者」
詭弁ではない。
真実は断じて、詭弁ではない!
言葉も虚しく、体が灼かれていく。自分という存在が、ぐずぐずと音を立てて崩れていく。
差し伸べられる手は、どこにも無かった。
「これは、これは……」
どことなく、感嘆したような声が喉から漏れる。
思い返せば、その日は珍しい事ばかりが起きた。
生物など滅多に見掛けない、この乾いた谷の底に、今朝早くから鳥の鳴き声が響いていた事。
飼い慣らされていない鳥獣は、無駄を嫌う。眠りの一時ですら、彼らにとっては意味を持つ。それを熟知するからこそ、珍しい事もあるものだと、これまた珍しくなった感情を浮かべたのだ。
いつもなら夕暮れを目安に激しさを増す風のうねりが、正午にはもう聞こえていた事。
何処かから飛んできた花の種が、目の前にふわりと落ちるのを見た事。
こんな場所では、芽も出せず枯れてしまうというのに。
極めつけは、重い体を久しぶりに持ち上げ、歩いてみようという気を起こした事だった。
何故、と自らに問えば、何となくという答えしか返ってこない。
いや、何となくその気になったというのはそれこそ鈍った感覚による見過ごしで、実際には、微かな音や気配の増加といった変化の兆候を、知らず感じ取っていたのかもしれない。
確かめようもないまま、真実を知る術もないまま、挙句がこれだ。
この乾いた谷底で、生物を見掛ける事は滅多にない。
それが記憶にある人間の形をしているとなれば、尚更の事である。
人の形をしているからには、きっと人間なのだろう。そんな当たり前の事を、確かめずにはいられない。
足を止め、それの様子を観察する。人型をした生き物は仰向けに地面に寝ており、
むしろこれは倒れていると呼ぶのが正確か。
土に汚れた衣服はぼろぼろで、肌は擦り傷だらけに見えた。
鈍りきった感情にも、違和感しかもたらさないその姿。
何をすべきか思い付く訳もなく、ただ黙って眺めていると、向こうから声をかけてきた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
有り得ない話だ。
しかし現に起きたという事は、有った話でもある。
それきり再び、人間はぴくりとも動かなくなった。
こうなると、受動的にしか物事に接する気になれない身では、干渉の契機を失う。
仕方なく、もう一度倒れた人間の全身を観察した。
周囲の皮膚と比べて黒いのは、傷口と、凝固しかけている血液だろう。対比で肌が余計に白く見えるが、あるいはこれは出血が激しいせいだとも考えられる。
周囲の土は濡れていない。だとすると、出血は体の内部だ。生命維持の観点からは、どちらも等しく悪い。
性別はおそらく、女。かなり若いとは思うが、人間の細かい年齢までは区別がつかなかった。
その程度だ。
人間の――少女の体は小さく、従って観察するべき箇所も少ない。
また暫く黙っていると、再度、仰向けの人間から話しかけられる。
「体が壊れていても、お腹はすくのね」
「なに?」
お腹がすく。空腹。
場違いにも程がある言葉に、思わず聞き返していた。
少女の声が高く、意外にも張りのあるものである事にそこで気付く。
続けざまに様々な事実と遭遇させられた為か、同時に目眩にも似た疲労が襲ってくるのを感じた。
頭の奥が、割れるように痛み始める。
「それにしても、ひっどい臭いだわ」
「だろうね」
漂うというよりは押し寄せているのであろう悪臭に、同意を示す。
殊更、気分を害しはしなかった。既に罵りや嘲りに憤怒するような情は失われている事もあるが、それより少女の声音が事実を告げただけのもので、そこに悪意や嫌悪が感じられなかったのが主な理由だった。
この場はまさに、ひどい臭い以外に形容しようのない状態に違いない。
他の表現を探す事も出来ようが、そのどれもが等しく賞賛から掛け離れたものに限られるだろう。
蔑視と共にある身。それもまた、いまや事実でしかない。
「それにしてもついでにこちらからも尋ねさせてもらうが、私を恐れないのかな、小さなお嬢さん」
「あら、喋ってるという事は、話が通じるという事じゃないの?
だったら怖がらなくても平気よ。私の知ってる、喋るのに会話が通じない人達とは誰とも声が一致してないし」
「そういうものだろうか」
「ところであなたは誰なの? とっても大きい、というのは分かるけど」
「ああ」
そうか、と、不可解だった態度にようやく納得した。
少女は、目が見えないのだ。先天的なのか、後天的なのかは知らないが。
把握するのが遅れたのはやむを得ない。なにせ、何もかもが鈍ってしまっている身では。
「私は竜だよ」
「あら」
迂闊さを詫びる意味で、率直に教えた。元々は、を付けるかどうか最後まで迷いながら。
少女は、軽く驚いてみせただけだった。見えないという割に、目の焦点はしっかりと竜の方へ据えられている。
言われていなければ、盲目だとは誰も考えない程だった。
少女の指先が、引っ掻くように砂を弄っている。
「竜って何? あそこの人達から聞いた中にはいなかったわ」
「大昔からこの世界に生きてきた、とても大きく、とても賢く、とても強く、そして本来ならこのような場所には決して暮らしていない生物、となるかな」
「とても尽くしね」
大雑把で抽象的な自己紹介を、いとも容易く少女は受け入れてしまった。
それで良いのかと少々呆れる反面、微に入り細に入り特徴を説明したところで何か現状が好転する訳でもなく、これはこれで、状況への適応力という面からは悪くない反応なのかもしれない。
しかし、あそこの人達とは誰を指して言っているのだろう。話が通じないと言っていた事と関係しているのか。
それまで流れに任せるだけだった会話に、急に脇道へ逸れてみたい衝動が起きた事に、竜は幾らか戸惑う。目の見えない事が大きいとはいえ、少女の声にも態度にも、いまだ恐怖と嫌悪が感じられないからこその、生じた誘惑だろう。自分の中の好奇心が死に絶えていなかった事実こそ、竜にとって何よりの驚きだった。
だが竜は結局、聞いてみたいという誘惑を形にはしなかった。
幾許かの岸辺の土を削る事は出来ても、支流を形成する程の力には至らない。
「……目が見えないというのに、よくこのような場所まで辿り着いたものだ」
「私だってお邪魔するつもりは無かったわ、落ちたのよ。
本当なら落っこちたりする筈ないのに、変ね」
「落ちたというと、あそこから?」
竜は、首を軋ませて崖を見上げた。
断崖の果てが、竜の巨体をもって背伸びしても到底届きはしない上方に窺える。
その隣には、辺りの荒涼とした風景を忘れさせるような、雲ひとつ無い空。
成る程、ここまで歩いてくる途中で全身傷だらけになったと考えるよりは、落ちたというのは納得がいく。
あの高さから滑落して生きている可能性と比較したら、説得力の無さではいい勝負になるかもしれないが。
「それはそれはまた、よく生きていたものだ。運が悪くて良い、小さなお嬢さん」
「それがちっとも良い所なしなの、食べ物もないし、歩ける所まで歩いてみようとしたからもうフラフラ。ね、何か食べるもの持ってない? わけて欲しいの」
「無いな。既に私は食事を必要としない体なのでね」
ご覧の通りに、と続けようとして、竜は少女が盲目だという事を思い出す。
知ったばかりの事実が、会話の中で前提から飛んでいる。普通に話が出来ているような気になっていたが、やはり、頭の働きは致命的なまでに鈍っていた。半分眠っているような倦怠感に、思考を支配されている。
だがどれほど鈍ろうと、どれほど物覚えが悪くなろうと、忘れ去りようのない事もある。それこそが最も忘れたい事だというのに、皮肉なものだ。現実は、最も過酷な姿で牙を剥いてくる。
少なくともこの少女には見られずに済む事に不思議と安堵を感じながら、竜は腐り果てた体をその場に横たえた。べちゃり、と、染み出した腐汁が乾いた砂を濡らし、崩れた皮膚と肉に、鋲のように小石がめり込む。
痛みは無く、ただ底の見えない怠さだけがある。剥き出しの神経で極限の苦痛に苛まれるようにしなかったのは、この呪いをかけた者達の、一欠片の慈悲であったのか。
竜の肉体の半ばは、骨格のみを残して消失していた。
特に、牡山羊のように大きく曲がった角が特徴的な頭部はほぼ骨だけになっており、収まるべき眼球を失くした眼窩が、暗い光を放っている。
長い頚骨からは爛れた皮膚がだらりと垂れ下がり、幅広く湾曲した肋骨の内部には、不快なまでに変色した内臓が、黄色い脂肪をへばり付かせた筋膜と、申し訳程度の皮膚によって支えられていた。
肋骨の届かない腸の大部分は腐り落ちていて、腹部から腰にかけては急に細くなる。がっしりとした骨盤に続く後肢は、ほぼ生前の形を保っていた。四肢はいずれも逞しく、肉と皮膚が擦り切れた事でより一層、太い鉤爪達が目立つようになっている。
生前の形――否、竜はまだ生きていた。
腐敗した肉塊と、くすんだ骨の集合体と成り果てても、まだ竜は生きている。
膨れ上がった心臓はどす黒い血液を尚も蓄え、崩れた筈の筋肉が軽々と巨躯の重量を支える。
両の眼球を失ってさえ視力を維持できているのは、もはや機能と肉体が切り離されている事の明白な証であった。
だが何故、竜を呪った者達は、あえて目を見えるようにしておいたのか。
長い時間を掛けて、竜は自身でその答えに辿り着いていた。
見えなくなる事での恐怖はあるとしても、それより己の醜い姿を自覚させ続けてやった方が罰としては相応しい。
おそらくは、そんな所であろうと。
とはいえ、完全ではない。
竜の空洞の瞳に映る世界からは、色彩が失われていた。
あの日から灰色の濃淡のみとなったモノクロームの世界で、色を知る事の叶わない少女が笑っている。
どうして、笑っているのか。
地面に投げ出された骨の尾が、微かに揺れた。
「せっかく楽しかったのに、このままだと楽しくなくなっていきそう」
「崖から落ちたのでは、待つまでもなく楽しくなくなるだろうな」
「自由に歩けるって、なんて素晴らしいのかしら!
そう思ったのも束の間。数日っていう、ほんとの束の間!
闇雲に歩くだけの逃避行じゃ、長続きなんてする筈なかったのね」
「………………」
「……まさか、あんな所で足を踏み外すなんてなぁ」
いかにも腑に落ちないという顔で、少女は呟いた。
眺めている竜の前で、少女は這うように地面に手を着いて、何かを探す仕草をし始める。上半身は、少しは動かせるらしい。
その手が崖の隆起に触れると、いかにも憎らしそうにぺたぺたと掌で叩いた後、残った腕の力を頼りに、そちらへと体を引き摺っていった。
苦労を伴う僅かな移動の後、崖に凭れるように、抱きつくように、ぺたりと体を寄せる。腰から上を持ち上げていると、少しは楽になるようだった。
竜は改めて、絶壁に近い崖を見上げる。
落ちた距離からして相当にある。体重が軽かったのが幸いしたのか、偶然、衝撃の少ない経路を通ったのか、いずれにせよ、即死せずにこうして意識を保っていられたのは奇跡に近い。
しかし助かる術が無いとなると、死ななかったのは果たして幸運かという話になってくる。
ひと思いの死を免れた末に待ち受けているのは、緩慢な死だ。
考えようによっては、より残酷な運命に踏み込んだと言える。
「素晴らしい事じゃないかって思ったけど、それもアッサリ終わりかなあ……」
己が行く末を正確に理解している少女に、竜は何も言えずにいる。
死を悟っているにしては、あまり悲壮感の感じられない声だった。
彷徨っていた少女の指先が、枯れかけているとはいえこの一帯では珍しい、小さな青草に触れた。少女は、まるで遊ぶように草を引っ張ったり摘んだりしてみた後で、それを握って引き抜く。
草を摘んだ指を鼻先に持っていき、その青臭さに、幼さの残る顔を顰めた。
「ねえ、竜はここにはいないと言ってたわよね。
だったら、あなたはどうしているの?」
「おや、私の言葉を憶えていたのか。てっきり聞き流されたと思っていたよ」
「記憶するのは得意な方なの」
少女は胸を張る。
笑みは弱々しい。
「罪を犯したからだ。この体もその結果」
少女には見えていない事を知りつつ、見えていないからこそ、のんびりと竜は答えた。
あら、と、もう何度目かの感嘆を少女が口にする。
恐れは、尚も感じられない。
「じゃああなた、とっても乱暴な竜なのね。罪を犯すのは乱暴者だって聞いているわ」
「気が荒く力を誇り、尊大ではあったかな。だがそんな竜は珍しくないし、今となっては、顔も知らない他者の身の上を語っているかのようだよ。
頭の中身も腐敗しているからかな、竜らしい性質も、全て崩れる肉と一緒に溶けてしまったのかもしれん」
「じゃあ、臭うのは悪い事ばかりでもないのね!」
全身が腐っても死ねない以上の悪い事が世にあるのだろうかと、竜は首を捻る。
この言い草にも腹が立たないのだから、確かに感情含めて全てが腐り果てているのだろう。
「優しくて、穏やかな方がいいわ。人だって。竜だって。誰だって」
「そうなのかもな」
疲れてきたのか、そこで少女は暫く口を噤んだ。
「ね、あなたはどうして罰せられちゃったの?」
「……そうだな……人間は、集団で暮らしているだろう」
「そうね。一人で生きられる人は、そんなに多くないわ」
「竜も同じだ。社会を築き、法の下に集団を統制する。強すぎる力が、仲間を害するのを防ぐ為に。
暮らしには決まりがある。決まりを破れば罰せられる。それだけの事だ」
同じ共同体に属する竜を殺してはならない。
盗んではならない。欺いてはならない。
――色の違う竜と竜で、番ってはならない。
「……あなたは、どれが原因なの?」
「さあ、どれかな」
竜は明言を避けた。半分は、原因など話したところで今更だったからだ。
死んではいるが、死ねない。高位の竜達による屍竜の呪いは、あの日から今に至るまで竜を蝕む。
全身の肉は腐りながらも完全に崩れ落ちはせず、内臓は機能を失いながらも動き続け、破れた翼はもはや二度と飛ぶ事叶わなくとも、雄大な骨組みだけを嫌がらせのように残し続ける。
動くたびに軋む骨と骨。滴り落ちる汚汁と、糸を引く粘った血。
呪われた者は、次第に活動する事を止める。誇りも何もかもを奪われたまま、静かに壊れていく。
「だが、終わりはそろそろ遠くないようだ」
竜は何となく笑いそうになり、そこで止まった。少女が、ぼろぼろと涙を零している。
「どうした」
「ひどいわ」
強い口調で言うと、少女は泣き濡れた顔を竜へと向ける。
「いつまでもあなたを苦しませるなんて」
「苦しいのだろうかね。もうそれも良く分からなくなってしまった」
あれが妥当な処遇だったのか、それとも不当な処遇だったのかも、混ざりに混ざった思考の泥に埋もれた。
当時は憤った。逆らった。これは罪ではないと。罪とするなど、許される事ではないと。
だが今では、罰せられた側にもそれなりの理由があったのかもしれないと思うようにまでなっているのだ。
これが諦めである事を、竜は知っていた。長すぎる時を経てきた者は、大体が同じくここに行き着く。
視界に、また変化があった。
少女が、竜のいる方へ手を伸ばそうとしている。満足に動けぬ体での試みに、何の意味があるというのか。
だが、その仕草に竜ははっとさせられた。届くような距離ではないと知りつつ、咄嗟に注意を促している。
「触れてはならないぞ。私の体は、いまや病と毒の塊だ。どんな影響があるか」
「いいわ、私もあんまり長くないと思うもの。お腹と背中がとても痛いの。脚はもう、あるのか分からない」
あるにはあると竜は伝えた。
言ってから、何の慰めにもなっていない事に気付く。
「……ああ、そうだ。お前が崖から落ちた話は聞いたが、そもそも何故このような土地を歩いていたのかは聞いていなかったな。お前のような若い人間が歩き回る場所では……いや、誰であれ人が好んで出歩く場所ではない。崖の上に広がるのは、深い森林。進むだけでも困難な、筈だ」
「もっと奥に行くと施設があるのよ、知らない?」
「初耳だ。知る手段も無かったからな」
「そこから逃げてきたの。何とか人里に辿り着きたかったんだけど、結果はこの通り。この山をずっとずっと下っていけば、川の近くに人の暮らす村があるって前に聞いて」
「それだけを頼りに歩いてきたのか? 目の見えぬ身で?」
「そうよ」
「無謀すぎる。それではたとえ崖から落ちなくとも、村に着く可能性は万にひとつも無かっただろう」
「頼れるものがひとつあるだけでも、私には大きいのよ。そうでもない時間が長かったから。あっ、そうだ! あなた、私を村まで運んでいく事って出来ない?」
「なかなか図々しい案を思い付くな」
「まあ無理よね。それまで体がもってくれそうにないし、私も一気に疲れてきちゃった」
逆境から脱する為に、すぐさま身近に現れた存在の利用を考えつくあたりは、相当に強かだ。
だが引き下がるのも早く、彼女が背負うものもまた自分と同じ諦めであるのかもしれないと、竜は思う。
そして一旦そう考えてしまうと、ここで話を途切れさせる事が竜には出来なくなった。前向きな事は言えずとも、発する言葉が疑念と諦観に満ちていようとも、せめて、話を繋ぎだけはしようと。
「お前が人里まで行けたとして、いきなり現れた見ず知らずの人間を受け入れてくれるかどうか」
「それならそれで、いいの。
受け入れて欲しいなんて思ってないわ。ただ見たかったのよ。そのままそこで死んでもいい。ううん、死ぬならそこで死にたいわ。私だって人間だもの、おしまいは人間の暮らす場所で迎えたいのよ。ね、そういうものでしょう?」
「私には分からないよ、もう」
「……あー……でもやっぱり、これでやっと!と思って到着したら冷たく石を投げつけられるのは悲しいな。それなら、優しく迎え入れられたはずだって想像だけしてた方が素敵かもしれないわ、うん」
少女の話は二転三転する。一時的な意識の混濁を竜は疑ったが、これはそういう事ではないのかもしれない。
最期は、皆の暮らすその近くで。
最期は、皆に愛される空想に浸りながら。
どちらがより確かな少女の本心であるのか、竜には幾ら考えてみても分からなかった。
どちらであるにせよ、それは叶わぬ夢だ。
ちらほらと、空の色が変わり始めるようになった。
見えずとも判りはする。一面の薄ぼやけていた灰色が、次第にはっきりとした濃さに染め替えられていけば、一日もその半ばを終えた事になる。湿り気を帯びた冷たい風が、崖を伝い谷へと舞い込んできた。
竜には感じ取る事が出来なかったが、あるいは谷は海に近いのかもしれない。僅かながら塩気を含んだ風は、断崖の各所に白い結晶をきらめかせていた。
砂粒が、死せる竜と死にゆく少女に、ぱらぱらと降り注ぐ。
「何か来ている」
自分の声が思いのほか鋭かった事に、何より竜は驚かされた。
荒涼とした土地にも、音は満ちている。完全なる無音が支配する場所など、世界のどこにもありはしない。
まずは風、稀に雨。擦れ合う枯れ草、崖を転がる小石。厳しい環境の中、それでも逞しく生きる限られた生物達。
そんな音を、呪われた竜は聞き続けてきた。音は土地の一部と化し、たとえ竜が意識して聞かずとも、体の一部となって腐った皮膚に、肉に染み付いている。
今しがた空気を揺らしたそれは、全く聞きつけない音だった。
普段の竜ならば、それでも気付きはしなかっただろう。
だが少女との遭遇により、気持ち程度ではあるが竜の五感は刺激を受けた状態にある。
――気持ち程度とはいえ、竜の五感である。
聴覚は異音を捉えた。傍らの少女に、それを伝えない理由は無い。
不意に竜があげた声に、はじめ少女は驚いていたようだが、すぐさま現実に立ち返るや溜息をついた。
夢の中で生きる事を許されてこなかった人間特有の、反応の早さだった。
「きっと、あそこの人達ね」
「連れ戻しに来たと? 上の森を抜けて? わざわざこの崖を降りようとしてまで?
私に言えた事ではないが、お前もだいぶ複雑かつ厄介な事情持ちのようだね。ただの子供が追い回される事など、人も竜もそうは起こらんぞ。ならばお前はただの子供ではないのだ」
「そうみたい」
「他人事だな」
「だってー……」
「いいさ、そこにいなさい。といっても動けまいが」
「え?」
事態が飲み込めていない少女から視線を外しつつ、竜は言った。
「行きたいか留まりたいかでは等しく迷っても、お前は戻りたくだけはないように思える」
独り事めいていたのは、自分の告げようとする内容が気恥ずかしかったからかもしれない。
少女が何かあらぬ事を喋り出す前に、竜は崩壊しかけた巨躯をずるりと翻した。
一歩、一歩、大地を削って進む背後から「せいかーい」という明るい声が響いてくる。
正解、であったらしい。そして気安い。どうやらまた少しだけ、心を許されたようだ。なんとはなしに愉快な心地に浸りながら、竜はおぼろげな記憶を頼りに谷を遡っていった。
砂塵に紛れて姿を表した竜に、人間達は激しく動揺しているように見えた。
無理もない、と竜は小さな生物達の心情に共感する。
慌てて逃げ出そうにも、後ろでは降りてきたばかりの崖が邪魔をしており、竜が塞ぐのと逆方向に待ち構えているのは、どこまで続いているのかも不明な乾いた砂の道だ。
迂闊に逃げれば、袋小路に迷い込んだ末の死。
かといって、間近に迫る異形を前に踏み留まれるのは、一握りの勇者のみ。
腐った血と肉の臭気は先に届いていたが、実際には、竜の足は竜自身が思っているよりもずっと速かった。
屍であろうと、竜は竜。その筋骨は鋼であり、蓄えた力は大自然の顕現そのものである。
「こんにちは」
即発する敵意は持っていない事を示す為に、竜は今日使ったばかりの挨拶を用いてみる。向こうにしてみれば、これ以上はない悪質な冗談を聞かされている気分だっただろう。
腰を抜かしかけている者までいる一団から、やがて、硬い顔で一人の人間が歩み出る。
男。少なくともあの子供よりは背が高く、年齢が上だ。一瞥して竜に分かったのは、その程度であった。
肌からは血の気が引いているが、足取りはしっかりとしていた。恐怖を気力で制御出来る人間となれば、まず隊長格であると見て間違いない。言葉を交わすには適切な相手だと、竜は昏い視線をそちらへ固定する。
「ここは」
男の声は震えていた。それもまた、無理もない。話し掛ける事が出来ただけでも賞賛されるべきだった。
勝てぬ。この人間は、本能でそれを理解している。
「貴公の領土であるか」
「骨と腐肉の塊相手にそれは、嫌味にしか聞こえないな」
低く笑ってやると、ひ、と引き攣った悲鳴が、集団から幾つもあがった。
そうとも、これこそが自分を目にした者の自然な反応というものだ。
ウィルム、と囁き交わす声が聞こえる。
まだ自分達をそう呼んでいる人間がいる事に、竜はやや驚いた。人の進歩は葉を食う虫のように早いくせに、ある種の分野では古い習慣を捨てようとしない。そして考えてみれば、それは竜でもさして変わらなかった。
「私は打ち捨てられた不死者に過ぎず、この汚れた身が所有するものは何も無い。好んでこうなった訳ではないが、土地に転がる石のひとつとしてはまずまず古い」
「それは……」
「同情よりもまず、考える事だ。お前達が私の縄張りを気に掛ける必要は消えたが、無関心に至らせた訳ではないのだからね」
男が浮かべた逡巡は一瞬で、人間の子供を探しています、と正確に理由を述べた。
非難めいた声があがるのを聞くに、隠し立てしなかったのはこの男の独断だろう。
竜を相手に嘘をつくのは危険だと判断してか、知性ある生命への誠意としてそうしたのかは定かではないが、結果としてその判断は正しかった事を思えば、先頭に立つ者としての高い素養がある。
竜は、このまま人間達を帰してやってもいい気になってきた。
強引な手段に出てこなければだが、この男はそこまで愚かではあるまい。
それらしきものを見たと竜が伝えると、男の、いや人間達の表情が目に見えて明るくなった。
見た、と言っただけで協力するとまでは言っていないというのに、この辺りは迂闊といおうか、詰めが甘い。
彼らが下ってきたと思わしき経路へ、竜は目をやった。ロープや杭が打たれたままになっていたので、判別は容易い。周囲と比べればまだ傾斜が緩やかで、手足の取っ掛かりとなる窪みや隆起も多かった。
「上で滑落した跡らしきものを発見した為、周辺で下へ降りられそうな場所を探しておりました」
「まあ、ここしか無さそうだな。良く調べている。
こんな怪物がいる事までは、さすがに知らなかったようだが」
「………………」
「しかし、この高さから落ちたのなら死んでいると考えるのが妥当ではないのか」
「無論、生きているのが望ましいですが、最悪生死は問いません。あれを連れ帰る事が重要なのです」
あれ。
あれ、ときたか。
ふと、竜は少女が口にしていた一言を思い出した。
おしまいは、人間の暮らす場所で迎えたい。
「お前達は、あの子供に人間とは思われていなかったようだな」
「何の話です? ……いや、それより話をなさったのですか? では生きているのですね!?」
男が勢い付いた。歓喜と興奮が、一時的に恐怖を追い払ったらしい。
優秀ではあっても、やはり足りない。距離の詰め方が性急に過ぎる。
あの少女もそうであったが、これは違う。
少女は竜を見ていた。
男は、竜の先にあるものを見ている。
少女が既に死にかけている事を伏せて、竜は自分が歩いてきた方へと頭を向けた。
「子供はこの先だ」
「……通して頂けますか?」
「事情による」
既に心は固まっていたが、竜はあえて隙を作った。
が、言い終えた瞬間にはその気持ちも霧散している。竜は緩く首を振った。
引き伸ばすような会話を試みていた自分が、とてつもなく馬鹿らしくなっていった。
「いや、やめだ。このまま引き返せ、お前達の探す子供は決して見付からない」
「彼女は罪人なのです!」
男の悲痛な訴えが、竜の踏み出しかけた足を止めた。
罪人。罪。罰を伴うもの。今日という珍しき日に、聞いたばかりの気がする言葉。
竜が、ゆっくりと長い首を振り向かせた。肉が溶け落ち、骨だけとなった頭部から表情らしきものは読み取れない。
だが絞り出される己の声に、当惑と、喉を締め上げられるような言い知れぬ感情が滲んでいるのを、竜は意識した。
「なんの罪を犯せるというのだ、あんな無力な子供が」
「彼女の両親が、大罪を犯したのです。我々の法に則り、その血縁者たる彼女もまた裁かれねばなりません。彼女の身柄は我々によって拘束され、然るべき公正なる審理を経た後に――」
音が。
全てが、急速に竜から遠ざかっていく。
竜を囲む世界は、いまや完全なる無色となった。
聞いてはいけない声を聞いた。
言ってはならない事を言った。
瓦解した世界は、やがてひとつの形を結ぶ。元あったのと同じ形に、だが、まるで異なる形に。
竜は動かない。爪ひとつ、尾の先ひとつ揺らす事はない。彫像のような竜を見上げ、男は弁を振るい続ける。
粘性の体液が、剣の如き牙と牙の間で糸を引く。大気を震わせる低音が、開かれた巨大な顎の奥から迸った。
「事情が変わった。そういう事か。……そういう事だったのか!」
「ええ、そうです! これが我らの――」
「引き返させはしない」
「では!」
「お前達には行かねばならん所がある。それは、あの子の元へではない。音ひとつ届かぬ、永劫の闇の中だ!」
竜の纏う気配が一変した事に気付く暇もなく、きょとんとした顔が、叩き付けられた掌の下に消えた。
地響き。水気を含んだ音。
男の体は頭頂部から縦に押し潰され、肩から腹にかけてはざっくりと鉤爪に引き裂かれている。
一杯に見開かれていた目は眼窩からこぼれ落ち、肉塊に押し出されて、ころりと玩具のように転がっていった。
乾いた空気を、濡らす血臭。
人間達の悲鳴と怒号が響き渡るまで、幾許かの間があった。
「罪だと……? 裁かれねばならぬ罪だと……!?」
竜が爪を振るう。
橋ほどもある尾を真横に薙ぎ払う。
襤褸切れのように数人がまとめて吹き飛び、腸だけで繋がった胴と腰が宙を舞った。崖に激突した体は衝撃で頭蓋を粉砕され、あふれた脳と鮮血が、ずり落ちていく骸に合わせて、べったりと人の幅だけある模様を描く。
竜の骨は、鍛冶に秀でた種族の間では、黄金よりも高価な素材として取り扱われる。皮膚も肉も失った剥き出しの尾骨は、なまじっかの剣などでは及びもつかない凶器と化していた。
「親の罪で、仔が裁かれるなど――貴様ら……貴様らもかアッ!!」
血を吐くような咆哮。
触れてはならぬ事に触れた事を、彼らは知った。
知る事の出来た時間は、最も長くても数分にさえ満たなかった。
断末魔とも呼べぬ濁った短い絶叫だけを残して、動くものは何もいなくなる。
新しい血の匂いを嗅ぎつけたのか、ぷん、と羽音を立てて、どこからか一匹の太った蝿が飛んできた。
岩肌にとまった蝿は、震える竜が吐き出す毒の息に巻かれ、弱々しくもがいて落ちると、血の海に飲まれる。
高い、掠れた笛を思わせる音色が、項垂れた竜の喉から漏れ出す。
殺戮者の慟哭が、死者達の横たわる谷に、長く長く、いつまでも続く。
「なぜ……」
あれほど荒れ狂っていたのが嘘のように、全ての力を失った竜は崩れ落ちた。
「なぜ、私が……!」
望まれぬ子の、嘆きは届かない。
遠い遠い過去へ、己が生まれる前の時間へ、届かせる術はない。
少し、眠っていたらしい。
肉と皮を引き摺る粘った音と、耐え難い悪臭で、少女は竜の帰還を知った。
どちらに対しても、不快感は乏しい。己が先行きの賭かっている今は、それらよりも遥かに関心を向けなければならない事があるからだ。
音が止んだ。対照的に、押し寄せる臭気は一層強くなる。
口を噤んだままの竜に、沈黙に耐え切れなくなった少女は不安気に尋ねた。
今にも巨体の背後から、自分を連れ戻さんとする数多の足音が続くのではないかと怯えて。
束の間、息苦しさも痛みも忘れた。
「……どうなったの?」
「殺した、すべて」
「あらっ」
少女は見えぬ目を、可能な限り見開いた。
声からも表情からも陰りが吹き飛び、代わって華やかな安堵が、花開くように満ちていく。
死の淵に立ちながら尚、瑞々しい活力を示す少女に、竜は存在しない目を見張った。
もしも、負傷していなければ。もしも腰から下が無事であれば。
間違いなく少女は両足を揃えて前方へ一度蹴り上げ、戻す動作に合わせて軽快に立ち上がっていただろう。
靴底が岩場を踏み、タン、と響く幻の音までをも、その瞬間に竜は聞いた気がした。
「協力的ね!」
少女の声音は明るく、そこに竜の行為を咎める気配は微塵も見られなかった。
助けられたのだから当然といえば当然かもしれないが、かといってこの態度もなかなか考えものだと、竜は少女の欠落した部分に注意を向ける。
極端から極端に振れている。たとえ無関係の相手でも、あるいは自分に明白な害を為した相手であっても、皆殺しにされたと聞けばさすがに少しは眉を顰めるなりするのが、大概の人間が示す反応の筈である。
生まれつきこうなのか、もしくは一片の同情すら浮かんでこない程、扱いが酷かったのか。
どちらにせよ人間として不幸な事には違いないと、竜は、この死にゆく盲目の少女の過去に思いを馳せた。
協力したという評価も、素直には受け入れられない。
結果として協力する形になってしまっただけで、実態は単なる八つ当たりだ。
自分と被る少女の境遇への同情も、確かにあった。しかしあの瞬間、腐り果てた竜の脳を真っ赤に灼き、爛れた表皮のこびり付いた鉤爪を振るわせたのは、憐憫の情などではなく、長き時を経て尚燃え尽きぬ、激しい憎悪と憤怒でしかなかった。
少女が囚われていた理由を語ったから、彼らは死んだ。
道を切り開こうと、正直に告げたから殺された。
気の毒な事をしたと今更のように思い、同じ心で、気に食わんものは気に食わんとも思う。どちらかの感情のみを選び取る事は、膿み崩れてぼやけた今の思考能力では難しい。
竜は、溜息の真似事をした。
それは、既に顔を思い出す事さえ覚束ない人間達へ捧げる祈りのようにも聞こえた。
それから、体液が染みないよう慎重に爪の先に引っ掛けてきた一纏めの荷物を、少女の隣へ滑らせる。怒りに任せて皆殺しにしてしまった一件と比較すれば、こちらは明確に協力的であると呼べるだろう。
「連中の持参物だ。出来るだけ汚れていない物を持ってきた」
「あっ……ひょっとして、ごはん!?」
「中身は確認していないが、あの大所帯で食料と水を全く持ち歩いていないとは考え難い」
「入ってますようにっ!」
少女は手探りで紐を解き、荷の口を開けるや躊躇わず逆さまに引っ繰り返した。
目が見えないというのに、実に器用なものだ。
どっと地面に溢れ出した中身を、手探りでひとつひとつ検めていた少女が、やがて歓声をあげる。
乱暴に包みを破り、現れた半固形の携帯用食料に迷わずかぶりつく少女に、眺めていた竜の方が驚かされた。
孤独と共にあって久しい。既に、そうそうの出来事では心動かされなくなっている。とはいえ、こうも精神面においての奇襲が続けば、珍しい声のひとつもあげてみたくなる。
食欲。それは、じきに死ぬ生物からは最も切り離された欲求。
運んではきたものの、まさか本当に食べるとは、喜ぶ少女を見てもまだ竜は信じていなかったのだ。
生命が燃え尽きる前の刹那の輝きとは、ここまで鮮烈なものだったのかと、ある種の感動に竜は揺さぶられる。
だが、それは危うい輝きでもあった。
強く光れば光る程、火を灯した芯は早く焦げていく。
「待て待て――おい、待ちなさい。それで三つ目だぞ、そんなに食べるつもりなのか?」
「だって、お腹ペコペコなんだもん!」
「自分で言うのもだいぶ複雑な心境にさせられるがね、良くこの凄まじい臭気の中で食事をする気になるな」
「もう慣れた! っ、ごほっ!! げっほげほっ、うえぇっ!」
「……慣れたようには見えないが」
「むせたのっ!」
真実なのか否かは定かではないが、少女は強情に言い張る。
竜もあえて深追いはせず、ふうむ、とだけ呟くと、今いる場所からやや後退した位置に座り直した。
少女からは、視界に入るか入らないかの境界線上に当たる。効果としては気休めにしかならないだろうが、破れて垂れ下がった皮膚、紫や緑に変色した筋肉を眺めながら食事を取るよりは、幾分かましだと考えたのだ。
と、そこで竜は、そもそも少女が盲目であったという事を再び思い出し、いい加減、自分に呆れた。
何度も確認して分かったつもりでいても、こうだからこうに違いないという先入観、及び常識に基づく行動は、竜といえども完全には消しきれない。
そこに目があれば、見えている。見られている。
知らず、竜は目線を落とす。
石と砂ばかりの地面には、引き摺ったように黒く濡れた跡が、竜の移動の軌跡をなぞっている。
腐った体から、絶えず染み出てくる体液。汚らわしいもの。今の竜自身。
思わず逸らした目の先で、散らばっていた荷の中に水筒らしき物を見付けたので、場所を少女に教えてやる。
拾い上げ、栓を捻ってがぶがぶと飲み始める少女の姿に、竜は何故かひどくほっとさせられた。
「なあ」
「むぐむぐ」
「なあ、おい」
「うぐうぐ」
「呼びかけているんだから、少しは飲むのを中止する気配くらい見せろ。
ここで底まで飲み干してしまったら、後の分が無くなるぞ」
後など無い、最初から。
理解しつつ、思いは声になっていた。
理由は竜にも分からない。
「ぷっはあ!」
「………………」
「はぁぁ……水ってサイコーね!」
「くく」
肉は崩れ、椎骨が剥き出しとなった背が、細かく揺れる。
竜は、笑みを零していた。
「――さてお嬢さん、一服が済んだところで聞かせて欲しい。両親の罪の巻き添えで捕らえられていたと聞いたが、お前がこうまで執拗に追われている理由は他にもあるね?」
「むぐ……」
彼らの基準では罪になるとはいえ、個として見れば、所詮は無力な子供に過ぎない。脱走した子供一人を追跡するにしては、あの人数と装備は些か念が入りすぎている。
改めて考えてみれば、子供一人で脱走出来た事がそもそもおかしいのだ。
財産か、身分か、それとも別の何かか。
推測するならば、存在そのものに根差すような。
少女は明らかに迷っている様子で、暫く首を捻っていた。が、竜が無言で見据え続けていると、やがて諦めたように「ある事はあるみたいなんだけど」と、ごく曖昧な表現に留めつつ認める。
語るを忌むか、ならばそれも良し。
常の精神状態の竜であれば、そう判断したであろう、が。
竜は上体を屈め、前脚を折り曲げて深く座った。伏せの形になった姿勢には、見下ろすのとは違う威圧感がある。
体を落ち着かせれば、当然、眼前の対象に向かいより深く腰を据えた事になる。
この場合におけるそれは、話すまで動きはしないぞ、という意志の表示だった。
「出来れば話して欲しいんだがね。興味が……そう、私は興味があるんだ、お前の抱えた事情に」
「でもぉー……」
「情報の把握が不十分なままでは、力になれるものもなれない」
「力になってくれるのっ!?」
「それは、お嬢さんの心掛け次第だね。残念ながら、治癒の能力は持っていないが」
「……うー……ん、わかった……言う。
あ、だけどね? 言うっていっても、私もちゃんとした事は分かってないんだよ?」
眉を寄せて困り顔になる少女に、可能な範囲の説明で構わないと竜は答えた。
どのみち世の中は、完全に分かる事の方が少ないのだ。
「私の涙には、珍しい効果があるんだって。
見えないものを見えるようにするというか、もっと良く見えるようにするというか……。
目が見えないにしては私の動きがおかしいから、それで調べて分かったみたい」
「見えないものを見えるように? それは見えているというのでは」
「うぅ、じゃあもう見えてるって事でいいよ。あの人達と同じ質問になってるよ。
私は見えてるって状態を知らないんだから、これが見えてるって事だって言われたら反論できないなぁ」
顔に続いて声まで困り始めた少女に、竜は少し考えてから質問を変えた。
「……空間や物体への認識能力が人並み外れている、という事で良いのかな。
本来、崖から落ちる筈がないと言っていたのはその事か?」
「そうそう、なんで落っこちたのかなー? あれ。
崖なんて無い筈だったのに、あなたがあんまり眩しいからここら辺全部が覆い隠されちゃってたのかもね」
「眩しい?」
「そ、目の見える人は『まぶしい』って言うんじゃないの? こういうのを。
目の奥っこの、頭の中心がぐいぐい押されてるような感じ」
「眩しいの表現がそれで正しいのかは知らないが、私が眩しいとはどういう事だ」
「だって」
何を言っているんだという顔付きで、少女は言った。
「あなた、透き通ってるもの」
とうに止まっている自分の息が、その瞬間だけ、再び止まったかのように竜は感じた。
「透明に光ってるよ、きらきら、きらきら。
私があの人達に見せられてきた物だと……そう、水晶っていう石に一番良く似てる感じだわ。水晶の輝き方を、目の見える人は透明って呼ぶんでしょう? あなたのは、もっともっと強いけれど」
「………………」
「新しい物を見せられた時は、慣れるまでちょっと時間かかるんだけど、今はもうちゃんと分かるよ」
少女は少しだけ得意気に、自分の能力を誇示してみせた。
境遇を考えたら、おそらく普段このような態度を表す事は滅多に無かっただろう。
竜が少女の能力に関心は示しても利用はしないと確信したからこそ生まれた、一種の信頼の証である。
が、当の竜はそれどころではなかった。
輝けるもの。
まるで、水晶のような。
それは、かつての竜の姿だった。
「どうしたの?」
「ああ、いや」
反射的に話を打ち切ってしまったものの、竜は己の強い動揺を自覚する。
働きを失った心臓が、激しく鼓動を刻んでいるかのようだ。
寄せては返す記憶の波に、足元から引き摺り込まれそうになる。
(……あえてここから触れにいく事でも、ないか)
ともあれ、これで理由は判明した。
凡百の人間とは異なる、特異な力。当人が望むまいと、少女はそれを持ってこの世に誕生した。
不運なのは、それが少女以外の他者を強くする為に利用できる可能性を秘めていた事だ。
稀有な涙を生み出す、貴重な標本。転用する道筋を見出だせば、利用方法など後から幾らでも付いてくる。最有力候補は、軍。特殊な目を持つ特殊な兵を独占できれば、それは他国への大きな優位性となる。
概ねそんな所だろうと、竜は見当をつけた。
良きにつけ悪しきにつけ、いつの時代も人間は、その時代その時代での頂点を追い求め続けている。
こうなると両親の罪とやらも、少女の身柄を公的に確保する為のでっち上げだった可能性すら生じてきた。
しかし、それら全てはいまや意味を持たない。
少女の特異な体質も、利用せんとする大人達の企ても、死の前には等しく無意味となる。
その時は近い。
「また誰かが探しにきて、持って行かれちゃうのかな、私」
「そうはならないよ、もしも来たら追い払ってあげるから」
「……本当に?」
「他に何もしてはやれんだろうが、お前を元いた場所へ連れ戻させはしない。それは約束する」
「嬉しいな、ありがとう。
でもいいの? 他にやりたい事があったら、そっちを優先してね」
「この体を見てやりたい事があるように――ああ、見えないのだったな。
何もありはしないよ、何もない。ここで朽ちていく他には何もない身だ。呪いにも終わりはある。いずれ手は折れ、首が沈み、この両足も腐り落ちる。ただその訪れを待つだけの」
「弱気ねー。手足がダメになったって、あなたには、それでもまだ翼があるじゃない」
翼か。
あったな、確かに。
透き通る氷の翼が。
「誰より美しいと自負していたものだ」
「きれいよ、とっても」
おそらく少女は、今を見て言っている。
少女にしか見えない昔日の光景が、竜は無性に嬉しかった。
また、幾許かの時が過ぎた。
「眠いわ」
少女のか細い呟きに、水を飲ませてやれて良かったと竜は思った。
苦痛はあるのかもしれないが、乾きはない。
あれは、辛いものだ。
「あそこで足を踏み外してなかったら、あなたと一緒に人の暮らす町を目指す、そんな未来もあったのかなあ……」
「どうかな、その時はこうして出会う事すら無かったのではないかな」
「そっか、じゃあ落っこちたのも悪くはなかったかも」
「どこまでも前向きだね、お前は」
竜は苦笑し、少女からの返事を待った。
返事は無かった。
浅く上下していた胸は動きを止めており、いくら待とうと再び呼吸を始める事はない。
それがあまりにも呆気なくて、竜は暫く終わりが来た事を信じられなかった。
見開かれたままの瞳が、最早何も映さないまま乾いていく。
最も美しいと呼ばれた竜は、再び世界のどこにもいなくなってしまった。
失ってはいけないものを永遠に失ってしまった事を、その時竜は知った。
だからといって、竜にはどうしてやる事も出来なかった。
どうしてやる事も、出来なかったのだ。
「悪くはなかった、か」
可能なら、良かったと思わせてやりたかった。
自分は、はっきりとそう言い切れるだけの時間を貰ったのだから。
少女は空を見ていた。物言わぬ視線を追い、竜も顔を上げる。
茜色。モノクロームの世界で、だが確かに、空は少女の瞳と同じ色をしていた。
遠い昔。
かつて石と砂ばかりであった谷底に、今は花が咲くようになった。
細くとも途切れる事なく続く小川の傍らに、数多の巨大な石柱が折り重なっている。
近付いて良く見れば、それが何か巨大な生物の骨である事が分かるだろう。
人里からは遥かに遠く、険しい崖と深い森が、探索者の接近を拒んでいる。
偶然訪れる者がいたとしても、塔のような骨の山に目を奪われ、その下にひっそりと埋もれた小さな骨に気付く事はない。
骨の塔。塔とは礎であり、塔とは標であり、塔とは記憶である。
正しく印象通りの目的を以てそこに在り続ける亡骸が何を意味しているのかを、誰も知らない。




