滅びの砂時計3 禍神・覚醒
当作品は、【滅びの砂時計】の続編です。
一本目
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二本目
https://ncode.syosetu.com/n4924el/
最も人間を殺害した生物とは累計するまでもなく人間である。
その男、大塚槙仁もその例に漏れなかった。
洟垂れ小僧の頃から人と同調をせず、ただそう見えるような仕草だけを覚え、人を虐げる手段を黙々と塁上するように考えた。
情に触れる度に殺意を覚え、喘ぐ他人を観ることこそが自分自身の至福であり至上の使命であると理解していた。
娯楽という言葉を他社の霊魂を弄ぶことと同義であると確信する獣が、家族をその手に掛けようとするのは、自然な帰結だった。
槙仁は企業役員の父と優しい母親の元に四人きょうだいの次男坊として育まれた。
虐待、貧困、無知、依怙……如何なる謂れもなく、槙仁は産まれながらに獣といえる。
子供は大人の悪意を変性して用いるが、生まれながらに悪意を備えていた槙仁は思慮の及ばない狂気を備えていた。
公立中学校入学式の帰り道、警官を騙して拳銃を奪った。
虫歯の乳歯を抜くついでに医者を強請って手に入れた麻酔薬や睡眠薬、強壮剤を副作用まで熟知した上で持ち歩くようになった。
幾枚もの名義が異なる自分の写真の付いた免許証の類は、運動会の帰り道に整理をした。
準備を終えた頃、獣は高校生になっていた。
たったふたりの両親、たった三人のきょうだいを殺そうとするのは信念めいた確定事項。
飴を噛み砕くように歪め、煙草を吸うように貫き、燃え尽きるように家族への故殺の権謀は山のようにあるが、最善はただひとつ。
失敗は許されない。命に替えはない。ましてや家族である。知り尽くしているからこそ、拘って殺すべき特別な相手である。
最良・最善の殺し方をしなければ一生後悔するだろう。死体は事故に見せ掛けるか、犯人を仕立てるか、それとも行方不明にするか。
もし埋めるならばどうするかとこの日は砂浜へ入念な下見に来ていた。
夏場は海水浴やらで賑わい、冬場はオデン屋の出る海岸。
春先は桜が咲くでもない砂浜なんぞに人が居るわけもなく、死体の処理の選択肢としては一考できる。
そんなとき、人気のない砂浜に打ち寄せられるように現れた気配に、槙仁は何気なく首を傾け、そして目が合った――いや、合ってない。
焦点の合わない視線を降り、鱗に覆われた“それ”。
凶器そのものという連環とした牙を潤沢に備え、特大の口は明瞭な殺戮と壊滅を有していた。
内部から鱗の皮膚を膨張させている肉は、初見の牧仁はその異形に驚愕と恐怖と、そして僅かばかりの共感を抱いた。
そう!ダゴドンである!
槙仁は、以前警官から奪っていた拳銃の遊底を滑らせる。
生き物を撃つことは初めてではない槙仁は完熟した手付きで流れる所作。撃たねば殺される、その説得力がダゴドンの全身から立ち昇っていたのだ。
肩を竦めるような衝撃の残渣を味わいながら、引き金は絞られた。
しかし、当のダゴドンは、無表情のまま――そもそもどの顔の一端を取れば表情が動いていると判別できるのか――とにかく、爪で受け取った。
堪えたわけでも弾いたわけでもなく、箸で摘まむように弾丸を止めた。
水中という不鮮明極まりない環境で変幻自在に飛び交う魚たちを捉えるダゴドンの視力は、澄みきった空気の中、真っ直ぐ飛ぶだけの鉛の欠片を見逃す道理はなかった。
槙仁は、ダゴドンにとって三度目の上陸で遭遇した初の理解に沿う生物だった。
翔びながら痒みで苛むこともなければ、馴れ馴れしくアルコールを呑ませにも来ない。
護身のために攻撃する。その攻撃が蚊よりも些か速いだけの儚い非力さこそあれ理解しやすい攻撃手段に、ダゴドンは安堵すらしていた。
畏れ、怯み、震え。無意味と大差ない反応と反抗を続ける槙仁。
槙仁の弾倉から弾が切れたか切れないかの刹那、ダゴドンは跳ねた。
深海とは比べ物にならないほど弱い空気の圧の中、重さという概念すら忘れたような迅さで。
攻撃部位である腕か、逃走用の足か。どちらを攻めるか逡巡したダゴドンは、緩慢にして超音速の蹴りで、ぐるりと同時に破壊していた。
当たり前のように放った一撃から獲物が発しだした耳障りで切れの悪い断末魔を止めるべく、ダゴドンは獲物の頭を無造作に喰い千切った。
始まりは、海難事故で海底へ沈んだ少女の死体をダゴドンの群れが見付けたことだった。
腐りかけていたが、本能的に口にしたその肉は余りに美味で、過去に二度の地上調査が行われていた。
深海に栖息する無数のダゴドン。
人類が戦えば、槙仁のように抵抗らしい反抗もできないまま食い散らかされ、滅びへの砂時計は刹那の内に終焉を刻んだだろう。
しかしながら二度の調査において、奇跡的にダゴドンたちは人類の侵略を諦めていた。
偶発的に、兎角、人類は生き延びた。
そして、今日、三度目の侵略的調査が行われた。
選ばれた毒味役は、前回、前々回と調査でも派遣されたダゴドンである。
前々回は謎の飛行生命体の襲来によって行動不能に陥り、前回は記憶を消された。
知恵の実か黄金の林檎か。ダゴドンたちによっては命を懸けるに値する甘美なる果実。それが人肉だった。
三度の上陸は、今回は志願しての参加……だった。
それは集落中のダゴドンが一堂に介しての話し合いだった。
時間が経ったからまた誰か調査に行け、という空気になった。
まず、やはり行くのはオスだろうと誰もが思い、続いて長老はマズイだろうと思ったりなんかしちゃったり。
ともあれかくもあれ、特別な役割を持つ者を取り除き、何名か残った。
あるダゴドンが思った。【年老いた両親が居るから勘弁しろ】と。総意としてダゴドンたちはそれを認めた。
続いて別のダゴドンが思った。【婚約者が居て死ねない】と。総意としてダゴドンたちはそれを認めた。
続いて別のダゴドンが思った。【狩りで左腕を負傷している】と。総意としてダゴドンたちはそれを認めた。
そんなこんなで、ひとりだけ残ったのが前回、二度目の調査のときにひとりで上陸した、あのダゴドンだった。
ダゴドンは思った。前も行ったのにまたかよ、と。
でも云えなかったのだ。総意は無言の圧力となっていた。
気弱なダゴドンと云っても、ここで女房子供が泣いてでもくれたら反論でもできただろうし、逆に激励でもしてくれたら胸を張って地上に行けた。
が、家族たちは無関心に烏賊を頬張ったり、貝殻を投げて友達と遊んでいた。
家から期待されず、職場から面倒ごとを押し付けられる依怙の沙汰。
ダゴドンは浮上し、そして槙仁と遭遇していた。
浮上したらバッタリと遭遇した槙仁、ダゴドンの鬱憤晴らしにもならないような、気安い攻撃で槙仁を誅殺していた。
生きてさえいれば、多くの残酷をばら蒔く入神めいた悪意は、あっさりと肉塊になりダゴドンの胃袋に消えた。
そしてダゴドンは思った。
【この肉は対して口に合わない】、と。
腐肉として沈んできた少女の死体をこのダゴドンは一欠けらしか舐められなかったが、魔海の腐蝕により味が変わったというにも比べるも出来ない程に味が劣る。
それが槙仁の持っていた薬品のせいか、はたまた槙仁の性格が肉質にまで関連しているのかは判別する材料は無いが。
そしてもって、夏と違って飛び交う天敵や、冬の快活すぎる悪魔も居ない。
ダゴドンは思った。
【……もしかして、食べ放題、確定?】
その認識は急激なまでの解放感が伴った。世界を制する何かを成し遂げた瞬間。
長年の苦労が遂に報われた。無茶苦茶ながら周囲の強迫じみた期待に応じることができ、自分のやってきたことが報われる実感。
身体中のストレスが瓦解し、全てをやり遂げた衝撃が腸から沸き起こる。
力が抜ける。頭から足まで張り詰めていた一本の糸が弛緩して、そして切れた瞬間に首筋に冷え切った衝撃が生じた。
くしゅん。
くしゃみ。それはダゴドンの人生で初めての現象。半漁人であるダゴドンが陸上活動をできていることから分かるように、この種族は鰓とも肺とも分別しがたいシステムを採用していた。
つまりそれは、春先の清々しい大気を大いに体内に取り込み、大きく吐き出していた。
だが、くしゃみというのは初めての体験でこそあれ、それ自体はそこまで嫌ではなかったのだが、しかしながら意味が違った。
くしゅん、くしゅん。
心理的ストレスとは不可視の圧力である。
肉体は緊張を受けている間、異常事態となれば命にかかわる場合、肉体は緊急回避として様々な病状を“発症”しないことは多い。
今回のダゴドンも正にそれであり、任務達成という安堵感から急激に通常状態となったため、彼の内腑と内観からしてその大気はあまりにも危険性を孕んでいた。
誰しもが“発症”するわけではない。遺伝子の多様性を保つべく、個体ごとに異なる防衛力を発揮する、それが免疫である。
このダゴドンの免疫は、奇跡的とも云える確率で、その“発症”をしていた。
くしゅん! くしゅん! くしゅん!
つまるところ、これはアレで有る!
I型アレルギーの一種で有り、スギ花粉を始め、アレルゲンの過剰反応によって引き起こされる別名・枯草熱!
この地に住まう人類の罹患率も高く、ステロイドなどの多数の治療法が研究され続けているものの、絶対的根治療法は確立されていない!
症状は、アレルゲン物質を呼吸から排除するために発生する鼻炎やくしゃみ、体内に残留するアレルゲンへの抗体反応による発熱・頭痛・腹痛など、様々に発展する!
ぶえっしょぉーい! ぶぁっくっしょーい! ばぁあぁっっくしょぉおおお!
正に! 花粉症である!
蚊やアルコールとは全く異なる不快感、呼吸すらままならない体調変化。
悶え苦しむダゴドンだが、彼にはその正体を突き止めるヒントは与えられていない。
彼に見えている情報だけで判断するならば、やはりダゴドンはこう思った。
【さっき食べた人間に、当たった?】
食中毒との混同。
三度目の上陸であり夏冬では症状の無かったダゴドンからすれば、時期的な理由から大気が汚染されていると判断するには不自然なまでの発想の飛躍が必要である。
以前食べた腐敗した少女の死体とは味の異なった槙仁。人間という肉は河豚のように生来は無毒でも生育途中で毒素を蓄積する性質があると考えるのも至極自然だった。
嘔吐する時間を惜しみ、ダゴドンは反射的に海中に戻って行った。
――人類より卓越した生命力と耐久力を持つダゴドンは、花粉症も慢性化せず、平常時のダゴドンならば個体差もあるがほぼ発症しないだろう。
緊急的な精神状態を持つダゴドンが、花粉前線の直撃に飛び込んだことで、三度滅びの砂時計は覆った。
ダゴドンは水中に戻ってすぐに症状が治まり、家族や同僚たちに生きて戻ったこと、人間を食べた報告をして、ちょっとの間だけチヤホヤされた。
ただまあ、もちろん、実際的には、彼のポカミスで地上人間食べ放題が潰えたことを知らない内が、華である。
本当ならもっと遅く投稿する予定だったんですが、もう花粉症前線進撃中だったので。
スギ花粉たちが悪い。僕はワルクナイ(´・ω・`)
作中の花粉症の描写は独断と偏見です。
医学的な責任は持てないので、症状のある方はお医者さまへどぞー。