雪中完全心中
「おとうさん!今日の本読んで!」
そう言って陸がこちらへ走ってくる。本当に過去の俺はいいことを思いついたものだ。そう考えながら太陽は返事をする。
「いいぞ。ほら準備して?」
『寝る前に毎日本を一緒に読む』という約束は単純なものではあるがこの約束のおかげで毎日可愛い息子と時間を過ごせていると言っても過言ではない、と太陽は心の中で考える。
この約束を決めたのは陸が三歳の時だった。読み聞かせを始めたころは絵本を読んであげている間に寝てしまっていたのが一冊読み終われるようになり、短い絵本が二冊や長めの絵本一冊になり、今では短めの小説を四日ほどで読んでいる。細かいところではあるがこういう小さな幸せの連続が人生における幸せに繋がるのだろう。
「おとうさん、準備できたよ」
「わかった」
もそもそと移動していつもの定位置につくと、陸から本を手渡される。今日の本はキラキラと美しく輝く雪原のような場所と教会の絵が描かれていた。タイトルは……
「雪中……心中……?」
表紙の美しさとはあまり合わない暗い雰囲気のタイトルだった。
「おとうさん早く読んでよ」
普段はあまり急かしてこないにもかかわらず今日はなぜか急かしてくる。顔を覗くと一瞬だけ見えた暗い笑みとその後からのいつもの人懐っこい笑顔に少しだけ疑問を感じながら太陽は本を開き、読み始めた。
「――これは、とある神父と御曹司のおはなし……」
☆☆☆☆☆
序
これはとある神父と御曹司のおはなし。
神父月彦と御曹司海叶二人の出会いは、偶然から始まった。海叶の学校には、月に一度神父を学校に呼び、説教を受けるという行事があった。しかし、その日普段来る年老いた神父が来られなくなり、代わりに海叶の学校へ行ったのが、月彦だった。始めはいつもと違う人が来たことでざわついていた講堂は、月彦が美しい声で唱えた聖句によって静まり返った。聖句は皆の心に響き渡り、感動を与えたのだった。そして、今まではよくわからなかった聖書の教えは、月彦の丁寧な説明も交えた説教により、普段は寝てしまう子も、しっかりと話を聞くほどに良いものだった。
月彦にとって、大勢の人の前で聖句を詠むのは初めてだった。しかも、詠み聞かせる相手は聖書をよく理解していない子供。どうすれば、自分の話を聞いてくれるか考え、丁寧な言葉遣いと子供でも分かりやすい言葉で説教することにしたのだった。 結果、その日から月彦は子供から絶大な人気を得た。もともと優しい性格で、小さいからと言って見下したりせず、対等な立場に立って話してくれる月彦を、子供たちは皆快く受け入れていた。しかし、月彦は子供以外の前では固まってしまったりとまだ神父としては未熟であった。だから、大人たちは、人間としては素晴らしいが神父としてはまだまだ、という結論に達したのだった。それでも、月彦は懸命に仕事に勤めていたのだった。
壱
教会の掃き掃除をしている月彦のもとに一人の少年がやってきた。そして、驚く月彦の前に立ち言い放つ。
「神父様、俺、あなたのことが好きです」
「私もここにいる皆さんのことが好きですよ」
月彦は少し驚いた顔をしつつも微笑んだ。しかし、少年は不機嫌そうな顔をして、さらに続けた。
「LIKEじゃなくてLOVEです」
そういうと、少年は月彦の肩を掴み、背伸びをすると頬に唇を付けた。そこまでされて月彦もようやく気が付いたようで顔を赤くして、少年の体を押しのけた。
「だっ、第一私は男ですよ‼君も男の子でしょう⁉というか、まず君は誰なんですか‼」
「俺はあなたが男であるということも理解した上で言ってるんだけど……。ちなみに俺は西條海叶と言います」
「西條……海叶くん……」
「海叶でいいです」
「いえ……それは流石に……あ、私は」
「月彦さん……でしょ?」
「なぜ知ってるんですか……」
「あなたが遊んでいる子供たちに聞きました」
「そうですか……」
「それで、俺は月彦さんのことが好きです。俺と恋人になってください」
名乗り終わったところでしっかりと最初に戻す周到さに月彦は動揺を隠せなかった。
「すみませんが、少し考えさせてください」
「分かりました。ちゃんと考えておいてくださいね?一月後、またお聞きしますね。では、」
颯爽とその場を立ち去る海叶に月彦はどうすればいいのかわからなかった。
「あ……理由、聞き忘れた……」
そう思ってももう海叶はいなかった。月彦はいままで他人とそのような関係になったことがなかった。だから、どうすればよいのか全く分からなかったのだ。
どうすればよいのかわからず迷っていると遊んであげていた子供から心配されてしまった。
「神父様、どうしたの?」
まず、自分は海叶のことをほぼ知らない。まずはそこから知っていかなければいけないと思い、駄目元で目の前の子供に聞いてみたのだ。
「西條海叶という男の子を知っていますか?」
答えが返ってくることは期待していなかった。しかし、
「知ってるよ」
まさかの答えだった。
「海叶さんはねー、すっごいお金持ちのおうちの人で、頭もいいし運動もできるすごい人なんだよ‼」
月彦は驚きを隠せなかった。そんなにすごい人がなぜ自分に惹かれたりするのか、と。それに御曹司ならば、家柄的にも常識や世間体に縛られるものではないのか。あんなに軽く、男同士で、しかも年の差だってあるこの禁忌のような関係をどう思うのか、疑問が頭に浮かび続けた。教えてくれた子供に礼を言って、再び月彦は悩むのだった。
一月後、月彦はまた海叶に呼ばれ、人気のないところに連れていかれた。
「月彦さん、あなたの答えを教えてほしい」
月彦は、静かに理由を尋ねた。
「まず、なぜあなたが私にこのような思いを持ったんですか?あなたは普通とは違う人なのに」
海叶は一瞬むっとしてから口を開いた。
「俺が普通とは違うというのは、俺の家のことを言っているんですか?それなら、関係ないです」
海叶のとても強い物言いに月彦は少したじろいだ。
「俺の家は確かに『一般家庭』ではありませんが、それがなんだというのですか。俺のやることに家が関わる、そんな人生は絶対つまらない」
海叶はとても苦いものを食べたような表情で語り続ける。
「俺は、確かに『家』にお金が沢山あります。でもそれは俺が作ったものじゃない。今までにいろいろな体験をしたけれど、それは俺の『家』の力なんです。だから、俺はそんな……すみません。少し熱くなってしまいました」
さっきまでの恐ろしい形相とは打って変わって、とても悔しそうなものになる。そして眉間にしわを寄せながら、けれどとても悲しそうにぽつりとつぶやく。
「俺は確かに『家』に生かされてきました。『家』のために勉強も、マナーも。この世界で生きていくのに必要なものは『家』のため身につけてきました。それで周りからもてはやされたり、《あいつは俺たちとは違うから》って一歩おかれたりもしました。確かに皆とは違うところが沢山ある。全く分かり合えないこともある。でも、俺にだって心はあるんです」
ぐしゃりとゆがむ表情に元来優しい月彦は耐えられなかった。本来であれば断らなければならない愛の告白。月彦のどうすればいいのかと必死に考える頭脳を嘲笑うかのように月彦の口は独りでに滑り出す。
「私はあなたの事で知っていることはあなたの名前と今話していただいたあなたのお家の事だけです。だからまずはお互いを知り合っていくことから始めましょう」
気がついた時にはもう全てを言い終わっており、訂正しようとしたが海叶の顔の煌めきに口をつぐむしかなかった。
「俺明日から行ける日は毎日会いに行きます‼お手伝いとかあったら言ってください‼何でもやります‼」
「わ……かりました……。お待ちしていますね……」
月彦は全てを諦めこれからの日々を想像し、体を震わせた。
次の日から海叶は毎日のように教会に訪れ、自分の事を話しながら月彦の手伝いをしていた。最初は月彦の態度もよそよそしかったが、段々と軟化し二週間ほどで、二人の距離は一気に縮まった。海叶はいつも多忙であったが、時間をうまくやりくりして教会に来る。その事実に月彦は無自覚ではあるが喜びを感じていた。しかし、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。
「海叶様と貴方は住む世界が違うのです」
その一言は海叶の付き人の口から出されたものであった。
「海叶様には家の為、やらなければならないことが沢山あり、今の貴方はそれの達成の障害にしかなっていないのですよ……。貴方に我々が何を求めているか……ご理解いただけますね?」
そういうと、全く動く事の出来ない月彦を横目に何事もなかったかのように付き人は去っていった。
月彦は最初は何も考えられなかったが、少し時間が経てば不思議と受け止めることが出来た。そして『明日海叶に別れを告げよう』と決めたのだった。
「私達、やはり離れるべきだと思うんです」
昨日決心したものの改めて口に出すと泣きそうになる。
「え……?」
海叶もまた、泣きそうな顔をしていた。
「理由を聞いてもいいですか?」
そう聞く海叶の声は、震えていた。声の震えに気が付かないふりをして月彦は静かに答えた。
「貴方と私では、住む世界が違うでしょう?だから、」
バシンッ
突如頬に走る痛みと破裂音。月彦は一瞬何が起こったか理解が出来なかった。痛む頬を押さえて顔を上げると海叶の目からはボロボロと涙が溢れていた。月彦はそこで己のしてしまった事の重大さに気が付いた。
「あの……かい」
「貴方も結局は俺の『家』を見るんですね」
海叶は溢れる涙を拭こうともせずに呆然とする月彦を見つめ言い放った。
「今まで、ありがとうございました」
そう言って海叶頭を下げ走り去った。
「海叶く……わた……私は……」
海叶がいなくなる。海叶と会えなくなる。その事実を自覚した途端涙が止まらなくなる。がくがくと足が震え、足に力が入らなくなりしゃがみ込んでしまう。
「僕は、本当は貴方と一緒にいたいんだ……」
ようやく口にできた本心も、風と共に消えていった。
次の日、いくら待っても海叶が来ることはなかった。つい昨日会っているはずなのに寂しくて仕方がない。じわりと涙が溢れだす。昨日あんなに泣いたはずなのに、涙は枯れないんだなぁ……なんてとんちんかんなことをと思いながら月彦は静かに涙を流し続けた。
ピチチチチ……と鳴きながら口に花を咥えた鳥が月彦の前で飛び跳ね、花だけをおいて飛び去っていった。
「こんな花……見たことない……」
この花は鳥からの慰めなのだろうか。とても良い香りの薄紫の花。月彦はこの花をどこかに飾ろうと立ち上がった。
しかしその次の日も、次の次の日も海叶が教会を訪れることはなかった。そして、月彦は気が付いてしまった。月彦は海叶の家がどこにあるか知らないのだ。謝りたくても謝れない状態に気が付き、月彦はまた涙を零す。こんなにも海叶のことを思って泣いてしまうなんて……。月彦は反射的にまるで恋のようだ、と考えてしまった。途端身体が燃えるように熱くなる。
「僕は、海叶くんに……恋をしている……?」
声に出すことでさらに胸の高鳴りを感じる。こんな気持ちになるのは何年ぶりなのだろう。月彦は恥ずかしさで顔を手で覆う。しかし、月彦は思い出すのだ。別れを告げたのは自分である。告白されて振ったにもかかわらず好きだなんて、自分勝手にもほどがある。それに彼には自分よりもふさわしい人がいる。そう分かっていても月彦はその人に彼を渡したくないと思った。胸の高鳴りが抑えられない。月彦の心に海叶への気持ちが溢れていく。どうしてもその気持ちは抑えられなかった。あぁ、僕は彼の事が大好きだ‼それを心から思った途端、体温がはねあがる。そして体の熱が最高になった時に、月彦は『なにか』を吐き出した。
ころり月彦の口から青いバラの花が一輪零れ落ちた。
「青いバラ……?どうして……」
月彦は自らの身に起こったことが理解できなかった。なぜ突然口から花が出てきたのか。なぜバラなのか。そしてなぜこんなにも美しい『青』なのだろうか。青バラを見ていると二週間ほど前のまだ月彦が海叶を受け入れられなかった頃に海叶にされた話がリフレインする。
『俺の好きな色は青なんです』
『俺の名前に海が入ってるっていうのは別に関係はないんですけど、俺海と空が好きなんです』
『海と空はどこまでも続く、俺の中の自由の象徴だから』
「ううっ……ゴホッゴホッ……うえぇ……」
ぼとぼとと音を立てて青いバラが零れ落ちる。
「もう……勘弁してくれよ……」
落ち着いてから本で調べたところ、青いバラの花言葉は≪不可能≫というらしい。全くその通りだ。そうつぶやいた月彦はため息をつきながらまた花を吐き出した。
弐
月彦と一緒にいると楽しかった。『家』からの重圧やしがらみから月彦と共にいる間だけは解放されたような気がしていた。最初は拒絶されているのを感じられたが、段々と受け入れてくれている。海叶はそう信じていた。
『私達、やはり離れるべきだと思うんです』
この一言があるまでは。海叶は一瞬信じられなかった。最初は月彦に裏切られた気持ちでいっぱいだったが、時間が経つにつれひどいことを言ってしまったと海叶は後悔した。謝らなければ、そう分かっていても海叶の足は教会の方には動かなかった。
教会に行くといつもなら掃除をしているはずの月彦はおらず、教会の近くに住むおじいさんが掃除をしていた。
「月ひ……いつもの若い神父さんは……」
「彼は今寝ているよ。半月ほど前から体調が優れないようなんだ」
「だ、大丈夫なんですか⁉」
「今は安静に寝ているよ。ただ、少し前から出ていた咳がけっこうひどくなったらしくて食事があまり取れていないみたい。でもお医者様に掛かろうとしないんだよね」
おじいさんはふと思い立ったように話し出す。
「あ、そういえば青いバラの花が沢山あって……これなんだけど」
そう言っておじいさんは美しい青バラを差し出してきた。
「知ってる?」
「いえ……知らないです。すみません。」
「そっか……でも教会に青いバラを送るなんてすばらしいと思わないかい?」
「素晴らしい?」
「青いバラの花言葉を知っているかい?」
「確か……≪不可能≫ですよね……」
海叶は過去に何かの本で読んだのを思い出しながら答えた。
「確か……作ることが出来ないから……」
「それは昔の話で今は開発に成功したことから≪夢叶う≫とか≪神の祝福≫っていうんだ。送った人はきっと神になにかお礼をしたかったんだろうって思うんだ」
「≪神の祝福≫……それに≪夢叶う≫……。それは確かに素敵ですね……」
海叶はそっとバラを撫で微笑んだ。
「本当にきれいだ」
そして海叶は≪夢叶う≫に思いを馳せながら明日月彦に謝ることを決意し、おじいさんに別れを告げたのだった。
翌日、海叶は月彦の家の前に来ていた。約二か月ぶりで気まずさもあったが、海叶は月彦の体調が心配だった。そして昨日聞いた≪夢叶う≫の言葉。海叶は顔を見て非礼を詫び、体調を気にかけつつ恋人にならなくてもいいから前のように逢うことを許して欲しい……そう言うつもりだった。
「帰ってください」
「え……?」
拒絶された。現実が受け止められなかった。
「今の僕は君とは会えないんです‼帰ってください」
あまりの剣幕に海叶はどうしたらよいかわからなかった。
「明日も……また来ますから……。明日は顔、見せてください」
扉の向こうから咳が聞こえたが、返事はなかった。月彦のことをどれだけ傷つけてしまったのだろう、あの優しい月彦が会ってくれないほど傷つけてしまったのはいつだったのだろう、海叶は帰り道涙が止まらなかった。
その晩、海叶は涙を流し続けた。
翌日、宣言通り海叶はまた月彦の家を訪れた。昨日よりは落ち着いた気持ちで扉に向かって語り掛ける。
「月彦さん、俺です。海叶です。そこのおじいさんに聞きました。体調悪いそうですね、大丈夫ですか?俺、ゼリーとか買って来たんです。俺、もう月彦さんに恋人になれなんて言いません。でも、友達同士でもこのくらいはやるでしょう?だから……ここを、開けてもらえませんか」
海叶は必死に語り掛けた。しかし、月彦の家の扉が開くことはなかった。
「帰ってください。私と貴方は本当に住む世界が違うんです。貴方がどれだけ『お家』のことで大変か貴方は私に話してくれました。それを私は大変そうだとは思いました。でもそれだけなんです。私は貴方の苦しみを支えてあげる事は出来ます。けれど共感する事は出来ないし、状況を変えるためのアドバイスをしてあげる事もできません。住む世界が違うというのはそういう事です」
そこまで言うと月彦はなにか軽いものを落とすような音をたてながらむせかえった。
「月彦さん……‼」
「少しむせただけですから大丈夫です」
扉の向こうから明らかにきつそうな声が返ってくる。
「でも……」
「もう疲れてしまいました。私はもう寝ます。帰ってください。帰り道には気を付けて下さいね。では」
月彦の咳の音が段々と遠くなっていくのを聞きながら海叶も家へと向かった。
「やっぱり、月彦さんは優しいなぁ……」
誰にも聞こえない声で海叶は独り言ちる。
「やっぱり、俺、貴方の事が好きです……」
その呟きは、誰にも届かない。 突如海叶の喉に異物感が走った。咳をしながらなにかを吐き出す。吐き出したものは、花だった。
「なぜ……キキョウの花が俺の喉から……?」
人体から花が出てくるなんて非科学的すぎる。そんなことをどれだけ考えても目の前には一輪のキキョウがある事実は変わらない。
「事実は小説より奇なり……か」
海叶は不思議とこの奇妙な状況を受け入れていた。それは海叶がキキョウの花言葉を知っていて、それは自らの思いとぴったりあっていると感じられたから……かもしれない。
キキョウの花言葉は≪永遠の愛≫≪変わらぬ愛≫。自ら吐き出す花も月彦への気持ちだなんて、もうこの愛を知らなかったことには出来ないな。そう思いながら海叶はまたキキョウの花を吐き出した。
その後海叶はどうしても月彦に会いたい気持ちが抑えられず、三日に一度くらいで月彦の家を訪れていた。しかしいくら語りかけても扉が開くことはなく、追い返される度に海叶は花を吐き続けた。月彦と会えないことで海叶は心の支えを失い、もう自分がどうすればいいのかわからなくなっていた。月彦の言ってることは正しいことだと理解していても海叶は寂しくて仕方がなかった。涙が目にたまる。そしていつもの吐き気。
「うあっ……うぐっ……」
また、吐いてしまった。海叶はいつものように花を見つめ、いたたまれないきもちを抑える。その時、ドアの方から音がした。
「誰かいるのか?」
音もなく扉が開いた。
「申し訳ありません、海叶様。たまたま通りかかっただけなのです」
「黒井……このことは父上には言わないでもらえるか?」
海叶は黒井に頭を下げて頼んだ。こんな非科学的な状態にある自分を見せたくなかったのだ。
「……嘔吐中枢花被性疾患」
黒井は呟くように、その名を口にした。
「海叶様は今嘔吐中枢花被性疾患に罹っているのではないでしょうか」
「嘔吐中枢花被性疾患……?」
黒井は静かに語りだす。
「通称は『花吐き病』と言いまして、私も文献で読んだだけなので何とも言えないのですが確か遥か昔より潜伏と流行を繰りかえしてきた病気でして、感染源はその患者の吐き出した花に触れることで発症するのは片思いを拗らせた者。あまり長期間症状が続けば体力を消耗し、最悪の場合死に至ります。根本的な治療法はまだ見つかっていないのですが、想い人と両想いになれば白銀のユリを吐いて完治する……という病気でございます」
「そんな病気が存在してたのか……知らなかった……」
「先ほども言いましたが、花吐き病に罹るのは片思いを拗らせた者なのです。海叶様、一介の付き人がこのようなことを申し上げていいのかはわかりませんが、貴方も西條家の立派な人間なのですから片思い程度の山乗り越えなければこの先の試練には立ち向かえませんよ。」
そう言い残して黒井は早々と出て行ってしまった。部屋の中で海叶は呆気に取られて動けなかった。
「黒井……慰めるの下手だな」
海叶は楽しげに笑ったが、床に広がる花を見た途端海叶の顔から表情は抜け落ちた。そして花を片付けながら、海叶はぽつりとつぶやいた。
「月彦さん……俺はあなたがいてくれないともう駄目なんだ……」
あなたが俺の想いに応えてくれれば。そんな海叶の言葉は、片付けきらなかった花びらとともに、窓から遠い空へ消えていった。
数日後、月彦の家を訪れるために歩いていると痩せ細り、顔に疲れを浮かべた月彦がゴミ袋一杯の青バラを茂みの陰に捨てていた。あの量の青バラを送るなんて、どれほど成功したのだろうか。海叶は月彦の方へふらふらと歩み寄る。
「月彦さん……」
海叶の声は非常に小さなものであったが、月彦の耳には届いていたようで月彦はちらりと海叶の方へ目を向けた。
「海叶くんっ……‼」
そう言うと月彦は逃げ出した。
「待ってください‼」
海叶は月彦を追いかけた。段々と縮まる二人の距離。月彦が家の中に入って鍵を閉めようとしたとき海叶は息を切らしながらもドアの隙間に足を差し入れた。
「海叶く……足、どかしてください」
そう言いながら海叶の足を押しのけつつ月彦はドアを容赦なく於下。
「痛っ……俺は貴方の事がどうしても諦められないんです‼」
海叶がそういった途端月彦のドアを押す力が緩み、月彦が咽せ返った。その隙に海叶はドアを引っ張りドアを全開にした。
「見ないでください‼」
その声とともに月彦の口から青いバラが数輪落ちた。
「月彦さん……それ……」
月彦がバラを吐く姿は普段の聡明な海叶の脳を溶かし、ただ『美しい』そう思う事しか出来ない棒にしてしまうほどの衝撃を海叶に与えるものだった。
「気持ち悪いでしょう?海叶くん、君の事を思うと僕はいつもこうなってしまうんです」
嘲る様な表情をしながら月彦はバラを見つめた。
「月彦さん、『花吐き病』って知ってますか……?」
海叶は月彦の言葉で我に返り、頭を振ると黒井にされた説明をそのまま月彦に告げた。すると段々と月彦の顔は赤くなっていく。
「月彦さん、青バラの花言葉って知ってますか?」
赤くなっていた月彦の顔が暗くなる。
「はい……≪不可能≫ですよね……」
「やっぱり、月彦さんも知らなかったんですね。俺もこの間まで知らなかったんですけど青バラの花言葉が≪不可能≫だったのは昔の話で、今は≪夢叶う≫とか≪神の祝福≫っていうらしいんです」
月彦は息をのみ、ゆでだこのように赤くなった。次の瞬間、また月彦が咽返った。
「月彦さ……ッ‼ううっ……」
海叶は月彦の背を撫でようと手を伸ばすも、その手は空を切った。
「ゲホゴホッつき……こさ……」
「ううっ、か、かい……く」二人を今まで感じた事のない異物感が襲う。ころり、ころり
二人は全く同じタイミングで花を吐き出した。これは、花吐き病完治の証の白銀のユリ。海叶は月彦の手を握り締めて言った。
「月彦さん、俺やっぱり貴方の事が諦められないんです。俺とずっと一緒にいてくれませんか……?」
月彦は顔を真っ赤に染めながら小さく頷いた。それに気を良くした海叶はさらに続ける。
「俺、月彦さんのこと愛してます‼これからはずぅぅっと一緒ですよ‼」
そう言って海叶は月彦に抱き着いた。それに対して月彦は今までで一番強い力で抱きしめ返すのであった。
参
それからしばらくの間は三日に一度ほどしか海叶と月彦は会わなかった。海叶は月彦の弱ってしまった身体が元に戻るまでは待つと月彦に言ったのだった。そして海叶は心の中でこっそりと月彦の体調が良くなったら『家』に紹介しようと思っていたのだった。
しかし、そうは問屋が卸さないものである。それは月彦の身体が普通に生活を出来る程度まで回復したある寒い日の事だった。その日は海叶の提案で月彦は海叶と共にのんびり散歩をしていたのだった。
「月彦さん、今日は夕方から雪が降るそうですよ。もうそんな時期か……って感じではありますけど」
「そうですね……。僕たちが出会ったのは走ると汗がにじむような時期でしたね。もうそんなに経っていたのか……」
海叶は悪戯が成功して喜んでいる子供のように笑った。
「……月彦さんはいつになったら俺に『愛してる』って言えますかね」
「海叶くん……!?そんな意地悪言わないでください……」
月彦は顔を赤くしてワタワタしながら言った。そう、今まで月彦は海叶に一度も自分から愛の言葉を言えたことはなかった。言いたい言いたいと思っていても言おうとするとどうしても羞恥心が邪魔をするのだ。「すみません月彦さん。俺の我儘でこんな関係になってるんですから無理は言いませんよ。いつか貴方が言ってくれる日を俺はいつまでも待ってますから」
そう言うと海叶は悲しげに微笑んだ。ああ、駄目だ。そう月彦は思った。今の海叶はあまりにもかっこいい。自分だって海叶と共にいたくている。決して海叶だけの我儘ではない。そう伝えたかったが月彦は口を開くことが出来なかった。それでも海叶だけではない、それだけはどうしても伝えたかった。そう思い口を開いた。
「あの……」
「海叶様、貴方には『西條家』の一員らしくあれ、と申し上げたはずですが忘れてしまいましたか?」
しかし、月彦の言葉は海叶に届くことはなかった。思わぬ横槍が入ったのだ。
「黒井……。俺は今本当にこの人の事を愛している。お前が『花吐き病』の事を教えてくれた時から想っていた人だ。俺と月彦さんは一緒に『花吐き病』に罹って同時に白銀のユリを吐き出したんだ」
海叶の弁明を静かに聞いていた黒井は海叶に返答することなく月彦の方を見た。
「お久しぶりですね、神父様。前に会った時から半年くらいたってますかね。前にお会いした時よりも随分と痩せられたようだ。御身体は大丈夫ですか?」
「は、はい。まだ本調子とは言えませんが海叶くんに助けていただきながら人並みには暮らしています」
月彦は恥ずかしそうに頬を染めた。そんな月彦を黒井は冷たい目で見つめた。
「なるほど。ところで私が前お会いした時に申し上げた事、覚えていらっしゃいますか?」
その言葉を聞いた途端月彦のほんのり赤かった顔は一瞬で真っ白になった。
「黒井‼お前月彦さんに何を言った!?」
黒井は海叶をきつくにらみつけて言った。
「貴方と海叶様では『住む世界が違う』、と」
その言葉に海叶は激昂した。
「俺はいつまで『家』に従い続けなければいけないんだ‼」
黒井は激昂する海叶とは対照的に冷たく言い放った。
「何をおっしゃっているんですか?一生に決まっているでしょう。貴方は『西條家』の生まれた時点でもう生き方は決まっています。貴方は決められた相手と結婚し、『家』の繁栄のために貴方のすべてを注ぐのです」
海叶は一瞬顔を絶望に染めるが首を振ると月彦の手を取り走り出した。
「海叶様‼どちらへ行かれるのです⁉」
今まで平然としていた黒井が初めて見せた焦りの表情だった。海叶はその問いに答えることはなかった。「全く……若い人間は何をしでかすかわからないな……まぁどうせいつもの場所だろう。『家』からそう簡単に逃げられると思うなよ」
黒井はため息をつきながら『家』へと向かっていく。黒井の言葉は誰の耳にも入ることはなかった。
海叶は月彦の手を引き無言で走り続けた。月彦も付いて行っていたが、月彦の身体は悲鳴を上げていた。「あの……かい……海叶くんッ……ちょ……ちょっと……待って……くだ……」
そこで海叶ははじめて気が付いたように月彦の方を見て、散歩の時と同じくらいのスピードを落とした。「すみません月彦さん。俺、今あなたの身体の事考えられていませんでした。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……です。でも、今貴方はどこへ行こうとしてるんですか?」
海叶は降ってきた雪を見ながら途切れ途切れに話し始める。
「俺がどうしても耐えられなくなった時に、町はずれに小さな山があるんですけど、そこの中腹にすごい綺麗に街を一望できる場所があるんです。俺小さい時から行って心を落ち着かせてたんです。あの、それで……そこの景色はほんとに綺麗で、そこは俺の大切な場所で……貴方に見てほしいんです。それで、俺は……貴方と一緒に」
海叶は歩みを止めて下を向いた。
「海叶くん?どうしたんですか?」
「俺は、貴方と一緒に、そこで死にたいんです」
「えっ……」
海叶の突然の告白に月彦はどうしたらよいのかわからなかった。
「突然こんなこと言ってすみません。でも俺はこのまま生きていても貴方と共にはいられない。俺はそんな世界ではもう生きていけないんです。ねぇ、月彦さん。俺と一緒に、来てくれませんか……?」
「……いいですよ」
「そうですよね駄目で……えっ……?」
海叶は一度でも否定したら消えていなくなってしまいそうな顔をしていた。月彦にはそれが怖かったのだ。「もうここまで来たら戻ることは出来ないんですから地獄の果てまでご一緒しますよ
」そう言うと月彦は微笑んだ。
「ありがとうございます月彦さん。俺はあなたと共にいることが一番大切なんです。あのまま『家』に従って生きていれば幸せは決まっていたかもしれない。それでも俺は決められた幸せより貴方といることを望んで『家』から逃げてしまった。俺は最低な親不孝で愚か者です」
そう言って海叶は顔を歪めた。
二人で目的地の山に着いた時には数センチほど積もっていた。それでも二人は山へと入っていく。会話はなかった。 最初は二人とも自らの足で歩いていたが、しんしんと降り積もる雪に病のせいで体力を失っていた月彦の身体は限界を迎えた。海叶は月彦に無言で肩を貸した。そんなふたりを嘲笑うかのように雪はどんどん強くなっていく。二人の体力はみるみる減っていく。しかし、遂に目的地に二人は到着したのだった。
「月彦さん、着きましたよ。ここが俺の、俺の場所です」
月彦が顔を上げるとそこには白銀の世界が広がっていた。
「きれい……」
「天気が良ければもう少し行ったところから街が見えるんです。俺はそれを見て心を落ち着かせて頑張っていたんです。今日は無理かなぁ」
そう言うと海叶はずっとこわばっていた表情をふわりとほころばせた。月彦はそれを横目に見ながらどさりと降り積もった雪に倒れこんだ。
「月彦さんっ‼」
月彦はなにかを諦めたような表情で空を見上げた。
「僕は貴方にどうしても言わなければならないことがあります」
月彦は海叶を見つめながら話し始めた。
「僕が不器用じゃなければもっとあなたに言えたはずなのに。僕はこんな時になってもまっすぐ貴方には伝えられないんです。それでも僕は後悔しないように貴方に聞いてほしい」
月彦はゆっくり瞬きして口を開いた。
「貴方と一緒にいられて僕は本当に幸せでした」
微笑みながら話す月彦を見て海叶は目に涙をためた。
「いい人生を送ることが出来ました」
海叶ははっとすると涙を溢れさせた。
「神父としては失格だったけれど一人の人間としては及第点な人生ではないでしょうか」
「貴方は確かに神父としては未熟だと言われていたけれど俺は貴方は素晴らしい神父と思っています。だって、貴方は俺を救ってくれたのだから」
「天国に行くには僕は穢れ過ぎてしまった。でも貴方は今までの人生の中で沢山我慢してきた。だから貴方には素晴らしい道が待っているはずです」
海叶は顔を涙でぐしゃぐしゃにして叫んだ。
「そんなことない……‼俺は美しかった貴方を穢したんです。だから俺の方が……‼」
海叶の口は月彦の人差し指によって押さえられ、最後まで言う事は出来なかった。
「まだ、間に合うはずです。貴方の行動を否定するようですが、貴方はまだやっていける。貴方だけでも、僕は生きてほしい」
「嫌だ、嫌です月彦さん。俺は貴方を知らなかった頃には戻れない。もう貴方のいない世界に満足できないんです。だから……月彦さん……」
「す……すみません海叶くん。僕はもう駄目みたいです。最期までこんな僕でごめんなさい。でも今僕はすべてに満足した。もう思い残すことは何もありません。貴方といられて、僕は本当に……幸せでした」
そう言って月彦は微笑み、動かなくなった。
「貴方のいない世界で生きていても意味がないんだ‼」
海叶の必死の叫びに対する月彦からの返答はなかった。
途端、海叶の頭に月彦の言葉がリフレインする。
『僕が不器用じゃなければもっとあなたに言えたはずなのに。僕はこんな時になってもまっすぐ貴方には伝えられないんです』
『貴方と一緒にいられて僕は本当に幸せでした』
『いい人生を送ることが出来ました』
『神父としては失格だったけれど一人の人間としては及第点な人生ではないでしょうか』
『天国に行くには僕は穢れ過ぎてしまった。でも貴方は今までの人生の中で沢山我慢してきた。だから貴方には素晴らしい道が待っているはずです』
『まだ、間に合うはずです。貴方の行動を否定するようですが、貴方はまだやっていける。貴方だけでも、僕は生きてほしい』
『す……すみません海叶くん。僕はもう駄目みたいです。最期までこんな僕でごめんなさい。でも今僕はすべてに満足した。もう思い残すことは何もありません。貴方といられて、僕は本当に……幸せでした』
海叶は月彦の言葉にはっと気が付き、涙を拭いて微笑んだ。
「ようやく言ってくれましたね、月彦さん。確かに貴方は最期まで本当に不器用な人だ。いや、ロマンチスト……というべきかな」
海叶は月彦の横に寝転がり、雪に包まれて冷たくなりつつある月彦の身体と自分の身体をくっつけた。
「貴方と会って初めて『家』に逆らった。最初は怖くて仕方がなかったけれど、後悔なんてしていません。貴方に会えて本当に良かった。俺は本当の自由を知れたのだから」
そう言って海叶は目を閉じた。
二人の身体はまるで二人を隠すかのように降る雪に埋もれていく。二人の顔には微笑みが浮かんでいた。どこかで枝から雪が落ちるのと共に二輪の白い椿がぽすりと音をたてて沈んでいった。
☆☆☆☆☆
「――沈んでいった……」
太陽はなぜ陸がこの話を持ってきたのか分からなかった。陸はひたすらに無邪気な男の子だ。これはそんな子が持ってくるような話ではない。それにこれは……。
「悲しい話ね」
「すみれさん……」
陸に詰め寄りかけた時に妻のすみれが泣いているのに気がついた。
「悲しいからってわけで持って来たんじゃないけど……それにこれは嬉しい話だし」
陸は太陽にも聞き取りづらいような声で小さく呟いた。
「え?」
「んーん‼なんでもなーいよ~僕どうしてもおとうさんに読んで欲しくてさ」
陸は嬉しそうに笑いながら言った。太陽は生唾を飲み込むと陸を自分の方に向けて座らせた。
「なぁ、陸……」
「あらあら、もうこんな時間よ!あっ、洗濯!!」
すみれは洗面の方へ駆けていく。太陽も洗濯を手伝おうと立ち上がった。しかし、陸が服を握っていて歩くことは叶わなかった。
「お父さん、今日は一緒に寝てよ」
陸はにっこりと笑った。その子供らしい人懐こい笑顔に太陽は勿論、と微笑んだ。
「おとうさんはあの話、どう思った?」
陸を布団に寝かせ太陽が隣の布団に入った時、陸がぼそりと呟くように言った。
「今日読んだ話のことか?悲しい話と思ったよ」
答えは変ではなかっただろうか、太陽は唐突に心拍が上がるのを感じつつも、平静を装って答えた。
「僕は、『愛しています』って言ってもらえて嬉しいって改めて思ったよ」
「愛していますなんてセリフあったか?」
太陽は薄ら笑いを浮かべていたがすぐに表情を変えた。
「『僕は』……?」
本の話をしている状態で『僕は』なんて出るものだろうか。それともまさか……。そう思って太陽は陸の顔を見た。そこには今までに見たことのないような顔で微笑む陸がいた。
「陸……お前まさか……」
必死に絞り出した声はからからに乾いていた。陸はゆっくりと口を開いた。
「もう僕らの間に邪魔は入らないよ。今度はずっと一緒にいようね、おとうさん」
そういって陸は太陽を抱きしめた。陸をやわらかな笑顔で抱きしめ返す太陽の目には涙が浮かんでいた。