カニを食べない寂集落について
1
めっきり朝は肌寒くなった十月下旬の京丹後市。日曜日だった。
日本海に面した丹後松島を一瞬、左に見たあと、国道一七八号線を右にそれ、しだいに山間部に分け入っていった。産道にでも入ったかのように道はせまくなった。左右は杉の大木が延々と続き、頭上の空は樹冠でさえぎられ、アスファルトを光と影の迷彩色に染めていた。
初見の営業先だったが、穴吹 徹弥は心細さを感じなかった。車にはナビが装備されているし、なにより子供のころから祖母が暮らす愛媛の田舎へ足繁く遊びにいったものだから、見知らぬ土地に抵抗がなかった。田舎の人はよそ者に対する警戒心は強いとはいえ、どんな初対面の人であれ、懐に飛びこみ取り入る自信があった。仕事はきつかったが、二十六になるまで辞めたいと思ったことは一度たりともない。
曲がりくねった一本道を進むこと二十分ばかり。小さな集落に入ったようだ。看板には『寂』とだけある。名前のとおり、寂しげな寒村だった。
午前九時すぎだというのに、標高二〇〇メートルクラスの山々に抱かれており、その裾野に密集しているせいか日差しが届くまで、まだ時間を要しそうだ。朝靄が夢のように揺蕩っていた。
昨日まで地方都市ばかり攻めて成果を出しており、この三日でぼちぼち数字もそろってきたことだし、気分転換のつもりで今日はこのあたりを奇襲するつもりだった。
いい感じの中途半端な寂れ具合と、秘境っぽい集落である。よその業者が入りこみ、手垢にまみれたテリトリーだったりして秒殺で撃沈することもあるが、かえって中途半端だからこそ、業者は鼻にもかけず素通りするエリアもないわけではない。そんな場合、住人の人柄はスレていなく、入れ食いになることだってあり得た。
穴吹は営業歴六年ながら、そんな直感が冴える域に達していた。十中八九、この集落は落とせると見た。というか、今朝、ビジネスホテルを発ったときからめずらしく力がみなぎっていた。このモチベーションを維持していけば、必ず結果はついてまわるはずだ。
寂集落を取りまく山々は紅葉前の黄色っぽく、くすんだ色彩が一面を占めていた。稲を刈り終え、閑散とした水田が山の際まで広がり、車を進めていくと、しだいに段々畑になった茶畑も目につくようになった。集落の入り口あたりこそ民家は貧しい佇まいで、生活臭に欠けるような廃屋が目立ったが、奥へ入るにつれ三〇〇メートルばかり進めば、立派な洋風の一軒家も立ち並ぶようになった。一級河川と思われる流れの速い川が集落の真下を流れていた。
穴吹は手始めに左手の、少し高台に位置する石垣に囲まれた民家が好ましく映ったので、車を乗り入れることにした。
道からはずれ、ちょっとした坂道をのぼると、庭一面に赤や黄、紫の花が植えられているのを眼にし、ビンゴ!と心中叫んだ。
動物好きに悪い人はいないと言うが、過剰なまでに多頭飼いしている人の場合は必ずしも当てはまらないと、穴吹は思う。人間さまより犬猫を信用する一方、町内放送のたびに合唱団みたいな吠え声や、芬々たる糞尿の臭いをかえりみない家人を口説くのは至難の業だ。むしろ庭に色とりどりの花を育てている人は開放的であり、ほがらかで、金銭的にも豊かな人が少なくない。最悪、飛びこみで、一瞬にして門前払いを食らう確率は低いと思っている。
モノを買ってくれるか否かは別として、とりあえずはとおり一遍のセールス・トークを聞いてくれる寛容さがあるというのが、穴吹の持論だ。逆に言えば、いかがわしい営業マンのターゲットになりたくなかったら、庭じゅう草花で埋め尽くすべきではない。
2
営業車の鼻先を敷地に突っこむと、タイヤが砂利石をかんだ音で気づいたか、玄関横の縁側から、障子を開けて老女が姿を見せた。
白髪で、お定まりのおばさんパーマをあてた、日本中どこを探してもいる人。警戒の色を示しているが、カワウソみたいな剽軽な顔立ちが人のよさを感じさせた。穴吹はピンときた。これは話せばわかるタイプだ。世話話から斬りこめば口説けると踏んだ。
車のエンジンを切り、ビシッと決めたスーツに付着した菓子パンのクズを払い、ミラーでネクタイを正し、助手席の重さ十キロのジュラルミンケースを軽々取ると、颯爽と車外へおり立った。イタリー製のブランド革靴もバッチリ磨き抜かれている。
「お兄さん、どうしたんだい、迷子にでもなったのかね」と、老女は開口一番、腰砕けのひとこと。縁側に立ち尽くし、穴吹仕様の営業車を見た。優秀な営業マンにしか与えられないハイブリッド車で、ドア横には社名がペイントされている。「『株式会社・西日本サプリメント推進協会』? こんな山奥くだりまでご苦労なこって」
「おはようございます。迷子の子猫じゃありませんよ。今日は仕事でこのへん一帯をまわってるんです。おばあさんの家を見て、栄えある一軒目に選ばせていただきました。じつは僕、健康食品の販売をやってる者なんです」と、穴吹は快活に口上をまくしたてた。さりげなく今風のウェーブをかけた髪の毛先を気にする。そしてホストばりの爽やかな笑み。いきなり健康食品の話題を持ち出すのはせっかちすぎる気もするが、この老女なら押しまくればモノにできると思った。「朝晩が冷える時期になりましたね。風邪などひかれてませんか? お時間の方よろしければ、縁側で腰かけて、お話しませんか」
「いやに馬鹿丁寧なお兄さんだね。風邪なんかひくほどヤワじゃないよ。この分だと百三十歳ぐらいまで長生きしそうな勢いだったりして。そうなると、雄輔――あたしの長男なんだけどね。ところが不愛想すぎて、三年前、嫁に逃げられてね――、つまり息子もいい迷惑だろうね」と、老女はカラカラと笑い、はにかんだ様子で手をふった。「あそー、仕事できたわけね。で、あたしが第一村人ってわけ。いいよ、こちとら洗濯機まわしたばかりだし、朝の報道番組も見飽きてたところなの。話につき合ったげる」
「ではでは……」
穴吹は、現代におけるセルフメディケーションの必要性を説き、そこから自社ブランドの健康食品を推進し、他社より低価格で提供できることを、滔々とまくしたてた。社内対抗RPG大会においては、最優秀賞に二度輝いている。
二十分かけて口説いた結果、老女は紹介した健康食品の品々に購買意欲をおおいにそそられたようだ。ピンポン玉みたいな眼球がパンフレットに釘付けになっている。
しかしながらここで買え買えの猛プッシュでは、いささかせっかちであり、下品すぎる。少しぐらい老女の言い分も聞いてやろう。日ごろの不満や悩みに耳を傾けることにより、流しの営業マンとはいえ信頼を勝ち得、買っていただいた商品をいたく気に入り、あわよくばリピートの声がかかるかもしれないのだ。じっさい穴吹の獲得した顧客には、一定数の固定ファンがおり、コンスタントに追加注文が入った。
案の定、老女は長々と、脇道にそれながら自分語りをしはじめた。ところがこれが恐ろしく冗長であり、相槌を連打していたさすがの穴吹もしまいにはうんざりして、内心叫びたいのをこらえなければならなかった。
要約すればこうだ。――いまのところ医者にかかってはいないが、未然に大病を防げるのであればそれに越したことはない。膝の軟骨も減っているし、このとおり眼も片方しか見えていないので、できればもう片方も酷使したくない。おまけに血圧、血糖値も高く、こう見えてイカの燻製を肴に、瓶ビールを毎晩飲んでいるせいか尿酸値までが許容範囲上限ギリギリまできている。健康のことを考えると食生活の改善のみならず、補助の意味でサプリメントを摂ろうかと、BSテレビの通販番組を観て検討していた矢先だった。それほど安価なら購入を考えたい、と身をのり出してきた。
「健康食品はお高いとおっしゃる方も多いです。女性の方がいちばん気になるのはお値段ですよね。ですがその前にこれをご覧ください。これがA社、B社の栄養成分の含有量と我が社とのちがいです。一目瞭然、我が社の含有量は突出していますよね」穴吹はラミネート加工された棒グラフの資料を指さしながら言った。矢継ぎ早、別資料を出し、「では価格の違い。これだけの栄養成分が入っていながら、こんな低価格で提供できるんです。ズバリ、自社工場で製造できる強みってわけです、ハイ」
「思ったより安いわね。コンドロイチンや黒酢サプリメントが半年分でニイキュッパなんて、コスト・パフォーマンスが良心的すぎるじゃない。これは買わない手はないわ。さっそくケースのなかを見せてちょうだい。そのなかにはまだ夢がつまってるんでしょ?」
「コスパときましたか」と、穴吹はあきれながらケースを開けた。「ハイカラな表現をなさる」
「いいえ、気に入ったのはそれだけじゃない。お兄さん、イケメンだし。それに軽そうに見えて、あんがい古風なのがイイわ」と言って、ニヤッと笑った。笑った拍子に入れ歯がはずれた。老女は慌てて入れ歯を押しもどした。「……お兄さん、よく見ると、ジャニーズの亀梨クンにそっくりだわ。さぞかし世の奥様方を泣かせてきたんでしょうね。このー、ニクイニクイ」
「まさか……。亀梨クンと瓜二つと言っておだててくれたからには、さらにお値段を勉強しないといけなくなりましたね」
3
結局、老女は、合計十八万円分もの健康食品を買ってくれた。しかも即金。ヘソクリだという。
その日一軒目の客が、まさかこれほどの金を落としてくれるとは驚きだった。内心ガッツポーズを作り、喝采せずにはいられない。これだから営業職は、しんどいことも多いが、ドラクエじゃないけど『会心の一撃!』や、その上位クラスのミラクル・ヒットがあったりして病みつきになるのだ。薄暗い工場勤務でコセコセやっているよりか、はるかに充実感が得られ、ノッてイケイケになったときは、えてしてその後の仕事も波にのるものだ。まさにこの老女こそビッグウェーブだった。これはキターッ!と思った。
老女は山家幸子と名乗った。現在七十二で、夫、裕信とともに、とぼしい国民年金で暮らしているが、それだけでは心もとない。家の周囲の畑で野菜をこしらえて自給自足し、ときには市場へ売りに行ったりして家計の足しにしているとのこと。
裕信は根っからのギャンブラーで、パチンコをはじめ、競馬競輪競艇と、あらゆる賭けごとに手を出すのだが、えてしてこの手は身を滅ぼすのが常であるにもかかわらず、よほど賭け事の女神でも味方についた星のもとに生まれているらしく、不思議と収支がプラスになることが多いのだという。
息子である五十四の雄輔と、その長男次男の家族五人が住んでおり、この雄輔は親父とはちがい、堅実に仕事に打ちこむタイプのようだ。四町もの茶畑の生産者であり、みずから営業販売もやってのけるやり手なのだとか。おかげで山家家は、寂集落のなかでは抜きん出て豊かな暮らしができていると、よけいなことまでしゃべった。
商品が山家にわたったところで、ひと息つくことになった。いったん台所にさがると、今年五月に採れた一番茶をふるまってくれた。穴吹は縁側に腰かけ、熱い茶をすすり、ひざを叩いて絶賛した。
穴吹は先ほどの世間話の続きじゃないけれど、さらに突っこんだ話をしてみることにした。いきなり一軒目でロケットスタートをしてしまったのだ。急いでこの集落を陥落させることもあるまい。もうしばらく、ばあさんの話相手になって、せめて善行でお返しやろうと思った。穴吹はすでに優位に立っていた。
ここ寂集落は世帯数きっかり六十、人口百四十八人。主な産業は水稲とお茶の栽培で、後者は知る人ぞ知るお茶として人気を博し、ブランド化しているとのこと。
集落の眼下には大勝川と呼ばれる川が流れ、この清らかな自然の恵みが、米やお茶の出来を良質なものにしてくれるのだという。アユ釣りの時期が解禁すると、川沿いは釣り人でにぎわうようだ。
ふと家から見おろせる斜面を見ると、赤と青の幟が立ちならび、家の横の石段まで続いていた。裏手の物置の上を見れば、古い鳥居があり、高台に小さな神社があるようだ。ゆるやかな風を受けて幟がはためいていた。
赤い幟にカニの絵が描かれ、青い方には魚の絵だった。少なくともアユやフナではない。
「近々、お祭りでもあるんで?」と、穴吹は両手に湯呑を持ったまま言った。「カニと魚には、なにか意味があるんですか。初めてお目にかかります」
「英雄、山太郎様をたたえる祭りさあね。山太郎様、と言ってもお兄さんは聞いたこともないだろうね」と、山家は縁側で正座したまま、まぶしいものを見るように眼を細めて言った。「寂独特のお祭りかもしれないね。明日、やるのよ。その準備で、旦那も寄合に出払ってるわけ。よかったね、お兄さん。うちの人がいたら、こんなに買い物できなかったよ。見つかったらどやされるところだったわ」
「ですよね。でも、奥さんのためを思えばこそ……」穴吹は汗をかく思いだった。「とにかく、英雄をたたえる祭りとはね。この村にはそんないわれがあるんですか。興味をソソられますね。英雄とはなんぞや」
「こう見えて寂はちっぽけだけど、古い伝統があるんだよ」
「お時間の方差し支えなければ、さわりの部分だけでも聞かせていただきませんか」
「そりゃいいけど、退屈な話かもしれないよ。あんたみたいな若い人なんか、ふつう毛嫌いするから。現に雄輔は、くだらない伝説だって吐き捨てる始末だし」と、山家は弱々しく言い、頭をふった。「あたしゃ、このとおり海千山千のばあさんに見えるかもしれないけど、寂に残された伝説についちゃあ、一、二を争うほど、つまり語り部をやってのけるほどくわしいんだよ。これも姑じこみでね」
「だったら、なおさら聞かずにはいられなくなった」
穴吹が山家の方へ身を乗り出したときだった。車のわきから郵便局員らしき制服姿の老年の男と、小学生らしい兄、さらに小さな年の弟が現れた。それほど顔が似ていた。
「おばあちゃん、この人、誰。東京の刑事さん?」と、長男が言った。
「刑事なもんか。訪問販売の人だよ。あたしゃ、なんも悪いことはしとらん。それより鹿野さん、配達かね?」
「おはよう。お孫さんかな? 留守のあいだにお茶、いただいてました」と、穴吹は明るく言った。
郵便局員が山家に向かって、「幸子さん、おはようさん。今日はまた、よう冷えるね。着払いの荷物が届いとるんだけど、お邪魔してもええか?」
「すっかり忘れてた。DVD注文してたんだわ。……ついにキターッ!」山家は奇声をあげた。そして穴吹を色目づかいで見て、「嵐のDVDコレクションよ。ライブ特集。これで全巻制覇したも同然。あたしゃ、松本潤クン一筋でね。面食いなの。彼のMCは最高よ」
「幸子さんも、いいトシこいて好っきやねー。あんたみたいなばあさんがコンサートへ行って、若い子にまじって黄色い声援あげてるんかと思うと、ゾッとするわ。ほんま、ようやる……」郵便局員は襟もとをかき合わせ、身ぶるいした。「あ、ほな、七千百八十六円な。それと印鑑たのむ」
「ゾッとするとは聞き捨てならないわね。ライブに行けば、あたしみたいなのもけっこういるのよ。嵐のファン層は幅広いんだから。それよか、ちょっとヘソクリとってくるわ」と、山家はまくしたて、中座した。
「ジ、ジャニーズを追いかけてるのは有名なんですか」と、穴吹。
「ここいらではね。村の集会所でカラオケ大会するときがあるんだけど、嵐の歌、熱唱させたら、マイク離さんのですわ。バッチリ鉢巻しめて歌いますのよ、これが」と言い、孫たちを振り返った。「それはそうと、肇とシゲちゃんは、朝の早よからどこ行ってた? さっき、しかけ網なんか持ってなかったか」
孫たちはうなずき、車の陰に置いていたものを抱えて穴吹の前に持ってきた。カニ網と呼ばれる四角いしかけの網だった。中央から左右に分かれるしかけで、たしかに網のなかにはいかつい黒々とした川ガニがいくつもかかっており、グロテスクなおもちゃのようにガサガサと動いていた。
「川遊び。ネットで調べてね、カニ網を昨日のうちに沈めてたの。朝行ってみたら、いっぱい獲物がかかってた。見てよ、でっかいカニ」と、長男が自慢げに言った。
「モズクガニ! こいつ、泡吹いてるよ! スゴすぎる! パワフルだよ!」シゲちゃんと呼ばれた弟がしゃがみこんだまま、ニカッと笑った。
「モ・ク・ズ・ガニ、だよ。このへんではズガニと言うな」と、鹿野も半身を折って言い、すぐに首をかしげた。「だけど寂じゃ、カニは捕まえたらダメなんじゃなかったっけ。近いうち山太郎様の祭りがあることだし」
「どれどれ見せて」と、穴吹は言った。「捕まえたらダメですって?」
4
黒褐色の甲幅は優に八センチはある。四角い甲羅の縁にはノコギリ歯のようなトゲがあり、クモみたいな脚六本に、ごついハサミ脚をそなえていた。ハサミにはふさふさの毛が生えており、それを振りあげて挑んでくるが、無機質な黒い目はなんの表情も表していないので、あまり愉快な光景ではない。モクズガニは淡水に住む甲殻類のなかでは大型の部類に入るだろう。カニ網のなかで、硬い音をたてながら七匹も蠢いている。
「食べたらうまいの?」と、長男の肇が言った。
「味は上海ガニとそっくりなんですよね。とくにカニミソは濃厚で知られています」と、穴吹は淀みない口調で言った。「祖母が愛媛の田舎に住んでましてね。よく地元の人がしかけで獲ってくれて、おすそ分けしてもらったものです。酒飲みは、甲羅を器がわりにアッチンチンの日本酒を入れて飲むと美味らしい。――やったことないけど」
「兄さん、ホストみたいにチャラッとしてるわりには、ずいぶんと田舎にくわしいのね」と、鹿野は眼をまるくした。
「くわしいですよ。なんでも聞いてください」
モクズガニは海で生まれ、河口や川の上流、なかには川とつながっていないため池にまで遡って棲息する。大型が捕獲できる時期は八月下旬から十一月あたりで、とくに九月から十月中旬は大型クラスが大量にかかることもめずらしくない。これは夏場に餌を食べたカニが、川から海へ繁殖のために下る時期だからだとされている。そのため、成体は春以降から夏の終わりまで淡水域でほとんど捕まらない。穴吹が言ったように、モクズカニは上海カニと同種目なので、カニミソの美味ぶりは、カニのなかでも随一と挙げる者もいるほどだ。
その反面、川特有の泥臭さもあり(捕獲される川の清澄の度合いにもよる)、カニ自体が汚れているので、食すならまずはバケツなどに水を張り、一日数回水替えをおこなって泥を吐かせるべきだ。三日もすれば、ほとんど臭みはなくなるので、そのあと塩茹でにし、腹の『ふんどし』から二つに割って、ミソや身を食べるのがオーソドックスな食べ方だ。
また大量に獲れた場合、郷土料理として『がん汁』という手のこんだものも作ることができる。それがまた、工程がかなり残酷で知られている。生きたままのカニをすり鉢や臼などに放りこみ、すりこぎ棒で殻ごと砕き、すりつぶすという非情っぷり。しばらく棒でグリグリこねくっていると、殻も細かくなり、ミソと肉が混然一体となった灰色のペースト状になる。
これをサラシに包んでしぼり、ろ過すること数回。
カニペーストの分量に対し、約二.五倍の水を三等分にわけて加え、残りカスをきれいに取りのぞき、ほどよい粘性があるのを確認したら鍋に移す。
弱火にかけ、適量の塩や醤油を落とし、かき混ぜる。
沸騰したとたん、カニの蛋白が凝固した雪の結晶のような塊がおどり、驚くほどスープが澄みわたる。
これにネギをくわえてできあがり。
添加物なしの、純然たるカニスープである。これを舌に転がせば、馥郁たる薫りが鼻をつき抜け、フワフワのカニの肉が喉をすべり落ち、胃のなかにおさまると、ほっこりした気分になるみと請け合い。エグ味や臭みがなく、極上のひとときを満喫することができよう。
ちなみに、サワガニが肺気腫や気胸を引き起こす肺吸虫の一種の第二中間宿主となるのと同じく、この三倍体型でヒトでも成熟した成虫にまで発育するベルツ肺吸虫の第二中間宿主となる。くれぐれも料理の際はよく火を通さなければならない。さもないと腹痛の要因となる。
そのときだった。
「肇、慈郎! それ、どこで獲った!」いきなり穴吹の背後で山家が叱責した。パワーショベルそこのけに縁側を音を鳴らしてやってくると、サンダルをつっかけ、肩を怒らせて男どものそばまでやってきた。般若の面をかぶったようなすごい剣幕。
「アカンやろ、あんたら。カニは獲っちゃいかん! まして食べるなど言語道断やないの。……肇、どこで獲ってきた!」
肇は委縮した様子で、神社の上を指さし、「山太郎淵で。カニ獲ったらアカンって初めて聞いた……」と、消え入りそうな声で弁解した。
「まさか、よりによって山太郎淵」山家は頭のてっぺんから声を出し、一瞬白目をむき、うしろへよろめいた。お金の入った封筒と印鑑を手にしたまま放心したような顔をする。「山太郎淵でカニを獲るなんて、罰当たりもいいところじゃない。いますぐ返してきなさい。この恥知らず。いますぐ!」
穴吹は鹿野を横目で見た。鹿野は仲裁に入りかねているので、すかさずあいだに入った。「まあまあ……子供の遊びじゃないですか。情操教育上、幼いうちにこんな遊びを通じて命の尊さや、食のありがたさを学ぶのではないですか。そこまで目くじらを立てなくても……」
山家は落ち着きを取りもどし、「お兄さんにはわかるまいね。寂にはね、昔からカニだけは食べてはいけないことになってるの。それも、神聖なる山太郎淵でそれを生け捕りにするなんて、もってのほかなの」
「幸子さん、それは古い伝説だろ。いまどきそんな話を真に受けるなんて古すぎる。時代はかわっていくんだ」と、鹿野がしゃがれた声で言った。
「やはりカニ」穴吹は眼を細めた。「山太郎淵といい、英雄、山太郎様といい、なにかありますね。ちなみに山太郎って、四国の方でのモクズガニの方言ですよね。カニを獲るのはおろか、食べてはいけない決まりとはいったいどういうわけですか?」
「話せば長い」と、鹿野は制帽をとって、石段を見た。赤と青の幟がはためいていた。さわやかな風が金木犀のかぐわしい香りとともに、庭を吹き抜けていった。「わたしは地元の人間じゃないから、幸子さんみたいに神経質になるのはいかがなものかと思うけどね。幸子さん、明日は祭りだ。せっかくだから、お孫さんと、この兄さんに説明してやったら。後学のためになるんじゃないかね」
肇と慈郎は突っ立ったまま、遮光器土偶のように仁王立ちで固まっている祖母を見た。「教えてよ。明日はなんの祭りなんや。なんでカニを食べたらアカンの」
「そうね。あんたらに、もっと早くから聞かせておくべきだったかも」と、山家は言い、縁側の座布団に腰を落とした。「だったら、お兄さんもついでに聞いておくんなし。これはかれこれ四百年前の、江戸時代初期のころの話なんだけどね」
5
昔々、寂の庄屋、海宝忠右衛門と、その娘、穂波姫は仲のよい親子で、村の人々にも慕われて暮らしていた。母親は穂波姫が三つのときに、流行り病で他界していた。
穂波姫は幼いころから川遊びが好きで、よく友だちとつれ立って、寂の裏山にあるの山太郎淵に涼みに行ったり、川魚を捕えたりしてすごした。
山太郎淵はモクズガニの宝庫で、川底には大きなカニが元気に這いまわっていた。それを手づかみしては遊んでいると、ひときわ大きなカニを見つけた。
まるでヌシのような大きさである。悪戯っ子の少年が捕まえて食べようと言い出し、両手で甲羅を押さえこもうとした。
ところが少年は凶暴なハサミに手をはさまれ、指を切り落としてしまう。大人たちがかけつけてくれ、少年は運ばれていった。
少年の父親が、よくもうちの子の指を落としてくれたなと怒り、石を振りかぶるが、穂波姫はそれを制止させた。もとはと言えば、自分たちが淵のヌシに悪戯し、その報いを受けたのだと。
カニはそのあいだに逃げ、淵の深いところへもぐり、姿をくらませた。
寂のすぐ真下には大勝川が流れていた。当時は川幅も広く、ふだんは穏やかな流れだが、川の勾配が大きく、上流で何か所も狭窄部があることから、ひとたび荒天が重なるとたちまち氾濫し、暴れ川となって人々を震えさせた。
月日が流れ、穂波姫が十六歳になった晩夏のこと。その年は四度も大勝川が暴れ、田畑のみならず家屋まで流され、村の半数近くの人間が犠牲となった。このままでは生活が立ち行かなくなる。
主だった者が集まり、額を突きあわせ話しあった。いくらなんでも年にこれほど川があふれるとは、異常気象以外のなんらかの力が働いているのではないか。
そんなとき、寂に旅の山伏が立ち寄った。いかがわしいその山伏は霊媒ができるというふれこみなので、ためしに見てもらったところ、「川に黒い影が動いておるのが見える。今年はなにか不服があるらしく荒れておるのだ。これを鎮めるには、人身御供をさし出さねば収まりがつくまい」と、言った。
それもできるだけ生娘がいいということなので、嫁入りまえの娘をもつ父親が集まり、公正に籤を引いて決めることにしたところ、あろうことか忠右衛門が当たり籤を引いてしまう。
絶望にくずおれる両親。一度決まったことは覆るはずもない。泣く泣く穂波姫をさし出すしかなかった……。
大勝川の大曲と呼ばれるもっとも曲線のきつい内側の白浜には、小さな社が設置されていた。対岸は暴れ川となったとき、もっとも決壊しやすい難所であるため、鎮めの意味で庄屋が資金を投じて設けたものだった。
上弦の月が照らす亥の上刻(午後九時ごろ)、穂波姫は供え物とともに社のなかに置き去りにされた。
すると深夜、にわかに社の外が騒がしくなった。姫が障子の穴から覗くと、得体の知れない黒々としたものが川をのたくっているのが見えた。しかも神社のそばに据えた磐座なみの巨体。
黒い物体は、直接脳に届く霊妙な声で、穂波姫に語りかけた。「穂波姫よ、出てまいれ。そして川べりまで近う寄れ」それは凄味をおびた低音の声で、有無を言わさぬ魔性じみた牽引力があり、とうてい抗えなかった。
姫が恐る恐る近づくと、黒い物体の正体が明らかになった。巨体であるため、水面から半分以上をさらし、影絵となっていたが全体像がつかめた。
それは巨大なニゴイであった。丸々と肥り、月明かりに照らされた巨体は銀色に怪しく光らせてのた打ち、ひげをそなえた口をパクパク喘がせ、ぎろりとした眼をむいて姫を求めた。川は荒れに荒れた。
「早う、こっちへまいれ。待ち侘びたぞ、穂波姫。おまえのような活きのよい娘を食べることができれば、わしの狂えるごとき憤怒も抑えることができよう。それのみならず、おまえのような生娘を体内に取りこめば、向こう十年は元気に生きられるというもの」
巨鯉がおどりかかろうとしたとき、思わず穂波姫は腕で顔を覆った。もはやこれまで、と思ったら、突如、川上から水しぶきをあげて、黒々とした疾風が走り抜けた。
これも巨大ななにかが、ニゴイに襲いかかり、目の下のエラに鋭い武器を突き立てた。まるで槍を打ち込んだかのように。
それは藻で覆われたハサミ脚。ハサミの先端をニゴイの急所に埋没させ、川のなかへぐいぐい押しつけていた。穂波姫はなにごとかと思い、眼をこらした。
なんと巨大なモクズガニがニゴイと格闘しているのだ。ニゴイは激しくもがき、巨体を波打たせ、カニの力を跳ね返そうとした。尾びれでカニの甲羅を打ちつけ、ひるんだ隙にコイは離れた。
負けじとカニは追いすがる。川の水が激しく波しぶきをあげる。ニゴイにとって本来、モクズガニは大好物の獲物。とはいえ、相手はいささか大きすぎるうえ、硬い外皮のため噛み砕くことも至難の業のはず。
そこでコイは甲羅に体当たりし、川底にぶつけた。あわよくば岩場に激突した衝撃でその外殻を破壊し、少しでも柔い肉の部分が露出したなら、そこから食い破ってやろうという意気ごみであろう。
しかしながらカニは巨大であり、あまりにも鉄壁を誇った。逆にまたぞろハサミに首根っこを挟まれ、万事休す。ゴキリと音を立てて、コイの首をひねった。コイはしばらく虫の息で暴れていたが、そのうち抵抗はやんだ。
カニはその後、コイの死骸をハサミにより、頭と胴体、尾びれと三つに両断した。そのあと穂波姫に優しく語りかけた。「これでおまえの受難は避けられた。暴れ川を牛耳っていたコイはこのとおり成敗してくれたわ。よく聞け、姫よ。このことを村に帰って、みんなに伝えるがよい」と、言った。カニが言づけたことは以下のとおりになる。
三つに分断したコイの死骸はそれぞれ離れたところに首塚、胴塚、ひれ塚として支解分葬すること。そうすれば呪いは分散される。その後ねんごろに弔い、毎年の今日の日に祭礼をして慰めてやれという。それにより、今後、寂からは人身御供を供さなくても、暴れ川は抑えられるであろう。人の命は、なにかの都合で失われるべきではない、と諭した。
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「そんなことがあってね、悪いコイを退治し、穂波姫を救ったカニは英雄と見なされたのよ。だから、その末裔であるモクズガニを食べるのはいけないってわけ。これはあたしだけの考えだけじゃないの。寂のおおかたの住人がそう思ってるはずよ」と、山家幸子は言った。「姫の命を助けたんだから、カニはありがたい存在でしょ。そのまま生贄にされてたら、その一族も絶えてたかも。そういうわけだから、肇と慈郎はすぐ山太郎淵へ返してあげなさい」
「なるほど、カニが英雄視される背景には、そんな言い伝えがあったとは」と、穴吹は感心したように言った。
「それなら、もっと早く言ってよ」と、肇は眉根を寄せて言った。「知ってたら生け捕りなんかしなかったのに」
慈郎もうめき声をあげて賛同した。「あぶな。もうちょっとで煮て食べちゃうとこだったじゃん。そんなかっこいい話あるなら、早く言ってよ。兄ちゃん、すぐ川へ返しにいこ」
「だよな。こんなこと、学校で知れたら笑われちゃうよ。よし慈郎、極秘ミッションだ」と、肇は言い、カニ網を抱えて、弟といっしょにプリウスの横を通り、もと来た道を引き返していった。
「……まあ、そういうこった。寂の人間がカニを食べない理由っていうのは」と、鹿野は腰に手をあてて伸びをしながら言った。「なにも寂だけが特別じゃあない。世の中にはウナギを食べない地区や、キュウリだけは栽培してはならないってとこもある。みんなそれぞれ昔から言い伝えが残されてて、現在でもその禁止を守ってる人はいるってことだ」
「へえ。いまどきウナギは稀少だし高価だからわかるとして、キュウリがダメとか、そんなエリアもあるんですか」
「おれは古くさい迷信を信じるのも、いかがなものかと思うタチだがね。人間はまえを向いて歩くべきだと思うよ。いつまでも過去のことにとらわれてる場合じゃない」と、鹿野はしかつめらしく言い、立ち去りかけた。「ほな、山家さん、そろそろ行くわ。こちとら、いつまでも油売ってる場合じゃないのよ。郵便物の集荷もやんなくちゃいけないし」
「古くさいとは失礼ね。山太郎様は忘れまじ寂の歴史よ。寂の住人たるもの、やはりカニを獲ったり、まして食べたりするなんてご法度なの。これはいまさら覆りようのない事実なのよ」
「さようでっか。だったら、明日の山太郎様によろしゅう。兄さんも気ぃつけて帰りや」鹿野はうんざりした様子で坂をくだっていった。
穴吹はふしぎな面持ちで聞いていたが、これ以上長居しても埒が明かないと思い、そろそろ腰を浮かせたときだった。鹿野と入れ替わり軽トラが山家の家の坂をのぼってきて、ハイブリッド車の尻に停まった。抜けるに抜けられない事態になった……。
軽トラからは二人の男が出てきた。運転していたのは頭頂の薄い、むっつりとした表情の男で、にらみつけるように穴吹と車を見比べている。
助手席から転がり落ちるように降りたのは、みごとな白髪を肩まで伸ばし、レイバンのサングラスをかけ、すねたように下唇を突き出し、やさぐれたような顔つきの痩せた老人だった。お世辞にもまっとうな人物には見えない。群れからはぐれた、いじけたハゲタカを思わせた。
「ああ、ウチの人が帰ってきた。裕信っていうんだけど、地元じゃ不良老人で通ってて」と、山家は小声で言った。
「車、邪魔になりますかね? なんでしたら、そろそろお暇しましょうか」
「いいよ、せっかく茶菓子出してるんだから、最後まで食べてって。あたしゃ、その間、買ったばかりのサプリメントと嵐のDVD、旦那に見つからないように隠すから。ブツは隠蔽せねば」と言って腰を浮かせた。
「この車、あんたのか? こんな田舎くんだりまで押し売りか。まさか母さんに、よけいなもの売りつけてないだろうな」と、むっつりした男が言った。息子の雄輔だろう。「おれの貯金からくすねて高額のサプリメント、買わされた前科があるんだ」
「よけいなものだなんて、とんでもない」と、穴吹は手を振った。
「この兄さんは迷子になって、ここで道を聞いてただけだよ。押し売りだなんて人聞きの悪い。それより寄合はどうだったね。ぶじ祭礼の準備はできたのかい? そのわりにはお早いご帰還だね」と、あわててもどってきた山家がすかさず助け舟を出した。
雄輔は背後の老人を親指でさした。老人の顔は赤く、メトロームのように身体が左右に揺れておぼつかず、ぶつぶつと管を巻いていた。
「見りゃわかる。準備してるはたから飲んでばかりで、すっかりできあがっちまった。みんなに迷惑かけるんで、先に追い出してきたんだ。これだから親父は使い物にならん」
「バカタレ、保身ばかり気にしおってからに。いまどき雁首そろえて山太郎様などとあがめるたあ、寂の人間は頭が硬すぎて、ちゃんちゃらおかしいわ」と、裕信は呂律の回らぬ口調で言った。「よくまあ、世間知らずどもは江戸時代からこんな祭りを続けてきたもんだ。なにが英雄、山太郎様だい。たんなるカニじゃねえか。おれに言わせると、奴らは気味が悪いったらありゃしないんだ。だってカニだぞ、カニ、カニ、ズガニ」裕信は赤い顔をして吐き捨てると、穴吹の顔を間近で見て、「ところで、おたくさんはなんなのよ。NASAから使いでやってきたってか? まさかおれをNASAに連行して、宇宙まで追っ払うつもりじゃなかろうな。ICBMにくくりつけて」と、縁側に両手をつき、酒臭い息を吹きかけた。まるで支離滅裂だ。
「こんなに泥酔しちゃって。さっさと横になって酔いをさましなさいよ。昼すぎまで起きてこなくてけっこう」と、山家幸子は裕信の尻をぴしゃりと叩いた。「なんなら、さっさと永遠の眠りについて、たんまり保険金に化けてくれておくれよ」
「人を札束に見るたあ、不謹慎な嫁だな、おい」裕信は尻を振りながら言った。「だったら兄ちゃん、ちょっくらどいておくんなし。夢のなかでNASAへ行ってきますから」裕信は穴吹に寄りかかりながらサンダルを脱ぎ捨てると、ハイハイしながら縁側を横切り、和室に入り、力尽きたようにひっくり返った。サングラスをかけたまま、ものの五秒とかからず鼾をかきはじめた。
「豪快な旦那さんですね」
「……で、あんたはどこへ行くの。えらくご大層な恰好してるが」と、雄輔は作業着のポケットから煙草を取り出しながら言った。「寂の奥へ行ってもムダだよ。これから先は集落はない。行き止まりだ。早いとこ、もと来た道を引き返した方がいいな」
「いえ、さっきまでその英雄、山太郎様って伝説をおばさんから聞いてたんです。この村には、おもしろい話が残されていたんですね。明日の祭りはそれに関することなんでしょ。さすがに祭りには参加できないけど、一度見てみたいなあと思って」
「山太郎様の伝説か」雄輔は一服しながら遠くを見た。「伝説なんてものは人づてに伝わるうちに、都合よく作り替えられていくもんだ。史実とはかぎらない」
「あきれた。長年ここに住んでるおまえまで疑うのかい」と、山家は大きくため息をついた。「やれやれだね。先祖に対する敬いがたりない」
「かれこれ二十年もまえの話だ」と、雄輔は苦々しげに煙を吐いた。「どっかの大学から民俗学だか考古学だか知らんが、学者の若い連中が押しかけてきて、さんざん村の人間をつかまえては聞きこみをして迷惑したもんだ。で、奴らはこの伝説には、隠喩がからんでいるとかなんとか言ってたのを憶えてる」
「隠喩」
「学者の卵どもはああでもない、こうでもないと議論したあげく、こうまとめた。――ニゴイは昔からこのへんに根をおろし、中央に従わない者だった。土着のまつろわぬ民ではなかったのか。それを大和朝廷から征伐しにやってきた甲冑姿の武者がカニと形容され、たがいに戦った結果、まつろわぬ民を破ったので、朝廷の使いは英雄視されたのではないかと結論づけていた」
穴吹は感嘆の声をあげた。「なるほど、カニのゴツゴツした姿は武装した武者だったとは」
「してみると、ハサミにびっしりと毛に覆われた描写も、たんに体毛の濃い人物だったかもしれん。あるいは立派な髭をたくわえていたのかもしれない。伝説や昔話を分解し、解釈しなおすと、こんなカラクリになってるものらしい」
「ナンセンスだわ」と、山家はあきれたように言った。「なんでまわりくどく、そんな形で伝説をゆがめるかね。巨大な悪のニゴイを、これも巨大なモクズガニが倒した。そのまま捉えていいじゃない」
雄輔は歯をむき出しにし、皮肉っぽい笑みを浮かべた。母を無視して、「穂波姫の『穂波』とは、『一面に広がる稲穂が風に揺れる様子』を意味するそうだ。つまり稲を表す。これは名前のまんまだからわかりやすい。ちなみにヤマタノオロチに食われかけるクシナダヒメは漢字表記だと、奇妙な稲、田んぼの姫と書いて『奇稲田姫』(日本書紀の場合)。つまり『稲の実る田』だな。ヤマタノオロチは本来、水の神と見なされ、伝承どおり出雲の斐伊川そのものを表すとか。田に水を引き入れ、豊かな実りを実現させるが、時として洪水となって水田を破壊することもあった。すなわち、穂波姫とモクズガニとニゴイの関係もこんなところから推し量ることができるということだ。おれも、この学説には目からウロコの思いがした」
「なるほど。みごとな推理ですね」
「寂という村の名前も『堰を切る』の『堰』からの転訛ではないかとも言われている。つまり水をせき止めるという役割を負っていたのではないかとね。たしかにこの集落の下流にもいくつか集落があり、水害の防波堤みたいなポイントだったのかもしれん。なんらかの事情があったらしく、下流の村に蔑まれていたとも言われているから、あながち間違っていないと思う」
「蔑まれてるだなんて、滅多なこと言うもんじゃないよ」と、山家は口をはさんだが、ずいぶんと弱気だ。
「それと穂波姫が生贄にされかけたということも、かかわりがあるのかもしれませんね」
さっきまで寝息を立てていた裕信がいきなり寝返りを打った。横向きの姿勢のまま、大あくびをもらした。「おたくら、ちと物事を難しく考えすぎだわな。物事ってなあ、複雑そうに見えて、じつは単純明快だったりするもんだ。かえって裏を読んだつもりで失敗することも多いんだぜ」と言い、一発放屁した。
「早いお目覚めだこと。……なんだい、聞いてたのかい」
「起きてたもなにも、おたくらがワイワイガヤガヤしてるそばで安眠できっか。……いんや、違うよ。そんな取ってつけたような理由から、カニを食わなくなったわけじゃねえ。なにが英雄の末裔なもんか。たんに気味が悪いから食わねえように決めただけじゃねえか」
「なぜカニは気味が悪いんです。無機質な姿からそう思うんですか。それとも過去に、村の誰かがアレルギーで苦しんだことがあるとか」と、穴吹は裕信の方に向きなおった。
「親父は黙っとれい」と、雄輔がむっつり顔で言った。「まだ酔ってるんだ。言うことがあてになるか。おとなしく奥にすっこんでろ」
「もうさめちまったわ。よっこらせい」裕信は反動をつけて半身を起こした。逆立った白髪の乱れもなおさず、サングラスもかけたまま言った。「寂じゃ、ご大層な理由が必要だったんだよ。大義名分って奴だな。つまりカニを避けるための」
「大義名分?」
「だいぶ昔の話だ。寂で村八分にされた男がいた。はっきりとした理由はわからん。もしかしたら誰かと道ならぬ恋仲になったのかもしれんし、誰かを殺したのかもしれん。あるいは盗ってはならないものを盗ったのかも。たとえば神社のご神体だとか、なにかそういったものをだ。とにかく男は、村人に殴る蹴るのリンチをうけ、山太郎淵に投げ入れられた。あるいは別の説だと、私刑を受けた腹いせに、淵へ自分から身を投げて自殺したとも言われてる。おれの祖父の代から聞いた裏話だ」
「ちょっと待った」と、山家は手で制した。「村八分にされた男を山太郎淵に投げ入れただって? 寂の真上にある水源なんだよ。それはありえない」
「また聞きだから、詳しい正確な話は知らん。だが祖父たちのあいだでひそかに伝えられてきた。なにせ寂の恥部だから、おおっぴらにはできん。だからこそ真実だと、おれはにらんでるわけよ」
息子が皮肉っぽく笑った。「眉唾ものだな。そりゃ初耳だ」
「続きをちゃんと聞け。終わりまで聞いてからとっくり判断しろい」と、裕信は声を荒げた。「どっちにしろ、村八分された男の遺体に、モクズガニの群れがたかった。カニはゆっくり時間をかけて人間さまの身体を食べ尽してしまったのさ。川のものも、海のカニもそうだが、甲殻類は水んなかで、なに食べてるか知れたもんじゃねえぞ。おとなしそうにヘルシーな水草や藻ばかり、ムシャムシャ食べてるわけじゃあるまいし。じっさいは動物の死体が流れてきて、水底に沈んだ場合、たちまちカニのご馳走になるんだ。海底に沈んだクジラの遺骸に、ズワイガニが山となって群がってるのを見ちまった日にゃあ、おまえ、カニなんか食えなくなっちまうぞ。ましてや寂じゃ、人間さまときたもんだ」
「おおこわ」と、山家は眼をむいてのけ反った。
「それで人間さまの、ましてや村八分にされた男の肉を食べて丸々肥ったカニを食べるべきではないと、長老からお触れが出た。そんなものを食べた日にゃ験が悪くなっからよ。これが真相だ。寂でカニを獲るだけじゃなし、食べるのも禁止されているってのは」
穴吹は湯呑を持ったまま、茫然たる面持ちで聞いていた。寂の斜面の下を流れる大勝川の流れを眺めた。
そろそろ家に帰ろうと思い、尻を浮かせたいのだが、根が張ったように座布団から離れられなかった。
了