始まりの始まり 1
「ではここで与えられたX方向にエネルギーをaとするとY方向に向かうエネルギーのベクトルはどの様になるかは……お分かりになるようですね」
ダワイラ・マケイは目の前の7歳の少年にいつものことながら驚かされていた。
彼の先任の理科教師からも少年が類稀なる理解力の持ち主だとは聞いていたが、初歩的な物理学の入口を既にマスターしようとしているその姿には少しの恐怖と安心感を感じていた。
「先生。この時の重力の係数は地球のものを使うのでしょうか、それとも遼州のものを使うのでしょうか」
「そこまで求めてはいませんよ。実際両者の係数は誤差の範囲ですから」
「ですが、それでは正確な値は出せませんよ」
少年の真摯な問いにダワイラは再び胸を突かれた。
遼南帝国次期皇帝。東宮とされた少年とは言え、ダワイラもその生活には同情を覚えるしかなかった。ここ兼州、北離宮で少年ムジャンタ・ラスコーは一人勉学の日々を過ごしていた。
帝王学を授ける。現皇帝で遼南中興の祖とも言える女帝ムジャンタ・ラスバの孫はその為にまるで幽閉されているような日々を送っていた。
彼と言葉を交わすのはダワイラを始め家庭教師に任命された学者が十数名。女官と警備の兵は合わせて百人ほどいるが、誰も必要以上の口をきくことを女帝から禁じられていた。
今日も離宮を祖母が訪れているというのにラスコーは十二時からの会食の間、一時間ほど席を共にする他は彼に好意を持つ人物との謁見の予定もなかった。
「ところで殿下」
ラスコーの数式がダワイラの正解と一致していることを確認すると、話題を変えてみることにした。
「祖母の……帝のことでしょうか?」
どこまでも察しがいい。ダワイラは笑顔を浮かべたままラスコーにノートを手渡した。
「こうして同じ離宮にいらっしゃるのに一日顔を合わせるのが一時間。それも今日は胡州宰相西園寺重基公などの諸外国の方と同席で肉親水入らずの顔合わせも無し。そんな……」
「ダワイラ先生はここに来て何ヶ月になりますか?」
自分の思いを口にしようとして年端も行かぬ少年に宥め賺すかされようとはダワイラも思ってもいなかった。
「殿下……それがムジャンタ家の流儀だと言うのですか?」
「まあそんなものです。父上のようにはなるなと帝もおっしゃっておりましたから」
少し諦めの境地にでも達したように幼い眉が揺れる。ダワイラは何も言葉も継げづに黙り込んだ。
「先生は子供は子供らしく外で元気に遊べとかおっしゃるんでしょ?それとも友達を作れとおっしゃるのでしょうか?でもどちらも帝のご意志に反することになります。父上が東宮を廃され庶民として宮殿に幽閉されているのはご存知でしょう。私はそうなる訳には行かないんです……」
無理を言っている。ダワイラは少年の引き吊った口元、シワの寄った眉間で少年の言葉の少年らしくない嘘を見抜いていた。