狐の秘密
「知ってます?夫婦関係を長く保つコツ」
いつもは騒がしいほど賑っている学園食堂。特に今日は生徒会や学園の人気者のメンバーがとある転入生に引き連れられて来ているので黄色い悲鳴や罵倒、怨嗟の言葉が渦巻く蠱毒の坩堝となっている。筈であった。いや、つい数刻前までは確かにそうだった。
けれど今、恨みや妬みといった負の感情はどこからも飛ばず、ただただ件の転入生と対峙する人物へと目が、耳が向けられている。
「どんな小さな事でもいい、ちょっとした秘密を持っておく事。だそうですよ」
「そんなのおかしい!夫婦ならかくしごとなんかしちゃダメだろ!」
身動ぎの音一つ立てるのでさえ気が咎める空気の中、ぼさぼさの髪に分厚いメガネを掛けた不潔らしい生徒が声量を気にしないキンキンと響く声を上げる。
「そうですか?」
言葉を受けたのは一人の、おそらくこの学園の生徒。制服を着ているので生徒だと推察されるがひたすらに静かな佇まいからは異様さが立ちのぼる。加え、制服の上へ羽織る紅い打ち掛けと白い狐の面が寧ろ人かどうかすら曖昧にさせ現実味が無い。
未だ何かしら叫ぼうとする声を押さえ込むように、面越しにくぐもった声が続けられる。
「少しくらいミステリアスな方が刺激的でしょう?」
水面を震わす蠱惑的に響く声に相対する転入生とその取り巻きは息を飲み言葉を詰まらせる。場は既にこの一匹の狐にのみ掌握されていた。
「友人関係もそうだと思いませんか?」
狐がふわりと着物を翻し大仰に語る。
「貴方が私を友人だとおっしゃるなら私の正体は」
やおらお面に手を掛け上にずらし、現れた唇にそっと人差し指を置くと小首を傾げる。
「秘密です」
吐息と共に吐き出された言葉は聞いた者たちをその場に縫い止めた。緩く上げられた口角の横、白い肌にぽつんとあるホクロが艶かしさを引き立たせ、彼等を魅了する。誰かの喉の鳴る音が静かな食堂に響いた。
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「なんであんな事したの」
怒りを滲ませて掛けられた声にえ?と振り返る少年。手にはタオルと先程まで学園の生徒達を魅了した狐の面。
「撹乱用にホクロ見せるって作戦。だったよ、な?」
何か間違えたかと首を捻れば尋ねた方の少年が可愛らしい顔に合わず鋭く目を吊り上げた。
濡れた顔をタオルで拭うその唇の横に、先ほどまで人々を魅了したホクロは無い。たいして特徴の無い、極普通の顔をした少年は、学園を滅茶苦茶にしている転入生とその取り巻き達に対抗する小さな組織の一員で。そしてキャンキャンとその少年に噛み付く方もまたその一人。
少人数ながら確実に追い詰めてくるこの組織に最近漸く危機感を覚えた転入生及び取り巻き達が自分等を探り回る奴等を探し出せ!と躍起になって嗅ぎ回っているのを知り、分かり易い目印見せときゃ直ぐそれに飛び付いて騙されるだろうと立てられたこの計画。それを実行したまでだと言う狐に少年は深々と溜め息を吐いた。
「だからってあの見せかたはどーかとおもうよ」
「なんか変だった?怪しい人物って設定だからそれっぽくしてみたんだけど」
「……たしかに妖しかったけどさぁ」
何を怒っているのか分からずハテナを飛ばす狐に嗜める口調で少年が言い聞かせる。
「あーゆうのは危ないからやっちゃダメ」
その声色で、何がどう危ないのかは理解できていないが心配を掛けたのだという事を漸く察した狐は、プンプンと頬を膨らませる愛らしい少年に手を合わせて謝った。
「ごめん、ありがとう」
「あんまわかってないでしょ。……もういいよ、ぼくは。だからそっち、どうにかしてよ」
そっち、と指を指された先にはソファにだらしなく腰掛けたままキーボードを叩く、何やら不機嫌な少年が一人。狐の相棒様である。ムッスリと額にシワを寄せたまま黙り込み、帰ってきてから一度も狐の少年を見ようともしない。
「……なんでそんなに機嫌わりぃの?」
「…………」
無視ですか。そうですか。
そう呟いた狐は困って傍らの少年に目をやる。するとやれやれと肩を竦められ、尚更困ってしまった。
「ソイツ王道くん達にヒミツ作ったことすねてんだよ」
「……おい」
「?あいつ等には寧ろ秘密な事しかなくね?」
「……自分でゆったことも忘れたの?」
言った事?と呟きながら視線を虚空にさ迷わせる狐に少年が呆れ始めた頃ようやっと思い至る。
「あぁ、秘密云々って言うか友人関係がどうてろ的な?」
「ちょっとチガウけどそう」
「え~?」
さっさとなんとかしてよね、と背中をバシリと叩いた少年は、二人きりにするなという狐の視線を無視してキッチンへ引っ込んで行った。その背中を恨めしく見送った狐は、しかし相棒を放って逃げる事もできず。相変わらず険しい顔をする彼の傍へそろそろと近寄った。
「なぁ」
「………」
「……なぁ」
弱りつつも機嫌を直してほしくて狐は相棒に声を掛ける。けれど尽く無視をされ、無い尻尾が垂れんばかりに落ち込む。どうしようかと困った狐は暫く迷った後、相棒の隣に座りその肩口に頭を擦り寄せた。
ぐりぐり
すりすり
「……猫かお前は」
「にゃー」
「ばーか」
「いって!」
叩かれた額を擦り、痛みで涙目になりながらもやっと反応を返した相棒に狐はふにゃふにゃと笑顔を向ける。その様子に溜め息を吐いて苦笑した相棒が狐の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた後、言い難そうに口を開いた。
「……ちょっとばかし、面白くなかっただけだ」
「何が?」
「俺は、お前の正体知ってるし、成績やら家の事やらも、色々知ってるし」
「情報屋だもんな、お前」
成績の記憶は消しとけと狐がぺしり頭を叩く。その手を払って目を逸らし相棒は話を続けた。
「お前とは同室だし、何でも話してるし、よく見てるし、お互い遠慮も何も無いし、なぁ」
「良いじゃん。それで。」
「……でもなんかつまらん」
普段に無い子供っぽい態度の相棒に瞬く狐。それを見ながら改めて転入生へ言った台詞を思い返し、途端むず痒い気分になる。そんなぐるぐると気恥ずかしい腹の内をどうにか押し込み、拗ねた様子の相棒を宥めに掛かった。
「あんなんうざい質問攻め止めさせる為にうちのばーさまが言ってた事適当に出しただけだし」
散らばりまくるヤツの気を引くには使っただけだと言い含めながら。それに、と狐はちょっと緊張した面持ちで付け加えた。
「お前も、絶対知らないような秘密にしてる事、あるし」
「……何」
視線をさ迷わし言い淀む狐の顔を相棒が覗き込む。今更距離が近い事を意識した狐が身動ぎをするのを、逃げるのは許さないとばかりに相棒が詰め寄った。
鋭く研ぎ澄まされた視線に、全て見透かされるのではないかと焦った狐が一言。
「……ないしょ」
さっきと同じように口に指を持って笑ってみせるが、それにはあの妖艶さは無く。悪戯っぽいただの恥ずかしがりやな少年の笑みだった。
どうしても、冗談めかしてでも言えない秘密は、それこそ一生言えないと狐は胸にし舞い込む。
願わくはこの大切な相棒との関係が、末長く続きますように。
自分の気持ちを隠すのにいっぱいいっぱいな狐は、赤く染まる頬と少し潤んだ瞳を見た相棒が真っ赤になっていた事に気付かず二人揃って俯いて、夕食を作り終えた少年が咳払いの音を立てるまで動けなかった。
二人が共通して持っている秘密を話す日は、そう遠くないかもしれない。
『狐の秘密』
『隠れきれない恋心』