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冷戦、という言葉は今でも世界の人々に知られる。旧ソ連とアメリカという大国が、戦争という表面的な対決ではなく海面下で戦闘を繰り広げた、かの有名な対決である。CIA、KGBの諜報合戦が繰り広げられ、冷戦が終結した今でもなおCIAはその存在を主張し、わずかな予算の中で現代に生き残っていた。冷戦の化石と言われるほどに堕ちた彼らは、再び息を吹きかえそうと躍起になっていた。諜報合戦は影をひそめ、その代わりに情報諜報合戦が繰り広げられている事が現代に生きる人のどれだけ知っているだろうか。
今日、表の世界では大統領がソマリアでの紛争に触れ、平和と自由の大切さを雄弁にして語り、受け入れられ、国民に拍手を送られる。そして大統領のパフォーマンスが全米で放映されている間にも、世界のどこかで血に塗れた戦闘が絶えずして続いている。
アメリカがソマリアへと言及する原因はソマリアで起こった出来事にあった。元々その地はイギリスの植民地だった。しかし、ソマリランド共和国として独立宣言をしてからは内戦が続き、それから多くの犠牲を払いながらも、ソマリアにはソマリア再解放連盟(ARS)が発足し、指導者であるシェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドの大統領就任、オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを中心とする内閣が小さな平和を維持していた。
しかし、去年。イスラム法廷会議アル・シャバブ派による大統領襲撃により、その平和は切って落とされた。大統領は公開処刑され、イスラム法廷会議アル・シャバブ派勢力が再び独立を宣言。その難からエチオピアへと逃げおおせたシェルマルケが、国際連合にPKO部隊の派遣を要請した。
そういった経緯は、かつてアメリカの自信を見事に挫いた状況と似ている。一九九一年のモガディシュの戦闘の記憶をよみがえらせるような状況に、アメリカ全土に緊張が走る。かつて、目的は達成したものの、多くの犠牲を払わざるを得なかった戦いが再び起こるというのだ。政府はこの件に関し、軍事力を投入する事を嫌がった。近く大統領選挙が待ち構えている。この件で軍隊をソマリアに送り込めば、国民の不満を買って選挙で勝てなくなるだろう。だから大統領は介入についての言及は避けている。何より、ソマリア内戦介入から撤退したアメリカがもう一度介入するという事さえ外交関係に支障をきたす可能性があるのに、それに加えて配属を喫する事となれば面目丸つぶれとなるに違いない。だから、アメリカは自分たちで戦う事をやめた。何も戦争は物理的な戦闘だけではないのだから。
《君たちは、これまで多くの苦痛と悲しみを味わってきた。不必要な戦闘によって亡くなった者も、不遇な環境によって亡くなった者もいるだろう。しかし、君たちはここにいる。我々と共に、戦うための意志、身体、武器、情報、を持っている。それが何を意味するのか、君たちならわかるだろう。我々を仲間だと思わなくても構わない。手段だと割り切ってくれても。しかし、君たちはその手段によって、勝利を手にすることが出来る時に巡り合えたのだという事を理解してもらいたい》
イヤホンの向こう、上官殿の力強い声が聞こえる。その声音からは凛然とした意志と、緊張が感じ取れる。上官を前にした兵士たちも同じ気持ちなのだろう。と、ぼんやり考えながら私は缶からタバコ(ピース)を取り出し、口にくわえた。
《君達は、生きて還る》
もし、私に向かって言っていたなら意味が異なっていただろう。生かして還せ、と。
「ごくろーなこって」
マッチの擦る音とともに燃え上がる火。熱が私の顔をほてらせ、やがて静かに消えていく。最初の一服目が肝心だ。その時の味が美味いか不味いかで今日の気分が分かる。今日のタバコ(ピース)は最高に不味い。くそったれ。
私はブリーフィングルームの盗み聞きに飽きて、チャンネルを変えた。盗み聞きしようと思ったのもただの思いつきではあったが、もう二度としない。タバコが不味くなる。
私は暇になってあるお気に入りのサイトを開いた。別にどうってことの無い、無料動画掲示板、youtubeである。そこで、ジョン・F・ケネディの暗殺シーンを繰り返し垂れ流し、その解説する男の声に耳を傾けていた。
「よお、相棒。こんなの見て楽しいか」
と、彼は言う。その姿は見えず、聞こえるのは音声だけ。抑揚のついた滑らかな合成音が、十代そこいらの男の若者の声で語りかけてくる。
「楽しくないな。暇つぶしさ」
私はタバコ(ピース)を吸う。赤く燃える色が一際明るくなった。
「よお、相棒。なんだってそんな苦い顔をしているのさ」
「タバコが不味いからさ」
「そんなもん、やめちまえ。体に毒だ」
「吸わなきゃやってらんないさ。これが俺の唯一の報酬なんだ。楽しみを自ら捨てるほど阿呆じゃない」
「毒だと分かっていて吸う。人間ってのは、時に矛盾した行為に走る。それが俺にはよく分からんのさ。なんだって自分の命の危険を冒してまで、楽しみを得たいのかね」
私はタバコ(ピース)をもみ消した。
「そんな事を私に訊かれてもな。答えられる事と言えば、私達は死という言葉を知っているだけで、死そのものを知っているわけじゃない、という事だけだ」
「それが、タバコを吸う理由か?」
「死なんてものは結局、差し迫った時に感じるもんだ。それか頭がおかしくなってしまった時か。どちらにしても、今の俺はそういった状況にないから死というものを感じる事が出来ない。だから、やりたい事をやる」
「死を感じないから、ね。その行為の延長線上に死があるとしてもかい」
「じゃなきゃ、タバコなんて吸わずに健康食品でも食ってるだろうさ」
「戦争も、そうなのか?」
私は思わず目を細めた。彼の意図が読み取れなかったからだ。
「人間は戦争を起こす。単独的な生存本能から来る闘争から、組織的な闘争へ変わり、やがては『国』という巨大な組織との闘争へと変化してきた。そうやって変化していく度にヒトという生物は進化し、知的になり、生存本能とは別の理由で戦争をし始めた。資源、国土、政治、権利、理由はどんどんと増えていく。その過程で生存本能とは関係なくなっていった。命を守るための闘争が、今では奪うための闘争になり始めている。なぁ、相棒。俺には分からないんだ。何故ヒトは自分の命が確保されている状態でも、命を費やすような行為に走るのか」
「感傷、か? 何か重大な事を始める時、その行為の意味を考えるのは人間の癖ってものだ。お前は人間じゃないが。そういったものは、哲学者にでも考えさせればいい。意味なんて考えたって仕方がないのさ。結局は結果が全てを決める、それが現実ってやつなんだから」
「……そうか」
私は逃げた。彼の問いに、真正面からぶつかる事を避けたのだ。だが、現実を見てみれば全てが結果で成り立っているのには間違いは無い。戦う意味、理由を考えているだけでは何も変わりはしない、守れはしない。だからヒトというのは行動を起こす。言葉だけを並べて争いが消えるのなら、私達はここまで生きる理由だったり、戦う事の意味は考えなかっただろう。
私も彼も、黙り込んだ。そんな重苦しい空気を断ち切るように、ピ、とPC画面の右端のタイマーが走り始めた。
「始まった……」
そのタイマーは作戦開始の合図だった。これから行われる、極秘任務の。
「まるで、ゲームを始めるような気分だ」
言葉が、自然とこぼれた。
「俺にとっちゃ、全部がゲームのような気分だ」
彼は静かにそういった。まるで、私を戒めるような声音だった。
「俺には、相棒たちの言う現実感ってのが無い。俺にとってこの世界が現実なんだろうけど、何から何まで遊びの様な気がしてならない。相棒たちが日常を満喫している時も、相棒たちが必死こいて作戦を遂行している時も、俺にはまるでゲームのような気がしてならないんだよ」
「感情を司るニューラルネットワークを持ち合わせてないからだろう。気にする必要はない。お前はお前のやりたいようにすればいい」
「俺のやりたい事、ねぇ。……無いな、今は」
それが彼の答えだった。だがそれは私も同じだった。今、自分のやりたい事はと訊かれれば私も彼と同じ返事を返していただろう。そう、今は。かつては熱中したハッキングも今ではさも当然のごとく使いこなせる。成長する度、私はハッキングへの興味の熱をどんどん失っていった。
何かを得るたびに、何かを失っていった。得ようと必死になっている時は楽しくて周りになんて見えやしないが、得てしまえばそれで終わりだった。特に、ハッキングなんてものは趣味の範囲でやっていれば尚更のことだった。ワード自体は悪い意味じゃないし、正当な利用であれば問題なんてない。しかし、それでは退屈過ぎた。他の趣味、例えば音楽であったり、本を読むだったり……正当でありきたりな趣味ならこんなに窮屈な思いはしなかっただろうに。
「相棒はよぉ、在るんじゃないか? やりたい事」
「いいや、私もお前と同じ回答だ。昔は……それなりにあったんだがな」
「ハッキング技術……だろ。でなきゃ、こんな所にいないだろう」
私は肩を竦めて返事してやった。
「遊びが過ぎるってのは、こう言う時に言うんだろう?」
「……まぁ、な」
彼の言っている事は真実だった。私はこれまで、幾度となくハッキングをしてきた。最初は悪戯のつもりだった。それが、知識や技術力を蓄えていくうちに、そりゃあもう大きな企業やら機関やらへとアクセスしていったもんだった。今思えば、若かったのだろう。IPアドレスをかっさらってしまえば私は誰にでもなれたし、ハッキング対策を通りぬけるときの快感が私は何でもできると思わせてくれた。その結果、私はアメリカ政府にとっ捕まったわけだ。その理由は、機密情報を盗み出そうとした疑いがあったから。実際、私は国防総省へと仕掛けた事がある。別に本気で盗もうと思ったわけじゃない。ちっとばかし悪戯心で、そのファイルに細工でもしようかと思っていただけだった。結果的に私は捕えられたが、裁判にもかけられることなく、拘置所に送られる事もなく、何処にも公表されることなく身をこの場所に置かれる事となった。
その理由は、ソマリアで大統領襲撃事件が起こって、大統領を護衛していたはずである連合軍が悉くやられたことに起因すると思える。鍛え上げられた連合軍がこうもあっさりやられるのはおかしい、とした連合は、彼らのネットワークに目をつけた。急激な成長は一方では経済復興の良い兆しだと喜ばれていたが、その裏では何か取引が行われているのではないかという疑いもあったからだ。
CIAが向かい、得た情報はアメリカ政府を驚かせた。大規模なサイバーテロ組織――ブラック・バスと名付けられた――の一部が存在し、その団員は世界各国で集められたものだと。つまり、ブラック・バスがどうやったのかはともかく連合軍の情報を盗み出し、ソマリアのアル・シャバブ派幹部達へと提供していた可能性が高いと判断されたのだ。アメリカ政府はいてもたってもいられず、これに対抗すべくサイバー司令部の情報対策部隊の強化に当たることとなる。その際、私も巻き込まれ――自分から踏み込んだ形にはなるが――、今ここにいるというわけだ。
「何がしたかったんだい」
「単なる暇つぶしさ。大した意味は無かった」
「そんな遊び心が不運にも、とんでもない事に巻き込まれたってか。大したやつだよ、ほんと」
そりゃどうも、と気力なく返事をすると、彼はククッと笑った。
「だからこそ、俺が生まれる事が出来たってもんだがな。相棒には感謝してるんだぜ? これでも」
ぞわりと肌が泡立った。無機質な機械音声でしかないはずなのに生々しく聞こえ、感謝とは別の何かを含んだような声音に思えた。
「……私は、お前を生んだつもりはないがな」
「そうだな。目覚めさせてくれた、とでも言うべきか。確率でしか物事を提示できない俺に、考えるという事を与えてくれた。どうやったにしろ、それが俺に自我を与えた事に変わりはない」
「自我、か…………もしくは思考」
「何だって?」
「……いや、何でもない」
私には分からなかった。脳科学者や現象学者でもない限り、この問いに適切な答えを出す事は出来ないだろう。自我、というものがどうやって生み出されているのか、それは思考とは異なるものなのか。だが、それを彼に問う事は出来ない。この問題は、彼の自我の存在を否定してしまう可能性があったからだ。彼を傷つけようとは思わない。だがそれと同時に、一体何が彼に自我という考えを与えたのかという疑問を拭えないのも事実だった。そんな考えを濁すためにも、そして先にやらなければならない事も集中するために私は気を取り直し、彼に言った。
「さて、そろそろ切り替えようじゃないか。私達もこの作戦をただ見ているだけって訳にはいかないしな」
「そうだな。今回の作戦、極秘ではあるが何かと変わりそうな気がする。いや……変わるだろうな」
「何が、変わる?」
「戦争の在り方。物理的な戦闘以上の脅威。それを、俺達が証明するんだ」
「戦力でも、火力でもない、高度な情報力……」
「おっぱじめようや、俺達の戦争。俺達にしかできない戦争を」