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ヌヴェル38 久松留守

作者: 寺澤樹生
掲載日:2026/09/23

その年、インフルエンザが猛威を振るった。

娘のことが気が気でならない辰三は、長女の明子のアパートへ出向き、「久松留守」と書いた紙を玄関の扉に貼り付けた。

これは、昔からの習わしで歌舞伎の演目「お染久松」に由来する。

江戸時代大流行した風邪は、「お染風邪」と言われた。お染と久松は恋人同士―恋は叶わなかったが―、そのお染(風邪)が久松会いたさにやってきても、久松は留守にしているから入らないでくれという意味を込めた洒落言葉だが、当時は魔除けとして重宝されたらしい。

信心深い辰三の成果か、明子は風邪一つひくことはなかった。


明子は仕事で多忙を極めた。

顧客を開拓する営業活動では、商品のサンプルケースを持って出かけることがあるが、ある日、その多忙が災いしたのか持ち慣れていないサンプルケースを外回りの途中で紛失してしまった。

企業機密が含まれているものではないので問題にはならなかったが、やはり会社の資産であることに間違いはない。できることなら取り戻したいと思っていた。


そんな折、インフルエンザは、明子の住む街から妹の絵美子の住む街に移っていった。

辰三から明子に、例の「久松留守」の貼り紙を絵美子のアパートの玄関に貼り付けてやってくれと電話があった。

聞くと辰三自身が風邪をひいたらしい。「久松留守」の貼り紙をするのを忘れていたとか。笑える。

絵美子のアパートに行くと、明子は早速「久松留守」の紙を扉に貼り付けた。

ゴソゴソしていたのを不審がってドアスコープから覗いたのだろう、絵美子が扉を開け中に招き入れてくれた。


人の目というものは、気をつけなければならない。いつどこで誰に見られているかわからない。

絵美子のアパートは、外廊下型の二階建てアパート。ポピュラーといえばポピュラーだが、安全面でいうと考え物の作りだ。そのときも、明子の姿は白日のもとに晒されていたわけだから。


後日、明子は絵美子から電話をもらった。

不審な手紙が届いたから、一緒に中身を見てくれという。

その手紙は、茶色い事務封筒の宛先欄に、「久松留守様」と書かれていた。

確かに不審な手紙だ。

中を開けると、システム手帳のリフィルに青いペン字で次のようなことが書かれてあった。

「あなたの大切な物は、××線××駅の忘れ物預り所に預けてあります」

何これ?

明子と絵美子は顔を見合わせた。


明子 「絵美子、いつから久松留守なんて名前に変えたの?」

絵美子「変えないわよ!そんな・・・なんか気持ち悪い」

明子 「この人、扉の貼り紙を見て、絵美子のこと久松留守という名前だと思ったんじゃない?」

絵美子「えっ、ストーカー?男性の字っぽいし・・・」

明子 「かもね。あなたの大切な物っていうのも意味深だし」

絵美子「でも、××線××駅の忘れ物預り所って具体的だよね」

明子 「確かに・・・。絵美子、何か××線で忘れ物とかしてない?」

絵美子「してない。それに、××線なんて使わないし・・・」

明子 「ねえ、これってもしかしたら私のことかも」

絵美子「えっ、どういうこと?」


明子は、自分の考えを絵美子に説明した。

少し前、会社の商品サンプルケースを紛失した。

それは、××線の電車の中だったのかもしれない。所謂忘れ物だ。

それを見ていた男性Aは明子に声をかけたが、明子は忙しなく去って行ってしまった。

仕方なく、男性Aは××線××駅の忘れ物預り所に、その商品サンプルケースを届けた。

後日、偶々男性Aは、明子の姿を見た。

絵美子のアパートの部屋の扉に「久松留守」と書いた紙を貼っている明子の姿を。

そして、チャイムも押さず声もかけずにそのまま部屋の中に入っていく姿を。

それは、まさしく自分の部屋に入っていくことを示している。

男性Aは声をかけたかったが、おそらく何某かの事情があり、それが出来なかった。

後日、訪れた男性Aは呼び鈴を押したが、その時、絵美子は外出して不在だった。

男性Aは仕方なく手紙を残すことにした。

システム手帳から一枚リフィルを抜き出し、そこに本文を書く。

「あなたの大切な物は、××線××駅の忘れ物預り所に預けてあります」

そして宛名だ。

絵美子は女性の一人暮らしでもあり、表札を上げていなかったが、それに代わるものが扉に貼り付けてあった。

「久松留守」

男性Aは、それが名前だろうと思ったかどうかは分からないが、この部屋宛であることを分らしめるため封筒の宛名欄に記すと郵便受けに入れて立ち去った。


明子 「どう?」

絵美子「すごいわ、おねえちゃん。その推理、的中してるんじゃない?」


週末、件の忘れ物預り所を訪れた明子は、無事に商品サンプルケースを受け取ることができた。

預け主は匿名で分からなかった。

明子は、その人に会って直に御礼を言いたいと思った。


そういう願いが叶うことはまずないが、ここは偶然にも出会うことがあったということで後日談を書く。


男性Aは、室田という刑事だった。

××線では、仕事帰りに明子の忘れ物に気づき、電車を降りる明子に声をかけたが聞こえなかったのか、そのまま立ち去ってしまったので、預り所に届けた。

そのとき、不審物ではないかということで、いろいろと大変だったらしい。

その後、絵美子のアパートで例の「久松留守」の貼り紙をする明子を見掛けた。

ショルダーバッグのスナフキンとミーのアクセサリーが決め手になったとか。

ただ、聞き込み捜査中だったので、声をかけることができなかった。

そのときも、扉に変わった貼り紙をしていることで、一時捜査の対象となったらしい。

後日、訪れたが不在だったため、手紙を残すことにした。

表札がなかったので、宛名はいいかと思ったが、この部屋宛であることを知らしめるため、貼り紙の「久松留守」を記すことにした。

最初は、これが名前か?おかしな名前もあったものだと思ったらしい。


街角のカフェ。

アイスコーヒーの氷をストローでカラカラと回す。

ほぼほぼ明子の推測通りだった。

でも、結構疑われていたことが可笑しくなった。室田は申し訳ないと陳謝した。

明子は、「久松留守」の由来を話すと、室田は、「くさめ」の話をしてくれた。これもおまじないの話。

それから、ムーミンの話でも盛り上がった。室田はスナフキンが好きらしい。

明子は、楽しい時間を過ごした。

なんとなく、お染が久松に巡り会えたような心地になった。



参考 Google AIによる概要「久松留守」(2026年8月閲覧)


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