君の声が、輪郭になる
春の風が、キャンパスの並木道を静かに揺らしていた。
小林蒼一は、白杖を軽く前に突きながら、ゆっくりと歩を進める。耳に入るのは、学生たちの談笑、スマホの通知音、遠くで鳴る自転車のベル。視界は曇りガラスを通したように鈍く、ものの輪郭程度しかわからない。見えている範囲も中心は欠けていて、視野も狭い。人の顔は見えない。けれど、声や足音、空気の流れで、なんとなく周囲の雰囲気は感じ取れる。
校門から壁伝いに白杖を使って移動し、待ち合わせ場所である看板を見つける。そこで数分待っていると、涼やかな女性の声が聞こえてきた。
「小林さんですよね? 渡辺です。今日から誘導、担当します」
はっきりしている声で、聞き取りやすい。
蒼一は立ち止まり、白杖を軽く地面に当てて位置を確認しながら、声の方向に顔を向ける。そこには、今回大学の教室などの施設を案内してくれるスタッフがいるはずだ。電話では、今日来るのは同じ学年の女性で、ボランティアとして協力してもらっていると言っていたはずだ。
「はい、小林です。よろしくお願いします。えっと……渡辺さん?」
「渡辺紫音です。渡辺でも紫音でも、呼びやすい方で」
その言い方に、少しだけ柔らかさが混じっていた。
蒼一は、彼女の顔が見えない。髪の色も、表情も、服装もわからない。ただ、声の印象から「冷静な人だな」と思った。
「じゃあ、紫音さんで。ありがとうございます。今日、教室までお願いしてもいいですか?」
「もちろん。……えっと、腕をつかむんでしたっけ? 一応講習で習ったんですけど」
「じゃあ、二の腕をつかむ形でいいですか。そっちの方が歩きやすいので」
紫音が一歩前に出る気配がして、前方にぼやけた人型が見える。蒼一は、最初に肩辺りに触れて、全体的な高さを確認すると、そこから二の腕に手を下げて軽く握った。
距離が近くなると、彼女の香りがふわりと鼻をくすぐる。香水ではない、柔らかいシャンプーの匂い。蒼一は少しだけ緊張した。
「……あの、紫音さんって、同じ学年ですよね?」
「はい。ここの文学部です。……そちらの学部は何だったでしょうか?」
「工学部です。プログラミングとか、情報系の方」
「へえ……視覚障害があっても、できるんだ」
最後の言葉は小さくてよく聞き取れなかったが、大体何を言いたいのかはわかる。自分も入学当初はよく聞かれたからだ。
「まあ、できるように工夫してるだけです。音声読み上げとか、点字ディスプレイとか。慣れれば意外といけますよ」
紫音は「そうなんですね」とだけ言って、それ以上は何も聞かなかった。
その距離感が、蒼一には心地よかった。
---
情報基礎という科目は、文系・理系を問わず一年生全員に課されている必修だった。
教室に入ると、すでにキーボードを叩く音がまばらに聞こえた。蒼一は空席を探すより先に、教卓の方向へ向かい、担当教員に自分の着席位置を確認する。これも、毎回やることだ。
席について、ノートパソコンを開く。起動音が鳴り、しばらくするとスクリーンリーダーが画面の状態を読み上げはじめた。
「小林くん」
左手側から声がした。聞き覚えのある、落ち着いた声。
「紫音さん。この教室も受けてたんですね」
「そうなんです。必修なので」
隣に座っていたらしい。気配と声の位置から、距離は一席分か二席分か、そのくらいだろう。
授業が始まった。タイピングの基礎から入り、ファイルの保存形式、テキスト文書の作成、といった内容だった。蒼一にとっては復習以前の話で、むしろ退屈に近い。けれど隣からは、ときどきため息ともつかない小さな声が聞こえてきた。
授業の中盤、「ワードプロセッサで文書を作成してみましょう」という段階に入った。
「……あの、小林くん」
「なんですか」
「テキストエディタを開こうとしてるんですけど、どのアイコンかわからなくて」
蒼一は自分の画面の読み上げを止めて、少し考えた。自分にとって画面上のアイコンは、そもそも視覚で確認するものではない。
「たぶん、本かキャビネットが書かれたやつだと思うんですが…。こうテキスト文書って下に小さく書かれたのありませんか?」
「あぁ、これかな?こう緑色の本が書かれているものがあります。」
「……ごめん、ちょっとそこはわからない。色とか形で説明されても、僕には参照できなくて。そのアイコンの下か横に、文字で何か書いてない? 『マイノート』とか『テキスト文書』とか」
少しの沈黙があった。
「……あ。『テキストエディタ』って書いてある」
「じゃあそれです。ダブルクリックで開けますよ」
「ありがとう。……なるほど、そうやって確認するんだ」
感心したような声だった。
「画面は読み上げてもらってるので、文字情報は全部拾えるんです。逆に言うと、色とかデザインは意味がなくて」
「じゃあ、アイコンの見た目って……」
「正直、どうでもいいですね」
蒼一がそう言うと、紫音が短く笑った。あまり笑う人ではないかもしれないと思っていたので、少し意外だった。
ブラインドタッチの練習に入ると、紫音がまたつまずいた。ホームポジションが定まらないらしく、キーを探す音がばらばらと聞こえる。
「指がどこにあるかわからなくなる」と彼女は言った。
「Fキーに突起があるのわかりますか。キーボードを触ってみると、FとJだけ少し出っ張ってると思う」
「……あ、ほんとだ」
「そこが人差し指の定位置です。それを基準に覚えると安定しますよ」
「視覚障害の方って、そこから入るんですか」
「いや、普通の人と同じだと思いますよ。ただ、僕の場合は最初から手の感覚で覚えるしかなかったので、キーの位置は体に入ってる感じです」
紫音はしばらく黙って、キーを叩く練習をしていた。
「……キーボードって、こんなに指で覚えるものなんですね」
「そうですね。慣れるとキーボード見なくても打てるようになりますよ」
「小林くんは最初から見ないで打ってるの?」
「まあ、そうなりますね」
また短い沈黙。今度は考えているふうの沈黙だった。
授業の終わり際、教室を出るとき、紫音は「また聞いていいですか」と言った。
「もちろん。この授業、しばらく同じ内容が続くはずなので」
「よかった。文学部、パソコン苦手な人多くて」
「そうなんですか」
「小林くんみたいに詳しい人が隣にいてくれると安心です」
それだけ言って、彼女の気配は廊下の人混みに紛れていった。
蒼一は白杖を持ちなおして、次の授業の教室へ向かった。特別なことは何もない午後だった。
---
五月の連休前の週、気温が上がりはじめていた。
蒼一はスーパーへの道を、スマートフォンのナビを片耳で聞きながら歩いていた。音声が「右に曲がってください」と告げるタイミングで角を曲がる。歩道の感触と白杖の当たりで、おおよその位置は把握できていた。
スーパーの入口は自動ドアで、入ると同時に冷えた空気と店内BGMが出迎えた。
サービスカウンターに向かう途中で、後ろから声がかかった。
「……小林くん?」
聞き覚えのある声。落ち着いた、少し低めの声。
「紫音さん」
「こんなところで会うとは思わなかった。近いんですか?」
「徒歩十分くらいですかね。紫音さんも?」
「私も同じくらいです。一人暮らしで」
「そうなんですね」
蒼一は、サービスカウンターの方向を確認しようと視線を向けた。ぼんやりとしたカウンターの輪郭が見える気がする程度だ。
「サービスカウンターに行こうとしてたんですか?」
紫音の声に、特に含みはなかった。単純な問いかけだ。
「ええ。私は商品のプレートが見えないので。店員さんに一緒に回ってもらうことがあるんですよ」
「ああ、そういうことか」
「まあ、店員さんによっては適当に流されることもあるんですけどね。でもここは親切な人が多いので」
「一緒に回ってもいいですか。私も何か買うものがあるので」
蒼一は少し迷ってから、「助かります」と答えた。
カウンターに向かうと、声をかけてきた店員がいた。明るい声の、若い女性だ。
「あ、蒼一くん。今日は誘導の人いないの?」
「今日は単独で来たんですけど、知り合いに会って」
「そっか。えっと、今日は何が要る?」
蒼一が買い物リストを伝えると、店員は手際よく案内してくれた。紫音も横に並んで歩いている。
野菜コーナーで店員と話しているとき、紫音の気配が少し離れた。何かを選んでいるらしい。
一通り回り終えて、店員が「またいつでも来てね」と言って戻っていった。
「あの人、顔見知りなんですか」と紫音が言った。声がやや平坦だった。
「ここに来るようになって半月くらいになるので、何度か担当してもらって。どういう関係って言えるほどのものじゃないですけど」
紫音は「そうですか」とだけ言った。
二人はレジに向かった。セルフレジは音声対応していないものが多いので、蒼一は有人レジを選ぶ。会計を済ませて袋に詰めていると、紫音が隣でのんびりと荷物を整えている気配がした。
店を出たところで、少し立ち止まった。
正直、蒼一的には、ここで彼女との縁が切れてしまうのは名残惜しかった。
だからだろうか、こんなことを言ってしまった。
「そういえばなんですが、今度放映される映画を見に行きたいんですけど、ちょっと移動をサポートしてくれる人と日程が合わなかったんですよね。」
蒼一がそう言うと、紫音が不思議そうに聞き返してくる。
「それがどうしたんですか?」
「いや、紫音さんがいいならなんですが…一緒に見に行って貰えませんか?」
数秒の魔があった。あぁ、これは断られるかなと蒼一が思っていると、
「いいですよ。どんなの見に行きたいんですか?」
そう言ってくれた。
「えっと、たぶんこのページ…あ、これだこれ。これです。」
そう言ってスマートフォンの画面を見せる。紫音は「あぁ」と言ってうなずいたようだった。
「私もちょっと気になってたので。一緒に行きましょう。案内もしますよ。ただ…。」
「ただ?」
「……また聞きたいこともあるし」
「何をですか」
「映画の話とか、色々。あと、さっきの店員さんみたいなサービスが他にもあるのかとか」
蒼一は少し笑った。笑ったつもりだったが、声には出ていなかったかもしれない。
「わかりました。じゃあ、お願いします」
帰り道、二人はしばらく並んで歩いた。紫音が
「何時のやつを見ようか」と言って、スマホで上映スケジュールを調べはじめた。蒼一は隣を歩きながら、彼女が読み上げる日程を聞いていた。
---
ゴールデンウィーク三日目の昼前、蒼一は最寄り駅のホームで紫音を待っていた。
「お待たせしました」という声が近づいてきて、靴音が止まる。
「いえ、今来たところです」
定番のやりとりをして、二人は改札へ向かった。
「あの、一つ確認していいですか」と蒼一は言った。「窓口で手続きをしたいんですが、少し時間かかるかもしれなくて」
「もちろん。何かあるんですか」
「視覚障害者は運賃の割引があって、同伴者がいる場合は一緒に手続きできるんです。同伴者の方も半額になって」
「私も?」
「はい。障碍者手帳を見せるだけなんですが、窓口に寄る必要があって」
「それは全然いいです。教えてくれてよかった」
窓口で手続きを済ませると、係員が「お気をつけて」と言った。蒼一は会釈して、改札を通る。
電車の中は、連休らしくざわめいていた。座席に並んで腰かけると、紫音が「この電車、いつもこんなに混むんですか」と言った。
「ゴールデンウィークはさすがに多いですね。普段はもう少し静かですよ」
「小林くんは混雑、どうやって判断してるんですか」
「声の量と、人の気配の密度で大体わかります。混んでると空気の動きも変わるので」
「へえ」と紫音は言って、それきり黙った。車窓の景色を見ているのかもしれない。蒼一には窓の外はわからないが、電車の揺れと時間の経過で、どのあたりを走っているかはおおよそ把握できていた。
三つ隣の駅で降りると、改札の外に広い空間があった。紫音が二の腕に軽く触れてくる。
「出口から右に少し行くと、ショッピングモールの入り口があります」
「わかりました」
案内してもらいながら歩く。建物に入ると、空調の音が変わり、天井が高い感じがした。においも変わる。飲食と、新品の衣料と、人混みが混ざったような匂い。
「映画館は四階です」と紫音が言った。「エレベーター、あそこに見えてるけど、説明しながら行きますね」
「助かります」
映画館の窓口で、蒼一は割引の手続きをした。視覚障害者の割引は映画館にもあって、紫音も一緒に説明を聞いていた。
「障害者手帳があると割引になるんですね」と紫音がチケットを受け取りながら言った。
「映画館や美術館は対応してるところが多いです。同伴者が割引になるかどうかは場所によって違うんですが」
「なるほど」
今日選んだのは、宇宙を舞台にしたロボット作品だった。三話の帰り道、紫音が読み上げる上映スケジュールの中から、蒼一が「これ聞いたことある」と言ったものだ。
「席の案内してもらえますか」と蒼一は言った。
「もちろん。通路側に取ったので、入りやすいと思います」
暗くなった映画館は、音だけの世界になる。蒼一にとっては、劇場内が明るくても暗くても、体験の差はあまりない。むしろ暗い分、周囲が静かになって音が聞き取りやすい。スクリーンの方向に顔を向けながら、音声と音楽だけを追っていく。
この作品には音声ガイドがあった。映像の状況を補足する音声が、専用の小型受信機から流れてくる。「パイロットがコックピットに乗り込む」「巨大な機体が夜空に飛び立つ」といった描写が、セリフの隙間に静かに差し込まれる。
映画が終わって照明が戻ると、紫音が「……どうでした」と聞いた。
「面白かったです。クライマックスの戦闘シーンは、音だけでも迫力があって」
「映像、見えなかったのに?」
「音声ガイドがあったので。映像の状況は大体わかりました。効果音の作りがよかったのもあって」
紫音はしばらく黙っていた。
「……なんか、そういう見方があるって、考えたことなかった」
「映像がなくても、声と音と音楽でかなり伝わりますよ。ラジオドラマに近い感覚かもしれない」
「昔からそういう作品の見方をしてたんですか」
「映像がある作品は、子供の頃から音声図書で聞いてたものの方が多かったです。視覚障害者向けに音声だけで作られたやつが図書館にあって。それが最初だったので、音だけで物語を追うのは慣れてるんですよね」
「音声図書、っていうのがあるんだ」
「ええ。この作品のアニメのノベライズも結構前に読みましたね。本もそうですし、映像作品も。最近は配信でも対応してるものが増えてきたので、前よりずっと選択肢が広くなりました」
紫音は「そっか」と言って、立ち上がった。「お腹空きませんか。フードコートがあるみたいなので」
四階のフードコートは混んでいた。紫音が席を確保してくれている間に、蒼一は何があるかを聞いて回った。ハンバーガーの店を見つけて、列に並ぶ。前の客との距離は、足音と気配で確認しながら。
席に戻ると、紫音は「私はドーナツにしました」と言った。
「ここのフードコート、ドーナツの店があるんですね」
「あります。揚げたての看板が出てたので」
「それは良かった。ちゃんと選んでる」
「小林くんもちゃんと選んでましたよね。どうやって注文したんですか」
「メニューはスマホで事前に調べてたので、番号で頼みました。あとは店員さんに聞きながら」
「なるほど」と紫音は言って、何かを食べはじめた気配がした。
しばらくは黙って食べていた。フードコートの騒音の中、会話がなくても特に気まずいということはなかった。隣に人がいる、それだけで空間の質がいくらか違う。蒼一はそういうことをあまり言葉にしないが、今日は少しだけそう思った。
「案内してもらったし、今日はおごりますよ」と蒼一は言った。
「え、いいです」
「割引で浮いた分もあるので。受け取ってください」
紫音は少し間を置いて、「……じゃあ、ありがとうございます」と言った。遠慮を引っ込めるときの間だと、蒼一にはわかった。
帰りの電車は来たときよりも空いていた。二人は並んで座り、しばらく黙っていた。車窓の景色を紫音が見ているのか、目を閉じているのかは、蒼一にはわからない。ただ、隣から時折小さく息を吐く音が聞こえて、疲れているのか、それともただくつろいでいるのかと思った。
「楽しかったです」と紫音が言った。唐突ではなく、ゆっくりした声だった。
「こちらこそ。一人じゃ来られなかったので」
「……また来てもいいですか」
「はい。声かけてください」
それだけのやりとりで、話は終わった。電車は揺れながら、もとの駅へ向かっていた。
---
ゴールデンウィーク最終日の前日、蒼一は一人でショッピングモールにいた。
前回紫音に案内してもらった経路を、今日は頭の中で再現しながら歩いた。改札から右、エレベーターを上がって四階、映画館の窓口まで。一度通ったルートは、白杖と記憶を組み合わせればある程度は辿れる。今日は映画ではなくフードコートに寄るつもりで、それほど複雑な動線ではなかった。
フードコートでハンバーガーを食べて、少しだけぶらぶらしようと思っていた。連休の最後に、もう少しだけこの場所の構造を覚えておきたかった。次に来るときのための、下見のようなものだ。
一階のコンコースを歩いていると、声が聞こえた。
若い男の声。それと、聞き覚えのある声。
蒼一は立ち止まった。
「だから、ちょっと話しかけただけじゃないですか」と男が言っている。
「けっこうです」と女の声が言う。落ち着いているが、いつもより少し硬い。
紫音だ、と蒼一は思った。声の質と、声のテンションで、すぐわかった。方向は右前方、十数歩ほどの距離。
「一人なんでしょ、連絡先だけでも」
「いりません」
「そんなつれないこと言わないでよ。まだ連休あるし、どこか行きませんか」
男の声は明るく、強引だった。紫音の返答の間隔が短くなっている。早く終わらせようとしているのに、終わらない。
蒼一は白杖を持ちなおして、声の方向に歩いた。人の気配を確認しながら距離を詰める。男の輪郭が視野の端にぼんやりと見えはじめたあたりで、蒼一は声を出した。
「あ、こんなところにいた」
少しの間があった。
「小林くん?」と紫音が言った。声に、かすかな変化があった。
「待ってたんですよ。遅いから探しに来た」
男の気配がこちらを向く。
「知り合い?」
「俺の彼女です」と蒼一は言った。「お邪魔でしたか」
男はしばらく黙っていた。それから「……いや」と言って、足音が遠ざかっていった。人混みに消えるまで、蒼一は同じ場所に立っていた。
紫音が小さく息を吐いた。
「……行ったみたいです」と彼女が言った。
「そうですね」
「ありがとう、ございます」
声が、少しだけ乱れていた。蒼一はそれには触れなかった。
「フードコート行きませんか。ちょうど行こうとしてたので」
「……はい」
二人で四階まで上がり、フードコートの端の席に腰かけた。蒼一はハンバーガーを買い、紫音は「何も食べる気しないかも」と言ってから少し黙って、「やっぱりドーナツにします」と言って席を立った。
少しして戻ってきて、袋の音がした。
「食べてる間に少し落ち着いた」と彼女が言った。
「それはよかった」
「……どうしてわかったんですか」
「何がですか」
「私だって。声が聞こえたんですか」
蒼一は少し考えてから答えた。
「まあ、それなりに関わって、良くしてくれた人の声くらいはわかりますよ」
「そういうもんなんですか」
「慣れれば。声は、顔よりずっと多くのことを伝えるので」
紫音は黙った。フードコートの騒音の中、しばらくは何も言わなかった。
一通り食べ終えて、蒼一が席を立とうとしたとき、紫音が言った。
「あの」
「はい」
「さっき、彼女って言いましたよね」
「……その場をやりすごすためです。不快だったなら」
「不快じゃないです」と紫音は言った。声が、いつもより少し低い。「ちょっと、聞いていいですか」
「何をですか」
「……私のこと、どう思ってますか」
蒼一は少し黙った。フードコートの人の声が、遠くなる気がした。
「ちゃんと答えていいですか」と蒼一は言った。
「はい」
「気になってます。最初に声を聞いたときから、ずっと」
紫音はしばらく何も言わなかった。
「……私もです」と彼女は言った。「だから聞きました」
それだけだった。派手な言葉は何もなかった。蒼一には彼女の顔が見えないし、今どんな表情をしているのかもわからない。ただ、声の温度が少し変わったのはわかった。
「帰りましょうか」と蒼一は言った。
「そうしましょう」と紫音が答えた。
改札を出てから、しばらくは並んで歩いた。紫音が二の腕に触れてくる。いつもの誘導の形で、けれど今日はいつもと少しだけ違う気がした。
「また映画、来ますか」と紫音が言った。
「来ますよ。今度は別の作品で」
「じゃあ調べておきます」
「お願いします」
風が吹いて、彼女のシャンプーの匂いがした。春の終わりの、少し湿った空気。
蒼一は何も言わなかった。言わなくていいことだと思った。




