第4話 寝る前のひと時を
伯爵家に来て、数週間。
思いの外、順調に楽しく過ごしていた。
最初はそれなりに緊張していたけれど、3日もすればそれもなくなっていた。
お父様譲りののんびり具合が発揮されたのもあるし、家の人たちが皆親切だったのも大きい。
シリル様が気遣ってくれたのか、使用人がうまいことやってくれているのか、フェルナンド様とは夕食の時以外は会わないのも、緊張しない理由かもしれない。
シリル様もお喋りというわけではないけど、フェルナンド様はもっと寡黙だった。
ご挨拶させていただいた時も、「…父をよろしくお願いします」としか言われなかった。
騎士というのは、みなさんあんな感じなのかしら。
『質実剛健』という遠い国の言葉がぴったりな方だった。
食事は共にしてくれるし、シリル様が話しかければ、話にも加わってくださるし。
だから私も、そういうものだと思って、特に何も気にしていない。
そんなことよりもこの家の図書室が素晴らしすぎて、それどころではないのだ。
シリル様に好きにしていいと言われた通り、私は毎日図書室に通った。
朝起きて、ゆったりと家を出られるシリル様と朝食を食べて、お見送りをする。
そうすると、夕食まで本当に自由時間だった。
さすがの私も何かしないのは気が引けると申し出ると、休みの日にシリル様が伯爵家の切り盛りの仕方や、領地のことを教えてくれることになった。
つまり、やっぱり日中はほとんど暇なのである。
だから、遠慮なく図書室に通わせてもらうことにした。
良いと言うんだからいいのよ。
フランクもマーサも、他の使用人も、「奥様が楽しく過ごしてくださるのが本望です」とシリル様みたいなことを言うのだから。
この家の人たちは、二度と迎えることのないと思っていた後妻だからか、とても甘い。
なので、甘やかされることにした。
そのほうが喜んでくれるとわかったから。
毎朝、起きる度に今日もあの本たちに囲まれるかと思うと嬉しくなる。
図書室には、貴重な本がいっぱいあった。
中でも、隣国の本が豊富で、読んだことのないものばかりだった。
これでも隣国のものは手に入りやすいから読んできたほうだと思っていたけど、まだまだだった。
そのことに、わくわくしてときめいている。
小説のような娯楽ものから、歴史、兵法、医学など専門知識のものが多い。
「旦那様は、知識欲が昔から飛び抜けておいでなのです」
マーサが教えてくれた通り、ジャンルが豊富だった。
私も、もちろん目を輝かせた。
専門知識ほど翻訳のし甲斐があるものはない!
自分に知識がなければないほど、訳が分からなくて楽しいっ!
私はひとまず隣国の歴史書を片手に、自国の言葉に翻訳することにした。
実家から持ってきた辞書を引きながら、ノートに書き記していく。
自分の本だったら、そのまま書き込んでしまうのだけれどね。
歴史は学校で習った自国の歴史と照らし合わせていくのが、楽しい。
我が国の歴史書も並べて、見比べていく。
「あ〜、なるほどね。ここで飢饉が起きて、隣国に鎖国されたわけね」
今は600年前の歴史のあたりを翻訳している。
当時は今の国の形とは微妙に異なるけれど、大体は今と同じみたい。
「えっ、こっちでは『エルメールの飢饉』なのに、向こうでは『エルメール貿易の危機』と言うんだ…。ええ〜、面白い!」
エルメールというここらを象徴する大きい山があって、その名前を冠するものが多い。
「それにしても飢饉かあ、…今起こったらシリル様はどうされるのかな」
歴史書には雨がひと月以上降り続き、作物がダメになったのと、川の氾濫が重なったとある。
ルース家にとって、穀物は大事な収入源だ。
それらが全部ダメになってしまったら、どうしたらいいのか。
ん〜、私にはいい案が浮かばないなあ。
あとで聞いてみようかな。
そんなことを思って、またいつものように翻訳に夢中になるのだった。
「飢饉かぁ。領民だけなら、3年くらいはなんとかなるかなぁ」
「3年も!?」
夕食が終わった後、寝るまでの少しの時間をシリル様と過ごすのが日課になっていた。
湯浴みも全部終わってから、私の部屋を訪ねてくるシリル様と、マーサの淹れてくれたハーブティーを一緒に飲む。
そんな和やかな時間だった。
シリル様は毎日『今日は何を翻訳したんだい?』と訊いてくれる。
私も、こんなことが書いてあって、と話す。
だから今日読んだところを伝えながら、そういえばと思っていたことを質問したのだった。
「まず、蓄えがあるからね。それらをうまいこと使えば2年は問題ないよ」
「じゃあ、残りの年は?」
「翌年の収穫はないと予測して、二毛作できるものに切り替えるかな。あとは遠方の国から高くても買い付けるね」
「う〜ん、それで3年後には畑も戻っていると?」
「戻す努力もするし、あとは蓄えを国に高く買わせると思うから、それを農民に配れば肥料や農機具も新しくできるかなぁ」
「国に買わせる!」
それは思いつかなかった…。
そっか、全員が困っていたら、食料は喉から手が出るほどのものに生まれ変わっているか。
「ふふふ、心配しなくても君にひもじい思いはさせないよ」
「歴史書を見ていても解決策が思いつかなかったんです。いいことが聞けました!」
「昔の人の教えは役に立つからねぇ」
「そうなんです、隣国の王様を怒らせた話とか、興味深かったです!」
「あはは、そうかいそうかい」
シリル様は私の頭を撫でながら、眩しそうに目を細めた。
私との距離感に慣れたのか、最近はすぐに頭を撫でたがる。
…ちょっと子ども扱いされているみたいで不服だが、実際シリル様よりずっと子どもなので甘んじて受け入れている。
まあ、その優しい手つきが、大事にされているみたいで嬉しくはあるんだけど。
「メリンダとはどんな話でもできるから楽しいねぇ」
今日は珍しくお酒を飲んでいるシリル様は、いつもよりほわほわしている。
私も慣れてきたからか、シリル様がリラックスしている姿を見ると、かわいいと思うようになっていた。
今日は、特にかわいい。
「シリル様がなんでも知っているから、いっぱい話しちゃいます」
「ふふふ、メリンダにお気に召されているようで嬉しいね」
「だって、私が何を話しても聞いてくれます」
「当たり前さ。奥さんの話を聞くのは、私の特権だよ?」
とろんとした淡い色の目が、ふにゃふにゃの笑顔の奥で光っているようだった。
シリル様の目が好きだなと思う。
アメジストを淡くしたような色合いが、いつも優しく揺れている。
この目で見られている時、この人に見合うように生きていこうと思う。
私、嫁いできてよかったな。
こんなふうに過ごせる結婚生活があるなんて知らなかった。
「さて、長居しすぎちゃったかな。そろそろ失礼するね」
シリル様は立ち上がると、肩からずり落ちていたガウンを直した。
なんか、そういう色っぽいのは、心臓に悪いのでやめていただきたい…。
ほわほわだから、なんか、こう、シリル様がご令嬢だったらかなり危ない感じだ。
たどたどしく扉に向かうシリル様の後ろをついていく。
た、倒れたりしないよね…?
お父様はお酒が飲めない人だったから、こういう時にどうしていいかわからない。
いつものように扉を開いてから、こちらに振り向いた。
「おやすみ、メリンダ」
「おやすみなさいませ、シリル様」
そうしていつものように出ていくのを見つめるんだと思っていた。
だけど、シリル様は立ち止まったまま、私のことをじっと見ている。
どうかしたのかな、あっ、吐きそうとか!?
フランクを呼んだ方がいいかな…?
1人で焦っていると、頬に触れるか触れないくらいの距離で、手が添えられた。
首を傾げる前に、シリル様の顔が近づいてきて、ふわっとおでこに唇が触れた。
たしかに、そこに体温を感じた。
意味がわからないままにシリル様を目が合って、いつもの笑みが私に向いた。
「また明日ね」
そう言って、何もなかったように部屋を出ていくのだった。
…今まで、こんなことなかったのに。
酔っていると、あんな感じになるの…?
だって、キスなんて、はじめてじゃ…。
「えぇぇ、ずるい…」
私はしばらくおでこから温もりが消えないように、触っていることしかできなかった。
「──…ああ、もう、どうしたらいいんだっ!」
次の日、うまく寝付けなかった私は盛大に寝坊した。
シリル様と朝食どころか、見送りもできなかった。
慌てて起きてくると、ダイニングルームから大きい声が聞こえた。
ん?今の声って…。
そーっと覗いてみると、フェルナンド様が頭を抱えていた。
今日はお休みなのかな。
じゃあ、今日は部屋にいた方がいいかも。
それにしても、何をそんなに困っているのかな、大丈夫かしら?
フェルナンド様は、もう一度叫んだ。
「なんなんだ、この手紙はっ。なんて書いてあるのか、さっぱりわからん…!」
……今、めちゃくちゃ興味の湧く言葉が、聞こえましたよね?




