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幕は上がる

 リビングには温かい夕飯の匂いが立ち込めていた。


 彼女はエプロン姿で甲斐甲斐しく皿を並べている。


 その光景は俺が必死に守り通そうとしている日常そのものだった。


 けれどカバンの中にあるあのアルバムの重みが、俺の胃を鉛のように圧迫している。


 「あ、おかえりなさい! 今日もお疲れ様」


 彼女はいつものように屈託のない笑顔で迎えてくれた。


 俺は強張った顔を無理やり解き、食卓につく。


 彼女が楽しそうに話し始めたのは、今日あった些細な出来事だった。


 そして何気ない口調でその「爆弾」を投げ落とした。


 「そういえばね、この前友達に連れられて遊園地に行ったんだけど、その友達があなたを見かけたって言ってたよ」


 「……っ」


 喉を通ろうとしていた水が、変なところに入りそうになった。


 俺は激しくむせ込みながら、なんとか声を絞り出す。


 「……え、友達? ……誰だ?その、友達って」


 あの日、あの場所に彼女がいた。


 それはアルバムの写真で確信していた。


 けれど彼女は俺に声をかけなかった。


 その理由を俺は「雰囲気で勘違いしただけだ」と自分に言い聞かせていた。


 だが、事態はもっと最悪な方向へ進んでいたのだ。


 「えっとね、最近たまたま仲良くなった子。話してみたらあなたの学校の生徒さんなんだって!……佐倉さん、って言うんだけどね。すごく礼儀正しくて、可愛い子なんだよ」


 「……佐倉?」


 箸を持つ手が目に見えて震えた。


 佐倉が、俺の彼女と繋がっている?


 いつからだ。


 あの日か。


 絶望的な二択を俺に突きつけたあの瞬間に、彼女は俺の隣にいる綾目先生を撮りながら、もう片方の手で俺の最愛の人を捕獲していたのか。


 「うん。たまたま園内で見つけたんだって。先生、すごく楽しそうに歩いてたよって教えてくれたの。……誰と一緒だったの? って聞いたら、『お仕事の関係の方みたいでしたよ』って。……ねぇ、もしかして佐倉さんにも教えてたりする?」


 彼女は少しだけ悪戯っぽく、けれど疑いを知らない澄んだ瞳で俺を見つめた。


 佐倉はあえて真実を半分だけ伏せて伝えたのだ。


 彼女を傷つけるためではなく、俺を生殺しにするために。


 いつでも真実を暴露できるというナイフを彼女の喉元に添えたまま、俺に微笑みかけている。


 「……ああ。そう、仕事の相談があってな」


 「ふふ、やっぱり。佐倉さんもね、『先生、学校でもすごく頼りにされてるんですよ』って褒めてたよ。なんか不思議だよね、生徒さんが先生を褒めるのって」


 ふふ、と彼女が微笑むたびに俺の心臓は磨り潰されるような痛みを覚える。


 佐倉は俺の知らないところで、俺の最も大切な場所に侵入していた。


 そして綾目先生もまた、あの日佐倉がいたことを知っていて俺を旅館へ連れて行った。


 俺を取り巻く女たちは全員が繋がっていた。


 俺だけが何も知らずに、自分だけが秘密を抱えていると思い込んでいたのだ。


 「……今度、佐倉さんを家にお招きしてもいいかな? あなたの学校での様子もっと聞きたいし。逆家庭訪問みたいな?」


 彼女の無邪気な提案が最後通牒のように響いた。


 外では乾いた夜風が窓を叩いている。


 俺は逃げ場のない檻の中でただ頷くことしかできなかった。


 ───


 その日は朝から微熱があるような、現実感の欠けた一日だった。


 数日前の彼女の提案通り、佐倉が本当に俺の家へとやってきた。


 学校での制服姿とは違う、清楚な私服に身を包んだ彼女は玄関先で「お邪魔します」と完璧な淑女の礼儀を見せた。


 「先生、今日はお招きいただきありがとうございます」


 その声はどこまでも澄んでいて、毒など一滴も混じっていないように聞こえた。


 彼女は、「いらっしゃい! さあ、入って」と手放しで歓迎している。


 俺にとっては自分の心臓を抉り出すナイフを自ら招き入れたようなものだった。


 リビング。


 俺と佐倉がソファに座り、彼女は「今、美味しいお菓子出すからね」とキッチンへと向かった。


 流しの音、食器が触れ合う音が聞こえ、俺たちの視界から彼女の背中が消える。


 その瞬間だった。


 佐倉が音もなく俺の隣に距離を詰めた。


 甘い石鹸の匂いが俺の鼻腔を突く。


 彼女は俺の顔を覗き込み、唇を俺の耳元に寄せた。


 「奥さん、とっても素敵な人ですね」


 吐息が耳をくすぐる。


「いえ、彼女さんでしたか」


 その熱が背筋を凍りつかせる極寒へと変わる。


 「……壊すのが、もったいないくらい」


 俺の喉がヒュッと鳴った。


 立ち上がろうとする俺の太ももを、佐倉の手が鋭い力で押さえつける。


 彼女の目は笑っていなかった。


 ただ目の前の獲物をどう料理するかを愉しむ、捕食者の冷徹な光を宿している。


 「あ、そうだ。先生のスマホ、テーブルの上にありましたよね」


 彼女は俺のスマホを手に取ると流れるような手つきで操作した。


 パスコードなど彼女にとっては無意味だったのかもしれない。


「何をしてる……!」と声を荒らげそうになったが、キッチンの彼女に聞かれるわけにはいかない。


 「はい。今、先生のスマホからあるメッセージを送っておきました。……先生が今一番会いたいと思っている人に」


 その直後、俺のスマホが机の上で短く震えた。


 届いたのは綾目先生からのメッセージ。


 だが、その内容は――。


 『丁度良かったです。今、先生の家の前にいます。……どうしても、お話ししたくて』


 血の気が引いた。


 佐倉は俺のスマホを使って綾目先生をここに呼び出したのだ。


 学校外では干渉しないという、あの唯一の救いだったルールを佐倉は平然と踏みにじった。


 「先生、顔色が悪いですよ? ……ほら、奥さんが戻ってこられます」


 佐倉は素早く距離を取り、いつもの教え子の表情に戻る。


 キッチンから彼女がケーキの乗った皿を運んで戻ってきた。


 「お待たせ! ……あれ、あなたどうしたの? 汗、すごいよ?」


 「……いや、少し暑い気がして」


 俺の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで玄関のチャイムが鳴り響いた。


 ピンポーン、というその乾いた音が俺の平和な日常の終わりを告げる弔鐘に聞こえた。


 玄関のチャイムが静まり返ったリビングに鋭く突き刺さる。


 俺は椅子に縛り付けられた死刑囚のような心地で、重い足取りで玄関へ向かった。


 震える手でドアノブを回す。


 そこに立っていたのは佐倉の巧妙な偽通知に呼び出された、綾目先生だった。


 「……先生。急にごめんなさい。メッセージ、あんな切実な……」


 彼女の言葉が途切れる。


 俺の背後に不審そうな、けれどまだ敵意を持たない恋人の気配を感じたからだ。


 綾目先生の瞳が驚愕に揺れる。


 彼女にとってここは絶対に踏み込んではいけない俺という男の「最奥」だったはずだ。


 「……どなた? 先生の知り合いの方?」


 背後から彼女の声がした。


 その声には得体の知れない女が玄関に立っていることへの微かな、けれど確かな不信感が混じっている。


 俺は喉を鳴らし、言い訳を探した。


「あ、あぁ。あの話してた後輩の。この前、電話してくれただろ?」


 けれど思考は焼けた回路のように火花を散らすばかりで、何も形にならない。


 その膠着した空気を切り裂いたのは背後から滑り出してきた佐倉の声だった。


 「あ、私の知ってる先生です! 綾目先生、ですよね?」


 佐倉は無邪気さと白々しさを完璧に装い、俺と彼女の間をすり抜けて玄関口へと躍り出た。


 その瞳は獲物を追い詰めた快悦に爛々と輝いている。


 「わあ、奇遇ですね! 先生も私の他にもう一人、ゲストを呼んでたなんて。……あ、こちらが先生の奥……じゃなくて、彼女さんですよ。綾目先生?」


 佐倉の言葉が地雷のように足元で爆発した。


 綾目先生の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。


 彼女は俺のスマホから送られた「今すぐ会いたい」という言葉を信じ、すべての理性を捨ててここに来たのだ。


 そこに待っていたのが自分を嘲笑う教え子と、自分が一番憎み、そして一番羨んでいる「本物の彼女」だとは夢にも思わずに。


 「……彼女、さん」


 綾目先生が壊れた機械のようにその言葉をなぞった。


 彼女の視線が俺の隣に立つ彼女へと向けられる。


 そこには自分には決して許されない、陽の光を浴びた「正解」の正しい女が立っていた。


 「……初めまして。同じ学校で働いている、綾目です」


 綾目先生は震える声でそれだけを絞り出した。


 教師としての仮面が今にも粉々に砕け散りそうだ。


 対して俺の彼女は、佐倉の明るい紹介に戸惑いながらも持ち前の善良さで「先生のお友達なら、どうぞ入ってください」と言いかけて――。


 ふと彼女の視線が止まった。


 綾目先生の首元。


 俺達互いに旅館で刻み、彼女が必死に隠していたはずのあの跡。


 激しく動揺した拍子にその襟が僅かに乱れ、生々しい赤紫色の痕跡が玄関の灯りの下に晒されていた。


 「……先生。その、首の……」


 彼女の呟きが密室のような玄関に重く響いた。


 佐倉が満足げに目を細める。


 幕は上がった。


 俺の日常という名の薄氷が音を立てて崩壊し始めた。

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