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目線

 「……綾目先生。先に行っていてください。少し、彼女と話があります」


 「わかりました。先生、また後で」


 綾目先生は淀みのない足取りで校内へと消えていく。


 その後ろ姿は昨夜の壊れた女の片鱗すら感じさせないほど凛としていた。


 佐倉は去っていく綾目先生の背中と俺の顔を交互に眺めた。


 そして花が綻ぶような、けれど心までは決して届かない微笑を浮かべた。


 「おはようございます、先生。……()()()()とお疲れのようですね」


 「……佐倉。お前の望み通りだ。満足か?」


 俺の問いに佐倉は何も答えず、代わりに手にしたスマホの画面を俺に向けた。


 そこには土砂降りの雨の中、俺と綾目先生が寄り添うようにして古い旅館の門をくぐる姿が映っていた。


 隠し撮り特有の少し荒い、けれど決定的な映像。


 「先生、いい『上書き保存』ができましたね」


「それは、少し卑怯なんじゃないか?」


 俺は冷や汗を垂らしながらそう言う。


 彼女の声は朝の空気の中で残酷なほど澄んで響いた。


 「自分から進んで汚泥に飛び込む先生の姿、とっても素敵でしたよ。……これであの眩しすぎる彼女さんのところへ帰る時、先生の胸には何が残るんでしょうね」


 彼女はスマホをポケットに収め、俺に一歩近づいた。


 昨夜綾目先生に刻まれた跡が、襟元で熱を持っているような錯覚に陥る。


 「抱く。……先生はそっちを選んだ。……殺すよりもずっと難しくて残酷な、魂の汚染を選んだんです。……おめでとうございます、先生。これで先生も私や綾目先生と同じ……こっち側の住人です」


 佐倉は俺の横をすり抜けて校舎へと歩き出す。


 すれ違いざま、彼女の制服から微かに昨日と同じ石鹸の匂いがした。


 「さあ、授業に行きましょう。……今日はどんな物語を純真無垢な生徒たちに教えるんですか?……その穢れた口で」


 俺は手元にあるお土産の袋を強く握りしめた。


 中に入っているのは甘いお菓子のはずなのに。


 今の俺にはそれが何よりも重く、呪わしい偽りの証拠品のように感じられてならなかった。


 ───


 校門で佐倉と別れてから一日の記憶がほとんどない。


 機械的に黒板を埋め、生徒の質問に答え、同僚と談笑する。


 首元を隠すような仕草を無意識に繰り返しながら、俺は完璧に「教師」という役を演じきった。


 その隣で綾目先生もまた、いつもの穏やかな後輩として完璧に振る舞っていた。


 昨夜あの畳の上で俺に縋り付いた女が今、職員室で茶を啜っていた。


 その歪な現実に眩暈を覚えながら、俺は夜の住宅街を歩いた。


 玄関の鍵を開けると、一瞬の静寂の後激しい勢いで扉が開いた。


 「……っ、おかえりなさい!」


 靴を脱ぐ間もなく、彼女が俺の胸に飛び込んできた。


 細い腕が俺の背中に回される。


 その必死な力強さに、俺の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。


 彼女の髪から香る、いつも通りの安心するシャンプーの匂い。


 それが昨夜の旅館の湿った畳の匂いを暴力的に掻き消していく。


 「どこに行ってたの……!。仕事に行くって言ったきり、一晩中連絡も取れないし、事故にでも遭ったんじゃないかって……」


 見ると、彼女の瞳は赤く腫れていた。


 一晩中眠れずに俺を待っていたのだろう。


 俺は自分がどれほど残酷なことをしたのか、その重みに改めて押し潰されそうになる。


 異性と、それも教え子の策略に嵌まり、後輩の女と肌を重ねた。


 そんな真実をこの純粋な涙の前に晒せるはずがなかった。


 「……ごめん。電波の悪い場所だったんだ。充電も切れちゃって。……心配させて本当に悪かった」


 嘘だ。


 言葉を吐き出すたびに、喉の奥が焼けるように痛む。


 俺は震える手でカバンから旅館の包装紙に包まれた箱を取り出した。


 「これ、……お土産。あまり良いものじゃないけど」


 彼女は俺の手からお土産を受け取ると、子供のように顔を輝かせた。


 たった一箱の菓子で彼女の不安は霧散していく。


 そのあまりに容易な救済が今の俺には何よりも恐ろしかった。


 「ありがとう……!けれど私、あなたが無事ならそれだけでいいの。……お腹空いてるでしょ? すぐにご飯にするね」


 彼女は大切そうに箱を抱えて、パタパタとキッチンへ駆けていった。


 俺はリビングに一人取り残される。


 視界の端で先日届いたあの真っ白なワンピースが、クローゼットの隙間からこちらを覗いているような気がした。


 俺はソファに深く沈み込み、顔を覆った。


 佐倉の動画。

 綾目先生の執着。

 そして彼女の無垢な愛情。


 俺の日常はもう元通りにはならない。


 お土産の箱に隠した罪悪感は、いつかこの部屋のすべてを腐らせてしまうだろう。


 キッチンから聞こえる包丁の規則正しい音が、まるで俺の余命を刻む秒針のように響いていた。


 彼女は嬉しそうに包装紙を解いている。


「わあ、美味しそう。明日、一緒に食べようね!」


「、あぁ」


 その屈託のない笑顔を直視できず、俺は洗面所へ逃げるように向かった。


 鏡に映る自分は驚くほど「普通」の顔をしていた。


 あんな地獄のような夜を過ごし、後輩の狂気に触れ、教え子に人生を握られている男の顔には見えない。


 それが何よりも恐ろしかった。


 俺もまた、綾目先生と同じように壊れた内側を隠して「まともな外殻」を再構築する術を身につけてしまったのだ。


 夕食の席、彼女は昨夜の嵐がいかに怖かったかを一生懸命に話してくれた。


 俺は相槌を打ちながら、彼女が作ってくれた味噌汁を口に運ぶ。


 温かくて、優しくて、正しくて。


 その味が今の俺には毒のように染み渡る。


 ふと学校での綾目先生を思い出す。


 彼女は学校の外では決して俺を追い詰めるような真似はしない。


 連絡先を知っていても、プライベートな時間にメッセージを送ってくることもない。


 旅館でのあの激情が嘘だったかのように、彼女は職務と日常の境界線を潔癖なまでに守り続けている。


 だが、それが逆に俺の精神を削る。


 干渉してこないということは俺が学校へ行くまでその続きが保留されているということだ。


 校門をくぐれば、またあの消えない跡を共有した二人の時間が始まる。


 彼女は俺の日常を壊そうとはしない。


 ただ、俺の日常の半分を自分だけの領域として完全に支配してしまったのだ。


 「……ねえ、どうしたの? 箸、止まってるよ」


 彼女が心配そうに顔を覗き込んできた。


 「……いや。お土産、喜んでもらえてよかったと思って」


 「もう、大げさなんだから」


 彼女は笑って、俺の手の上に自分の手を重ねた。


 その温もりに触れるたび、俺の脳裏には昨夜の雨に濡れた旅館の畳がフラッシュバックする。


 綾目先生の好きです、という囁きが彼女の明るい声に重なって聞こえる。


 俺はもう、どちらが本当の自分なのか分からなくなっていた。


 彼女と過ごすこの穏やかな時間が本物なのか。


 それとも佐倉に監視され、綾目先生と秘密を共有しているあの閉ざされた学校が本物なのか。


 「明日も早いんでしょ。準備、手伝おうか?」


 「……ありがとう。でも、大丈夫だよ」


 俺は彼女の手を優しく握り返した。


 この手を離す勇気も、すべてを打ち明ける覚悟も俺にはない。


 俺はこれからもこの綺麗な日常を嘘で塗り固めながら佐倉の掌の上で、そして綾目先生の沈黙の中で踊り続けていく。


 ───


 夜が深まるにつれ、外はまた静かな雨が降り始めていた。


 あの嵐のような激しさはない。けれどどこまでも冷たく、地面を濡らし続ける雨だった。


 数日が経ち、日常は静かに、けれど確実に摩耗していた。


 学校では綾目先生との間にあの出来事を微塵も感じさせない理想的な後輩としての壁が再構築されている。


 それが彼女なりの、この歪んだ世界での処世術なのだろう。


 「先生お疲れ様です。先日の遊園地の写真、現像したんです。もし良かったら、一冊にまとめたので見てください」


 放課後の職員室。


 他の教師たちが採点や会議の準備に追われる喧騒の中、綾目先生が控えめな笑顔で一冊の薄く小さいアルバムを俺のデスクに置いた。


 表紙には遊園地のキャラクターが描かれた、どこにでもある市販のアルバムだ。


 「……ああ、ありがとう。わざわざ悪いな」


 俺は周囲に悟られないよう、自然な動作でそれを受け取った。


 指先に触れるビニールの感触が、あの日の高揚とその後の絶望を同時に呼び覚ます。


 彼女は「失礼します」と軽く会釈して、自分の席へと戻っていった。


 俺は独り、ページを捲る。


 最初の方はあの日俺たちが「子供に戻って」楽しんでいた瞬間の切り抜きだった。


 そこには確かに偽りのない幸福が写っていた。


 たとえそれが嵐の前の僅かな猶予に過ぎなかったとしても。


 中盤を過ぎる。


 ページを捲るたびに胸の奥が締め付けられるような、甘酸っぱい痛みが走る。


 だが、最後の一枚を捲った瞬間、俺の心臓は凍りついた。


 「……っ」


 それはどのアトラクションでも、どの風景でもなかった。


 人混みの中、遠くのベンチに座って誰かを待っているような一人の女性の横顔。


 ピントは甘いが、その服装、その髪型、その独特の待ち姿。


 俺の彼女だった。


 場所はあの日、俺たちがいた遊園地の中。


 俺が綾目先生と手を繋ぎ、笑い合っていたそのすぐ近く。


 彼女はあの日、俺を驚かせようと内緒で来ていたのか。


 それとも何かに気づいて俺を追ってきたのか。


 そして何より恐ろしいのは、なぜ綾目先生のアルバムの中にこの写真が紛れ込んでいるのかということだ。


 綾目先生は撮影している最中に彼女に気づいていたのか。


 気づいた上であの日、俺を旅館へと誘ったのか。


 「先生、どうしました? 何か気になる写真でもありましたか?」


 遠くの席から、綾目先生の声がした。


 振り返ると彼女はいつも通りの、穏やかで献身的な後輩教師の顔で俺を見ている。


 その瞳の奥には何の意図も、何の悪意も読み取れない。


 けれどその完璧な無垢こそが、今の俺には最大の脅威だった。


 学校外では干渉してこないはずの彼女が、写真という形で俺の聖域である恋人の姿を突きつけてきた。


 これは偶然か、それとも。


 俺は震える手でアルバムを閉じ、深く息を吐いた。


 窓の外ではまた不穏な雲が夕陽を隠そうと広がり始めていた。




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