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盲愛の密室

 チケットを握りしめゲートをくぐった瞬間。


 そこには佐倉の呪詛も、彼女への罪悪感も出口のない日常も存在しない「虚構の王国」が広がっていた。


 俺は隣で少女のように瞳を輝かせる綾目先生の手をぎゅっと握りしめる。


 抱く。


 殺す。


 そんな禍々しい選択肢は色とりどりの風船と陽気なパレードの音楽がかき消してくれた。


 今日だけは。


 この魔法が解ける閉園までは、俺はただの仕事仲間として彼女と笑い合ってもいいはずだ。


 「先生、見てください! ティーカップ、あんなに回ってますよ!」


 「……目が回りそうだな。よし、乗ろうか」


 最初に選んだのは、子供騙しのティーカップだった。


 ハンドルを夢中で回し、景色が極彩色に混ざり合っていく。


 三半規管を揺らす遠心力の中で綾目先生の弾けるような笑い声だけが鼓膜に届く。


 視界が回る。世界が歪む。


 けれど、その目眩は恐怖ではなく高揚だった。


 佐倉が用意した暗い部屋よりも、この回転するカップの中の方がずっと「生」を実感できている気がした。


 「次はあれに乗りたいです!」


 彼女が指差したのは絶叫マシンの代名詞である巨大なジェットコースターだった。


 ガタガタと鎖の音を立てて空へと昇っていく。


 頂点に達した瞬間、園内が一望できた。


 そこには俺を縛り付ける学校も生活も何も見えない。


 ただ青い空と、隣で「こわいです!」と叫びながら俺の手を強く握り返す温かな手の感触があるだけだ。


 「いっきましょう!」


 猛烈な重力が体を押し付け、風が鼓膜を叩く。


 叫び声を上げると、心臓の奥に溜まっていた澱が少しずつ剥がれ落ちていく感覚があった。


 落下する恐怖。


 けれどそれは「死」の恐怖ではなく、生きているからこそ味わえる、純粋なスリルだ。


 「ふーっ! 死ぬかと思いました!」


 コースターを降り、ふらつく足元を支え合う。


 綾目先生の頬は赤らみ、乱れた髪を直す仕草さえも今はただ愛おしい。


 俺たちはその後も子供に戻ったようにアトラクションを巡った。


 シューティングゲームでは俺のあまりに低いスコアに彼女がお腹を抱えて笑い。


 メリーゴーランドでは上下する木馬に揺られながら、夕暮れ前の穏やかな光に包まれた。


 チュロスを半分こにして食べ、キャラメルポップコーンの匂いに鼻をくすぐられながら人混みを縫って歩く。


 「先生、あそこの着ぐるみと写真撮りましょう!」


 「おい、俺はもういい大人なんだぞ」


 「俺は、って何ですか!私も大人です!でもまぁ、今日だけは特別ということで、へへ。はい、チーズ!」


 カメラのシャッター音。


 保存された画像の中の俺は自分でも驚くほど素直な笑顔を浮かべていた。


 虚無を食事で塗りつぶすのではない。


 今この瞬間を彼女と共有している喜び。


 それは佐倉が言ったコストや物語なんて言葉では到底説明できないくらい透明で、残酷なほど美しい時間だった。


 日は次第に傾き、園内の灯りが一つまた一つと点り始める。


 空は茜色に染まり、パレードの華やかな光が遠くから近づいてくる。


 魔法が解けるまでの時間は、あと少し。


 「先生……私、今日のこと、一生忘れません」


 綾目先生が俺の腕にそっと寄り添う。


 その言葉が幸せな一日の終わりを告げると同時に、俺が背負う「現実」を静かに呼び戻し始めていた。


 賑やかなパレードの音楽が遠くで霞んでいく。


 俺たちは最後の目的地である巨大な観覧車の列に並んだ。


 ライトアップされた鉄の骨組みは夜の闇に浮かび上がる蜘蛛の巣のようにも見えた。


 ゴンドラに乗り込み、扉が重い音を立てて閉まる。


 そこは外界から隔絶された、わずか数立方メートルの密室だった。


 「わあ……綺麗。先生、見てください。あっち、海が見えますよ」


 綾目先生が窓に張り付いて子供のように声を弾ませる。


 ゴンドラがゆっくりと静かに上昇していく。


 地上から離れるにつれ、楽しかった一日の喧騒が遠のき、代わりに俺の鼓動の音が耳元で大きく鳴り響き始めた。


 中腹を過ぎた頃、視界が広がった。


 宝石を撒き散らしたような夜景。


 だが、遥か彼方の水平線にあるその小さな光の粒を、俺は見つけてしまった。


 俺たちが明日も向かわなければならない、あの無機質な校舎。


 そしてあの少女が待つ、暗い部屋。


 さらに遠くには俺を信じて待っている、あの彼女との「日常」が息づく街の灯。


 一気に現実に引き戻される。


 冷たい汗が掌を濡らす。


 これほどまでに視力を恨んだことはない。


 「先生……?」


 俺の沈黙を不安に思ったのか、綾目先生がこちらを振り向いた。


 観覧車の狭い空間で彼女の体温が、吐息がすぐそこに感じられる。


 今この手で彼女を抱き寄せて、唇を重ねれば。


 あるいはこの細い首を絞めてこの美しい夜景の一部にしてしまえば。


 佐倉の課した「課題」が、鋭利な刃物となって俺の喉元に突きつけられた。


 抱くか、殺すか。


 どちらを選んでもこの純粋な笑顔は二度と見られない。


 彼女を汚すか、終わらせるか。


 俺は地獄への片道切符を既にこの手に握らされているのだ。


 「先生、私……。今日、誘ってもらえて本当に嬉しかったんです。本当は、ずっと……」


 綾目先生が意を決したように俺のコートの袖を掴んだ。


 彼女の瞳に頂上の灯りが反射して、涙のように揺れている。


 ゴンドラが最高到達点に達しようとしていた。


 この頂上の静寂の中で、俺はどちらの引き金を引くのか。


 すると突然、コートのポケットの中でスマホが心臓の鼓動を急かすように激しく震えた。


 俺は強張った指先で端末を取り出す。


 画面に浮かび上がったのは、愛する彼女の名前だった。


 「……っ」


 通話ボタンを押すと、受話口から焦燥に満ちた彼女の声が飛び込んできた。


 『……もしもし! よかった、繋がった! 今どこにいるの? さっきテレビの速報で、これから激しい雷雨が向かってるって……。空が、真っ黒で怖いくらいなの。お願い、早く帰ってきて』


 「ああ……。大丈夫だ、もうすぐ帰るよ。心配させてごめん」


 彼女の震える声。


 それは俺が守るべきはずだった、唯一の平穏からの警笛だった。


 窓の外を見ると、遠くの空が不気味な紫色の光に染まり、巨大な積乱雲が街を飲み込もうと這い寄ってきている。


 だが地獄からの通知はそれだけでは終わらなかった。


 通話を切る間際、一通のメッセージが画面を上書きする。


 送信者は佐倉。


 『いい眺めですか? 先生』


 添えられた画像を開いた瞬間、俺は肺から空気がすべて抜けていくような衝撃に襲われた。


 それは今まさに夜空の頂点に位置するこの観覧車を、地上から望遠レンズで捉えた写真だった。


 ゴンドラのシルエットの中に俺と綾目先生が密着して座っている姿が鮮明に、残酷に写し出されている。


 彼女はそこにいる。


 俺が子供に戻ったみたいに遊んでいた間も。


 この閉鎖された空間で抱くか、殺すかという葛藤に塗れていた間も。


 佐倉は暗闇の底からずっと、俺たちの「不倫」の証拠を積み上げていたのだ。


 「先生……? どうかしたんですか? 顔色が真っ青ですよ」


 綾目先生が心配そうに顔を覗き込み、俺の手にそっと触れた。


 その温もりが今は焼けるような熱を帯びて感じられる。


 ピカッ、と窓の外で巨大な稲光が走った。


 数秒後、ゴンドラを揺らすほどの激しい雷鳴が轟く。


 同時に大粒の雨が窓を叩き始めた。


 視界が一瞬にしてノイズのような雨脚に遮られていく。


 「きゃっ……!」


 怯えた綾目先生が俺の胸に飛び込んできた。


 嵐に揺れる密室。


 地上からの死神の視線。


 そして、帰りを待つ恋人の祈り。


 俺は泣きそうな顔で俺を見上げる綾目先生の肩を抱き寄せながら、スマホの画面に映る佐倉からの写真をただ見つめ続けることしかできない。


 激しい雷雨は俺たちの偽りの楽園を容赦なく壊滅させようとしていた。


 激しい雨がすべてを塗りつぶしている。

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