地獄への招待
放課後の国語準備室。
夕陽が埃の舞う部屋をどろりと赤く染めている。
机を挟んで向かい合う佐倉はメイクではなく、高い襟の制服を着て指趾を隠し、優雅に茶を啜っていた。
「呼び出しに応じてくれて嬉しいです。……はい、これ。今日の『教材』です」
彼女が机に置いたのはあの日届いた写真の、さらに鮮明な別カットだった。
俺が彼女の首を絞め、理性を失っている決定的瞬間。
それがまるで芸術作品のように綺麗に現像されている。
「これを燃やして、なかったことにしたい。……先生はそう願っていますよね?」
「……条件は何だ」
俺は絞り出すように言った。
佐倉は待ってましたと言わんばかりに目を細め、残酷なまでの無邪気さで口を開いた。
「次の課題です。先生、綾目先生に『ご褒美』をあげてください。……具体的に言えば、彼女と肌を重ね、性交してください」
「……っ、何を、言ってるんだ」
頭が真っ白になった。
耳を疑うような言葉に吐き気がこみ上げる。
「綾目先生、可哀想ですよ。先生に彼女がいることを知っていて、それでも諦めきれずに毎日先生の背中を追っている。……そんな健気な後輩に、一夜の夢くらい見せてあげてもバチは当たらないでしょう? 先生にとってはお得意の『上書き保存』に過ぎないんですから」
「ふざけるな! そんなこと、できるわけがない……!」
俺は立ち上がり机を叩いた。
自分を慕ってくれるあの純粋な後輩を汚し、裏切るなんて死んでもできない。
だが佐倉は微動だにせず、俺の怒りを嘲笑うように首を傾げた。
「ああ、やっぱり無理ですか。倫理観が邪魔をしますか? 恋人への忠誠心ですか?」
佐倉はすっと立ち上がると、俺の耳元に口を寄せた。
冷たい吐息が鼓膜を震わせる。
「じゃあ、別の課題にしましょうか。……もっと簡単で、もっと純粋な物語」
彼女は俺のポケットに指を滑り込ませ、あの日から俺が手放せずにいた「鍵」に触れた。
「綾目先生を、殺してください」
背筋に氷の柱が突き刺さったような衝撃が走った。
「抱くか、殺すか。どちらかを選んでください。……先生が綾目先生を抱けば、彼女の心は壊れて私と同じようにこちら側に来れる。もし殺してくれれば、彼女は美しい思い出の中で先生の手によって完結できる」
佐倉は離れ、楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。
「あ、拒否権はありませんよ? もし選ばないならこの写真を学校中に、そして何より先生の眩しすぎる彼女に届けます。……先生、自分だけが綺麗なままでいられると思ったら大間違いですよ」
窓の外ではカラスが不吉な鳴き声を上げている。
夕闇が忍び寄り、準備室の影を色濃くしていく。
俺の目の前にはどちらを選んでも地獄に繋がる二つの扉が用意されていた。
バカバカしい、そう吐き捨ててすべてを妄想だと笑い飛ばせたならどれほど救われただろう。
だが準備室の湿った空気もポケットの中で冷たく沈む鍵も、そして佐倉の底冷えする微笑もすべてが逃れようのない現実として俺の首を絞めている。
俺は自分が書き手ではなく、悪意に満ちた物語の登場人物に過ぎないことを自覚し始めていた。
───
放課後の教室。
授業を終え、逃げるように教卓を離れようとした時その声に呼び止められた。
「先生。少し、いいでしょうか」
振り返ると、そこには女子生徒が立っていた。
雪乃宮怜。佐倉とは対照的に常に冷静沈着。
感情の起伏を排したような鋭い知性と、学年トップを争うまでもない無機質なまでの優秀さ。
彼女は俺を「尊敬」しているわけでも「嫌悪」しているわけでもない。
ただ冷徹な観測者としてそこに存在していた。
「雪乃宮か。……どうした、質問か?」
「いえ。質問ではありません、指摘です」
雪乃宮は淡々と、だが逃げ場を塞ぐような口調で言った。
「先生、なんだか最近様子がおかしいです。バイタルチェックをするまでもなく、判断力が低下しているように見えます。授業中の板書のミス、視線の彷徨い、そして今も、ほら……手の震えが止まっていません」
「……そうかな。少し、寝不足なだけだよ」
俺は精一杯の平静を装って笑おうとした。
だが、彼女の瞳は嘘を嘘として認識しない。
ただ「事実との乖離」としてロジカルに俺を解体していく。
その見透かされているような感覚に背中が粟立つ。
まるで皮膚の下にあるドロドロとした罪悪感を、ピンセットで一枚ずつ剥がされているような気持ち悪さだ。
「先生。もし何かのトラブルに巻き込まれているのなら、それは論理的な解決を求めるべきです。今の先生は非常に効率の悪い隠蔽のプロセスにリソースを割いているように見えますが――」
「雪ちゃん。そこまでにしてあげて?」
背後から鈴を転がすような、けれど芯まで凍てつくような声が響いた。
佐倉だった。
彼女はいつの間に現れたのか教室の入り口に佇み、柔らかく、けれど拒絶を孕んだ微笑を浮かべている。
「佐倉さん。でも、」
「先生、ちょっと疲れが溜まってるだけなんだから。そんなに理詰めで追い込んだら先生が壊れちゃうじゃない」
佐倉は滑るような足取りで俺たちの間に割り込み、俺の肩にそっと手を置いた。
その瞬間俺の全身を支配していた「雪乃宮に暴かれる」という恐怖がスッと引いていくのを感じた。
「……そうね。私の推測が先生のメンタルをさらに不安定にさせているのなら、これ以上の介入は非合理的だわ」
雪乃宮は短くそう告げると、一礼して教室を去っていった。
静寂が戻る。
「……助かった」
思わず本音が漏れた。
佐倉に。
俺を地獄へ引き摺り込もうとしているこの少女に対して、俺は生まれて初めて感謝という名の共犯感情を抱いてしまった。
彼女の毒が今は唯一の解毒剤のようにすら感じられた。
「ふふ、お礼なんていいんですよ。だって、先生を壊していいのは私だけなんですから。雪ちゃんでもダメです」
佐倉は俺の耳元で囁き、そっと肩から手を離した。
「さあ、先生。雪ちゃんみたいな『正論』に捕まる前に、私の課題を選んでくださいね? 抱くか、殺すか。……綾目先生が職員室で先生のことを待っていますよ」
職員室に戻ると綾目先生が落ち着かない様子で俺のデスクの側に立っていた。
俺の顔を見るなり彼女はパッと表情を明るくし、背中に隠していた手を差し出した。
「先生、これ……」
差し出されたのは週末の遊園地のチケットだった。
それもペア。
夕陽に照らされたチケットの鮮やかな色彩が俺の荒んだ視界には酷く不釣り合いに見えた。
「先生、もし、もし良ければ……」
彼女は頬を染め、言葉を濁した。
その震える声に俺は佐倉の「課題」が脳裏をよぎる。
抱くか、殺すか。
最悪の選択肢がこの純粋な好意の上に重なり、歪んでいく。
だが綾目先生ははぁっ、と自嘲気味に笑うと何かを吹っ切ったような清々しい顔で言葉を継いだ。
「あの、彼女さんと一緒に行ってきてください。商店街のくじ引きで、偶然当たったんです。私は……その、予定が入っちゃってて」
俺を、俺の守りたい日常へとそっと押し戻そうとしてくれている。
「それだけです! 失礼します」
彼女は逃げるように背を向けた。
その背中はこの学校の中で唯一、まだ「正しさ」の中にいた。
そのまま行かせてやればいい。
そうすれば彼女は傷つかずに済む。
俺が地獄へ堕ちるだけで物語は留まってくれる。
だが視線の端に職員室のドアからこちらを覗く佐倉の影が見えた。
氷のような瞳が俺の「選択」を急かしている。
「……綾目先生」
俺の体は俺の意志とは無関係に動いていた。
遠ざかる彼女の細い手首を強く、けれど昨夜の佐倉の時とは違う切実さで掴む。
「え……? 先生?」
綾目先生が驚いたように振り返る。
その丸い瞳に自分でも見たことがないほど歪んだ、けれど優しげな顔をした俺が映っている。
「……良かったら、綾目先生。一緒に行きませんか?」
その言葉を口にした瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
これは救済ではない。
彼女を「課題」という名の泥沼へ引き摺り込む、最低の招待状だ。
彼女は、俺が恋人を裏切ろうとしていることなど夢にも思っていない。
「え……っ、私と、ですか? 彼女さんは……」
「いいんだ。……貴方と、行きたいんだ」
嘘。
全部、嘘だ。
だがその嘘に綾目先生の顔がかつてないほど幸福そうに輝きだした。
その輝きが俺には死にゆく者の最後の発火のように見えて、吐き気がした。
俺は彼女の手首を握ったまま廊下の影からこちらを眺める佐倉へと視線を向けた。
佐倉はまるで完成度の高い映画を観ているかのように、満足げに深く、深く頷いた。




