監視家庭
佐倉の家の前に立った俺の指先は夜風のせいだけではなく、ひどく冷え切っていた。
住宅街の静寂が耳鳴りのように響く。
カバンの奥から取り出した鍵を差し込むと、吸い込まれるように音もなく回った。
「……失礼する」
声を絞り出すが返事はない。
玄関の向こう側は外の暗闇よりもずっと深い重質の闇に包まれていた。
廊下を進む。
一歩踏み出すごとに、彼女と過ごしたあの温かな食卓の記憶が遠い過去のように霞んでいく。
リビングのドアの隙間から揺らめく光が漏れていた。
ドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
照明は全て消され、床に置かれた数本のキャンドルだけが不気味に部屋を照らしている。
その中心。
ソファに座っていたのは死装束を思わせる、真っ白なワンピースを纏った佐倉だった。
「……遅かったですね、先生。待ちくたびれて自分から始めちゃうところでした」
彼女の肌は白を通り越して透き通るような青白さを帯びている。
揺れる炎がその瞳に吸い込まれては消えていく。
彼女の足元には、一振りの手入れの行き届いた包丁が置かれていた。
「佐倉。……その格好は、なんだ」
「一番綺麗な自分で終わりたい。そう言うでしょう? 先生に殺してもらうための、これはいわば正装なんです」
佐倉はゆっくりと立ち上がり、裸足のまま冷たいフローリングを滑るように近づいてきた。
石鹸の匂いと微かな蝋の香りが混ざり合う。
彼女は俺の目の前で止まり、その細い首筋をさらけ出した。
「さあ、先生。私の命をここで止めてください。このまま生きていても私は先生の日常を壊し続けるだけの醜いバグにしかなれないから」
彼女の手が俺の震える右手に重なる。
その体温は驚くほど低かった。
「私を殺して。そうすれば先生の眩しすぎる日常は守られます。……ほら、簡単でしょう?」
俺は足元に転がる刃物を見つめた。
これを手に取れば俺は一線を越える。
教師であることを捨て。
彼女の恋人であることを捨て。
ただの殺人者になる。
「……俺は、お前を」
「殺してください。先生のその手で私を美しく、完結させて」
彼女の瞳に狂おしいほどの期待が満ちる。
キャンドルの炎が大きく爆ぜた。
その瞬間、俺の脳裏には先ほど「ありがとう」と言って笑った彼女の顔と、今俺を見つめる佐倉の絶望が狂ったように混ざり合い、渦を巻いていた。
俺は足元に転がっていた包丁をひったくるように掴みあげた。
重い。
鈍く光る刃がキャンドルの炎を反射して狂暴にぎらついた。
佐倉はまるで最愛の恋人を出迎えるような慈愛に満ちた瞳でその切っ先を見つめている。
彼女の胸元心臓がある位置にゆっくりと刃先を当てる。
薄い白い生地越しに彼女の命の鼓動が指先へ、腕へ、そして俺の脳髄へと伝わってきた。
「……あ」
佐倉が短く吐息を漏らす。
あと数センチ。
もうちょっと力を込めればこの狂った物語は終わる。
彼女の絶望も俺の怯えも全てが鮮血の中に沈んで永遠に完結するはずだった。
だが。
カラン、と乾いた音がリビングに響いた。
俺は包丁を床へ投げ捨てていた。
「……こんな道具はいらない」
佐倉が呆気に取られたように目を見開く。
その完璧に計算された幕引きを台無しにされた困惑が、彼女の顔を支配した。
「先生……?」
その声を遮るように俺は両手を伸ばした。
彼女の細い首を力任せに壊すつもりで握りしめる。
昨日、彼女の手首を掴んだ時とは比較にならないほどの殺意。
指が喉を、血管を、彼女の存在そのものを圧迫していく。
「が……っ、は……!」
佐倉の顔が一瞬で苦悶に歪んだ。
白い指先が俺の腕を叩き、逃れようともがく。
だが俺の力は弱まらなかった。
むしろ彼女の苦しむ姿を見るほどに、脳内にドーパミンが溢れ出すのを感じていた。
そうだ。
これを殺せば俺の日常は守られる。
あの眩しすぎる彼女との生活が。
明日も明後日も、十数年後も続くあの「同じことの繰り返し」の日々が。
それがどれほど空虚な反復であろうと。
それが佐倉が指摘した塗りつぶされた虚無であろうと。
俺は今、都合よくその事実を記憶の底に追いやり、ただ眼前の障害を取り除くことだけに没入していた。
「死ね……死ねよ、佐倉。お前みたいな異物がいなければ、俺は、俺でいられるんだ……!」
俺の指に彼女の爪が食い込む。
痛い。
けれどその痛みが心地いい。
佐倉の瞳から光が消えかけ、焦点が定まらなくなっていく。
もうすぐだ。
あと少しこのまま力を込め続ければ、俺は元通りの平和な死んだ魚の目をした男に戻れる。
――ピンポーン。
静寂を切り裂く場違いなほど軽快なチャイムの音。
深夜の住宅街に響くその電子音が俺の脳内に冷水を浴びせかけた。
「……っ!?」
心臓が跳ね、反射的に指の力が緩んだ。
殺意という名の麻薬が急激に引いていく。
俺の手から力が抜け、佐倉の体が崩れるように床に落ちた。
「げほっ! ごほっ、はぁ……はぁ……っ!」
佐倉は床に這いつくばり、激しく咳き込みながら生を求めるように酸素を求め、喘いだ。
俺は自分の震える両手を見つめ、立ち尽くす。
インターホンがもう一度鳴る。
今度は扉を叩く音まで聞こえてきた。
「すみませーん!少しお時間よろしいでしょうか!聞きたいことがあるのですが!」
聞き覚えのある少し間の抜けた、けれど今は死神の宣告よりも恐ろしい声。
綾目先生だ。
俺は凍りついたまま動けなかった。
床に倒れ伏していた佐倉がゆっくりと顔を上げる。
その首には俺の指の形がはっきりと、痣となって浮かび上がっていた。
「……ふふ、あははっ」
佐倉は掠れた声で笑い始めた。
涙を流しながら頬を赤らめ、それはもうこの世のものとは思えないほどに恍惚とした狂喜の表情だった。
「……失敗、しちゃいましたね? 先生」
彼女は充血した瞳で俺を射抜く。
「惜しかったなぁ。あともう少しで先生もこっち側に来れたのに。……中途半端な日常が先生を呼び戻しちゃった」
ドアの向こう側で綾目先生の声がまだ続いている。
俺は逃げ場のない密室の中で、自分の犯した罪と未遂に終わった救済の残骸にただ打ち震えることしかできなかった。
俺が動けずに立ち尽くしている間、佐倉は這うようにして立ち上がった。
彼女は床に落ちていた包丁を素早く拾い上げると、流し台の下へ放り込む。
キャンドルを吹き消し、何事もなかったかのようにリビングの照明を点けた。
一瞬にしてそこは死の儀式の場から、ただの生活感のない静かな部屋へと変貌を遂げる。
佐倉は首元の痣を隠すようにワンピースの襟を整え、おぼつかない足取りで玄関へと向かった。
俺が止める間もなかった。
カチャリ、と鍵が開く。
「綾目先生。こんばんは。こんな遅い時間に、どうされたんですか?」
「佐倉さん!? よ、よかった……。あ、あの、先生の車が近くにあって。それにその、先生のお家から学校に連絡があって、先生がいつの間にかいないって……」
綾目先生の声が玄関からリビングまで筒抜けに聞こえてくる。
彼女は土足のまま踏み込もうとして、佐倉の顔を見て息を呑んだ。
「……っ! 佐倉さん、その首! どうしたのその跡!」
「立ち話もあれですから綾目先生、中へ入ってください。ちょうど今、先生に手当てをしていただいていたところなんです」
佐倉の声は掠れてはいるが驚くほど落ち着いていた。
招き入れられた綾目先生はリビングに突っ立っている俺と、青白い顔の佐倉を交互に見て狼狽しきっている。
部屋を見渡してもそこにあるのは片付けられた食器と、不自然なほど清潔な空間だけだ。
「先生……これ、一体……」
「……綾目先生。これは、その……」
俺が言い淀んでいると、佐倉がふわりと微笑んで言葉を被せた。
「すみません、驚かせちゃって。私、ドジなんです。重いバッグを首から斜めがけにした状態で玄関の段差で派手に転んじゃって。運悪くストラップが首に食い込んで、一瞬息ができなくなっちゃったんです」
彼女は自分の首に残る生々しい俺の指跡をさも不運な事故の産物であるかのように語り始めた。
「偶然近くを通りかかった先生が私の悲鳴を聞いて駆けつけてくださって……。そのままここまで運んでくださったんです。本当に先生がいてくれなかったら、どうなっていたか」
「えっ……じゃあ、先生は助けてくれたの?」
「はい。でも、ショックで私が過呼吸になっちゃったから落ち着くまで側にいてくださったんです。ね? 先生」
佐倉が俺を振り返る。
その瞳は昨日までの虚無ではなく、俺と共犯者になれたことを心から愉しむ邪悪なまでの光を湛えていた。
彼女が提示したのは救いではない。
「一生この嘘を背負って生きろ」という、死よりも重い呪いだ。
「……ああ、そうだ。あまりにひどい転び方だったから、放っておけなくて」
俺は自分の声が他人のもののように聞こえた。
綾目先生は「そうだったんだ……」と、胸を撫で下ろしている。
純粋な彼女は目の前の少女が嘘をついている可能性も、目の前の先輩教師がその首を絞め殺そうとした可能性も、一ミリも疑っていない。
「よかったぁ……。私、変な想像しちゃって。先生、彼女さんすごく心配してましたよ。早く連絡してあげてください」
「……そうだな。すぐに帰るよ」
俺は逃げるように部屋を出ようとした。
すれ違いざま、佐倉の吐息が耳に触れる。
「また明日、学校で。……先生」
玄関の外へ出ると、夜の冷気が肺に染みた。
見上げた月は冷ややかに俺を見下ろしている。
ポケットの中にはまだあの鍵が入っている。
佐倉を殺せなかった。日常も守れなかった。
俺はただ嘘で塗り固めた昨日よりもさらに醜悪で不安定な「続き」を書き進めることになってしまった。
車に乗り込み、バックミラーを見る。
そこにはもう二度と「眩しい光」の中には戻れない、一人の殺人未遂犯の顔があった。
玄関のドアを開けると、そこには崩れ落ちるように座り込む彼女の姿があった。
俺の姿を認めた瞬間彼女は声を上げて泣き出し、俺の胸に飛び込んできた。
「どこに行ってたの……! 全然連絡もつかないし、もし何かあったらって、私……」
震える彼女を抱きしめる。
その温もり、その涙。
つい数十分前まで自分とは正反対の「死」を望む少女の首を絞めていたこの手で彼女の背中をさする。
罪悪感で吐き気がした。
けれど俺の視線はある一点に釘付けになり、全身の血が凍りついた。
彼女が着ているのは見慣れたパジャマではない。
佐倉が着ていたものと酷似した、装飾のないあまりに純白なワンピース。
「……その服。どうしたんだ?」
俺の声は掠れて震えていた。
彼女は涙を拭い、不思議そうに自分の襟元を触る。
「これ? さっき玄関に届いてたの。送り主は書いてなかったんだけど……ほら、私たちが付き合い始めた頃に私が欲しがってたブランドの限定品で。あなたがサプライズで送ってくれたのかと思って、嬉しくて着ちゃった」
彼女は少し照れたように微笑む。
だが、俺には分かっていた。
それは俺が送ったものではない。
佐倉だ。
あの少女が俺が家を空けている隙に、あるいは俺が彼女の首を絞めている最中にこの死装束を俺の聖域に送り込んだのだ。
彼女の背後、暗いリビングの影がふわりと揺れたような気がした。
そこには誰もいないはずなのに。
佐倉のあの冷徹な氷の微笑が暗がりに浮かび上がって見える。
「あの、さ。綺麗……かな?」
彼女が小首をかしげて尋ねる。
その無垢な問いかけが今は何よりも恐ろしい。
彼女の首元には佐倉にあったような痣はない。
けれどその真っ白な布地は、まるでこれから刻まれる終止符を待つ白紙の原稿用紙のように見えた。
佐倉は死んでいない。
それどころか彼女は俺の人生の続きの中に完全に入り込んできたのだ。
この白いワンピースは彼女を人質に取ったという宣言。
俺が嘘を重ね、日常を守ろうと足掻けば足掻くほど俺の大切なものは佐倉の色に染まっていく。
「……ああ。綺麗だよ」
俺は彼女を強く、壊れそうなほど抱きしめた。
腕の中の彼女は安心したように息をつくが、俺の目は闇の中に潜む佐倉の幻影から目を逸らすことができなかった。
俺の物語は完結し損ねた。
そしてその報いとして俺はこれから永遠に佐倉という名の影と共に、この呪われた「続き」を書き続けていくのだ。
窓の外で風が鳴く。
それは少女の忍び笑いのように聞こえた。
───
数日が過ぎた。
あの日以来、俺の生活は薄氷の上を歩くような奇妙な静寂に包まれていた。
佐倉は学校では何事もなかったかのように振る舞い、首元の痣を上手くメイクで隠して完璧な優等生を演じ続けている。
だが、時折すれ違いざまに投げかけられるあの共犯者を見つめる瞳だけが俺の胃を鋭く抉るのだ。
「ねえ、あなた。手紙が届いてたよ。送り主とか書いてないけど」
夕食の後、彼女がリビングのテーブルに一通の白い封筒を置いた。
その「白」を見ただけで心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
あの日彼女が着せられたワンピースと同じ、濁りのない白。
「中身見てないけどさ。切手も貼ってないし、誰かが直接入れたのかな? あなたのファンだったりして!」
彼女は冗談めかして笑いながら、キッチンへと戻っていった。
中身を見ていない。
その幸運に感謝すべきか、それともこれから訪れる破滅への猶予に絶望すべきか。
俺は震える手で封筒を手に取った。
重みがある。
紙の感触ではない、もっと硬質でツルりとした感触。
封を切り、中身を引き出す。
滑り落ちるように出てきたのは、数枚の写真だった。
「……っ」
最初の一枚を見て、俺は息を止めた。
それはあの夜の佐倉の部屋。
暗がりのなか、キャンドルの火に照らされて佐倉の首を両手で強く絞め上げている俺の姿だった。
アングルは完璧だ。
俺の顔は殺意と絶望が入り混じった、獣のような形相で写っている。
そしてその下で苦悶に歪みながらも、どこか恍惚とした表情を浮かべる佐倉の顔。
隠しカメラが仕掛けられていたのだ。
あの部屋は最初から俺を「完結」させるためのスタジオだった。
二枚目の写真に目を移す。
そこにはキッチンで鼻歌を歌いながら皿を洗っている彼女の背中が写っていた。
窓の外から盗撮されたものだ。
その背中にはあの真っ白なワンピースが、死者の衣装のように張り付いている。
そして最後の一枚。
真っ白な紙に赤いペンで一言だけ書き殴られていた。
『物語の続き、一緒に推敲しましょうね。先生』
その筆跡は間違いなく佐倉のものだった。
俺がいつも添削している、あの几帳面で鋭い文字。
「どうしたの? 難しい顔して。ファンの子じゃなくてやっぱり仕事の話?」
キッチンから彼女が顔を出した。
俺は咄嗟に写真を封筒に隠し、背中に回した。
手のひらにはべっとりと冷たい汗が滲んでいる。
「……いや。なんでもない。ただの、いたずら書きだったよ」
嘘だ。
もう俺の人生の半分以上は嘘でできている。
この写真を彼女に見せられたら全てが終わる。
俺は職を失い、社会的な死を迎え、そして何よりこの眩しすぎる彼女を永遠に失うだろう。
佐倉は俺を殺さなかった。
その代わりに、俺の「日常」という名の檻に一生出られないように鍵をかけたのだ。
俺が彼女を愛し、守ろうとすればするほど俺は佐倉の操り人形として生きていくしかない。
「ねえ。今度のお休み、どこか行かない?」
彼女の無垢な提案が遠くで鳴る弔鐘のように聞こえた。
俺はポケットの中でまだ持っていたあの佐倉の家の鍵を強く握りしめた。
指に食い込む金属の痛みだけが今、俺が生きている唯一の証明だった。




