秘密の指導
「先生、おはようございます。昨日の現代文の課題を提出しに来ました」
教室へ向かう廊下。
朝の喧騒の中で佐倉の声だけが鼓膜に鋭く突き刺さった。
彼女は昨日と同じ澄んだ顔をして、一冊のノートを差し出している。
昨夜あの歩道橋で俺が手首を掴み、狂気的な笑みを浮かべた少女と同一人物だとは到底思えない。
「あ、ああ……。おはよう、佐倉」
俺の声は自分でも情けないほど上ずっていた。
カバンの奥底に沈めたあの冷たい鍵の感触が、今も右手に残っているような気がする。
「えっ、現代文の課題?」
「昨日そんなの出てたっけ?」
周りにいたクラスメイトたちが一斉に顔を見合わせた。
ざわざわと、不穏な空気が教室の入り口付近に広がる。
佐倉は成績優秀で提出物を忘れるような生徒ではない。
その彼女が「課題」と言えば、クラス全員が「自分たちが忘れているのではないか」と疑心暗鬼に陥るのは当然だった。
「やばい、俺やってない!」
「嘘でしょ、範囲どこ?」
混乱が波及していく。
生徒たちの視線が審判を仰ぐように俺へと集中した。
俺の背中を冷たい汗がだらだらと伝い落ちる。
ここで言葉を間違えれば昨夜の密会すらも芋づる式に引きずり出されるかもしれない。
「……あ、いや。落ち着け、お前ら。提出する課題なんて出てないぞ」
俺は乾いた喉を鳴らしながら、苦し紛れの言葉を絞り出した。
佐倉はじっと俺を見つめている。
その瞳の奥には俺の動揺を愉しむような、残酷な光が宿っていた。
「これはその……佐倉さんが個人的に文章の添削をしてほしいって言ってたやつだ。自主学習だよ。だからみんなは心配しなくていい」
「……ああ、なんだ。びっくりした」
「さすが佐倉さん。意識高すぎ」
安堵の溜息が漏れ、クラスメイトたちの関心は霧散していった。
だが、俺の心臓の音はさっきよりも激しくなっている。
佐倉はノートを俺の手に押し付けるようにして渡した。
「ありがとうございます、先生。……すごく丁寧に書いたんです。昨日先生に言われた『続き』を意識して」
彼女は周りに聞こえないほどの小声で囁いた。
その吐息が耳をかすめ、俺は思わず身を震わせた。
「感想、聞かせてくださいね。……鍵、失くさないでくださいよ?」
彼女は優等生らしい爽やかな会釈を残して、自分の席へと戻っていった。
手元に残されたノート。
昨夜見た『構成案』の続きがさらに緻密な筆致で書き加えられているのが分かった。
俺は激しい眩暈に襲われながら逃げるように職員室へと足を早めた。
一晩で俺の世界は完全に彼女の掌の上へと移り変わっていた。
───
四時限目が終わり、昼休憩を告げるチャイムが鳴る。
ノートを抱え、逃げるように職員室へ戻るとデスクの隣から明るい声がした。
「あ、先生! お疲れ様です。顔色、あんまり良くないですよ?」
声をかけてきたのは一年後輩の綾目先生だ。
同じ新米教師として何かと俺を頼りにしてくれる。しかし、同じ教師に先生と呼ばれるのには未だに慣れない。
おっとりとした垂れ目と柔らかい物腰。
どこか家で待つ彼女に似た雰囲気を持っていて、つい甘やかしてしまう存在だ。
「……ああ、ちょっと寝不足でさ。大丈夫だよ」
「本当ですか? 先生、頑張りすぎですよ。……あ、もしよかったら一緒にお昼食べませんか? 今日、お弁当作りすぎちゃって」
彼女が恥ずかしそうに自作の弁当箱を持ち上げる。
職員室を見渡すと、ベテランの先生たちがニヤニヤしながらこちらを伺っていた。
ここで広げれば午後からの、格好の茶化し相手にされるのは目に見えている。
「……そうだな。でも、ここは少し騒がしいし。国語準備室で食べようか。あそこなら静かだしな」
「はい! 行きましょう!」
綾目先生の屈託のない笑顔。
それは昨夜から泥沼に足を取られていた俺にとって、唯一の救いのように見えた。
二人で準備室に向かい、古びたソファに腰を下ろす。
「はい、先生の分。卵焼き甘いのと塩っぱいのあるんですけど、どっちがいいですか?」
「……甘いやつを」
差し出された卵焼きを口に運ぶ。
優しい家庭的な味。
昨夜のオムライスの味と重なり、俺の強張っていた肩の力が少しだけ抜けていく。
佐倉のこと、鍵のこと、壊れかけた日常。
彼女や綾目先生と話している間だけはそれらを全て「なかったこと」にできるような気がした。
「先生って本当に生徒想いですよね。今朝も佐倉さんと熱心にお話しされてましたし。私、尊敬しちゃいます」
綾目先生が尊敬の眼差しを向けてくる。
その純粋な言葉が今の俺には鋭いナイフとなって突き刺さる。
「……いや、そんな大層なもんじゃないよ」
「そんなことないです。私、先生みたいに生徒の心の奥まで寄り添える教師になりたいんです」
彼女の瞳は一点の曇りもなく澄んでいる。
もし、彼女が俺のポケットにある『鍵』の存在を知ったら。
もし、俺が女子生徒に殺人をせがまれていると知ったら。
その瞳はどんな絶望に染まるだろうか。
その絶望を見てみたいとさえ思ってしまう。
「……綾目先生。もし、自分の手に負えないような物語が始まったらどうする?」
「え……? 物語、ですか?」
俺は自分でも制御できない言葉を漏らしていた。
綾目先生は少し考えてふんわりと笑った。
「私なら……信頼できる人に半分持ってもらいます。先生、私で良ければいつでも半分持ちますよ?」
その優しさが痛い。
彼女は俺が今まさに「共犯者」という名の半分を、佐倉という怪物に預けていることなど露ほども知らないのだ。
「先生、実は。私、先生の……」
綾目先生が少し頬を赤らめて身を乗り出した、その瞬間だった。
無作法な音を立てて準備室の扉が撥ね退けられる。
そこに立っていたのは佐倉だった。
昼の光を背負っているはずなのに、彼女の周りだけが凍てついているような酷く冷ややかな微笑。
「あら。お取り込み中でしたか? 邪魔しちゃってごめんなさい」
声には微塵の申し訳なさもなかった。
むしろこの修羅場に近い状況を特等席で観劇しているかのような愉悦が滲んでいる。
「あ、あ、佐倉さん!? 違うの、これはその……! 別に怪しいことなんて、全然なくて!」
綾目先生が椅子を派手に鳴らして立ち上がった。
顔を真っ赤にして、手振りを交えながら必死に弁明を始める。
だが、焦れば焦るほど言葉は支離滅裂になっていく。
「ただ、お弁当のおかずを、ちょっと……あ、あーんとかはしてないよ!? 本当に、ただの先生同士としての親睦会で!」
「……そうですか。親睦、深まるといいですね、先生?」
佐倉は一歩も動かず、ただ俺の目だけをじっと見つめていた。
その視線が俺のポケットにある『鍵』の存在を声高に主張しているようで居心地が悪い。
「う、うわああ! ごめんなさい、私、午後の授業の準備が! 失礼します!」
綾目先生は耐えきれなくなったように弁当箱をひっつかむと、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
「廊下は走らない! 危ないでしょ!」
遠くの廊下から、養護教諭の鋭い怒号が響く。
「はい! すみません!」
綾目先生のあまりに威勢のいい、そして情けない返声が遠ざかっていく。
嵐が去った後のような静寂。
準備室には俺と、氷の微笑を浮かべた佐倉の二人だけが残された。
「……何の用だ。佐倉」
俺は食べかけの弁当を片付けながら、極力冷淡に接した。
だが佐倉はゆっくりとドアを閉め、内側からカチリと鍵をかけた。
「先生、趣味が悪いですよ。あんな自分を肯定してくれるだけの『お花畑』みたいな人と一緒にいて楽しいですか?」
彼女は俺の机に歩み寄り、さっきまで綾目先生が座っていた椅子にさも当然のように腰を下ろした。
「私がいなかったら今頃、愛の告白でも受けてたんですか? ……それとも、あの先生にも『殺して』って頼んでみます?」
「……いい加減にしろ!」
思わず拳で机を強く叩いた。
ドン、という鈍い音が静かな準備室に不気味に響き渡る。
積み上げられた古い資料がわずかに震えて崩れた。
だが目の前の少女は微塵も怯えなかった。
「ふふっ。先生、そんなに大きな声を出して。また誰か来ちゃいますよ?」
佐倉はまるで子供の悪戯を眺めるような慈愛すら感じさせる微笑を浮かべている。
俺は荒い息をつきながら、彼女を睨みつけた。
「教師を……人を弄ぶのもいい加減にしろ。昨夜のことも、鍵のことも、全部間違いだ。今すぐ返す。そして二度とこんな真似は――」
「弄んでいるのは、先生の方じゃないですか?」
佐倉の声が不意に冷たく沈んだ。
彼女はスカートのポケットから数枚の写真と折り畳まれたメモ用紙を取り出し、無造作に机の上に放り出した。
「これ。先生の『宝物』ですよね?」
写真には俺と彼女が手を繋いで歩いている姿が写っていた。
駅前の商店街。
いつもの帰り道。
あの日俺が「美味しい」と言って食べたオムライスの、その前後の日常。
さらにメモには彼女の職場の住所、退勤時間、よく立ち寄るスーパーの名前までが病的なほど緻密に記されている。
「……っ、お前……!」
血の気が引くのが分かった。
これは単なる「死にたい生徒」の戯言ではない。
俺の、そして俺の愛する人の平穏な人生を根底から破壊するための『爆弾』だ。
「さあ、先生。選んでください」
佐倉は身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
その瞳にはもう一片の迷いもなかった。
「私を殺して、先生が物語に美しい終点を与えてくれるのか。それとも私がこの写真を学校や彼女さんにバラして先生のその『ぬるい日常』を粉々に叩き壊すのか」
彼女の指先が写真の中の彼女の顔をなぞる。
「私を終わらせるか。それとも、私が終わらせるか。……どっちの絶望が先生にとって『心地いい』ですか?」
準備室の時計の針が刻み込まれるような音を立てて進む。
俺はカバンの奥にある冷たい鍵と、目の前の写真を見比べた。
逃げ場はない。
俺はこの少女の「物語」を完結させるための筆を握らされるしかなかった。
───
「……ただいま」
重い扉を開けると、そこには昨日と変わらない暖かな光景があった。
キッチンから聞こえる包丁の規則正しい音。
テレビから流れる、他愛もないバラエティ番組の笑い声。
俺はカバンの中にある佐倉の家の鍵と、ポケットにねじ込んだ盗撮写真の重みに耐えながらリビングへと進んだ。
「おかえり。今日は早かったね、ご飯すぐできるよ」
彼女が笑顔で振り向く。
その顔を見るたび、胸の奥を鋭利なナイフで削られるような痛みが走る。
この笑顔を守るために、俺はこれから一人の少女を殺しに行くのか。
食卓に並んだのは、湯気の立つ肉じゃがだった。
一口食べると出汁の優しい味が口の中に広がる。
いつも通りの安心する味。
これが最後になるかもしれない。
そう思うと喉が締め付けられて、飲み込むのがやっとだった。
「……なあ」
「ん?」
「いつも、ありがとう。……本当、お前といて良かった」
唐突に心の底から溢れた言葉だった。
感謝というよりも、それは懺悔に近かったかもしれない。
俺がこれから踏み外そうとしている道への、せめてもの手向け。
彼女は箸を止め、一瞬驚いたように目を見開いた。
そして顔を真っ赤にして花が綻ぶように笑った。
「な、なに?急に。……でも、嬉しい。私も、毎日幸せだよ?」
彼女は本当に嬉しそうに少し照れくさそうに笑った。
けれど。
その笑顔はすぐに少しだけ曇った。
彼女は俺の顔をじっと覗き込み、眉を八の字に曲げる。
「……ねえ。何かあった?」
「え?」
「なんだか今の言い方。……遠くに行っちゃうみたいなそんな感じがした。仕事、やっぱり大変なの?」
彼女の直感は鋭かった。
高校時代からずっと一緒にいた月日は隠し事さえも空気感で伝えてしまう。
俺は咄嗟に視線を逸らし、冷めかけた茶を啜った。
「……いや。ちょっと大きな仕事が終わる目処が立ったからさ。少し、感慨深くなっただけだよ」
「そう? ならいいんだけど……」
彼女はまだ納得がいかない様子だったが、それ以上は踏み込んでこなかった。
それが彼女の優しさであり、今の俺には何よりも残酷な毒だった。
食後、彼女が風呂に入っている間に俺は静かに家を出た。
「少しコンビニまで」と書き置きを残して。
振り返った我が家は夜の闇の中で信じられないほど脆い幻のように見えた。
俺はポケットの中で冷たい鍵を握りしめた。
佐倉が待つあの場所へ。
俺たちの物語に血塗られた終止符を打ちに行くために。




