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救援

 深い闇の底からゆっくりと意識が浮上した。


 波の音がいつもより遠く、優しく聞こえる。


 目を開けると、そこは彼女の部屋のベッドの上だった。


 右側には俺の腕に頬を寄せて深い眠りについている佐倉。


 左側には俺の胸元に手を置き、穏やかな寝息を立てる綾目先生。


 二十四時間絶え間なく愛を囁き続けていた狂気は影を潜め、そこにあるのはただの美しく無垢な寝顔だった。


 「……はは」


 俺は声にならない溜息を漏らした。


 二人が眠っている。


 その事実だけで張り詰めていた心が僅かに弛緩する。


 だが、すぐに絶望が首元を締め付けた。


 どうせこの首輪がある限り、俺はどこへも行けない。


 柱に繋がれた犬のように、彼女たちが目覚めるのを待つしかないのだ。


 俺は自嘲気味に、ニヒルな笑みを浮かべた。


 そしていつものように首元の重みを確かめようと、ゆっくりと手を伸ばした。


 「……え?」


 指先が触れたのは冷たい革でも金属でもなく、自分の温かい皮膚だった。


 何度なぞってもそこには鎖も、GPSの機械も、俺を繋ぎ止めていた一切の枷がない。


 「……まさか」


 脳裏にあの幻聴の彼女の、いたずらっぽく笑う声が響いた気がした。


『自由にしてあげたよ、先生』。


 彼女があの亡霊のような彼女が、最後の手向けとして外してくれたのだろうか。


 理由は分からない。


 だが今、俺の首には何もない。


 俺は心臓の鼓動を抑えながら、慎重に布団を剥いだ。


 佐倉の長い髪がシーツにこぼれ、綾目先生の指先が僅かに動く。


 そのたびに、全身の血が凍りつくような緊張が走る。


 呼吸を止め、物音一つ立てないように。


 俺は二人の女の「愛」の檻から、音もなく抜け出した。


 リビングへ出るとあの三つの青いマグカップが月明かりを浴びて静かに並んでいた。


 柱に繋がれたままの、虚しい鎖だけが床に転がっている。


 俺は玄関へと這うように進み、震える手で鍵を開けた。


 外へ出た瞬間、冷たい潮風が全身を刺すように吹き抜けた。


 首元の解放感がかえって恐ろしいほどに生々しい。


 俺は一度も振り返らず、夜の闇が広がる海辺の道へと裸足のまま駆け出した。


「は、はは、は」


 裸足で砂利道を蹴り、必死に闇を切り裂いて走る。


 背後の家が遠ざかるにつれ、肺は爆発しそうなほど熱くなり、足の裏は小石で切り裂かれ血が滲む。


 だが痛みなど感じなかった。


 首元にあるはずの重みがない――ただそれだけの事実が俺を狂ったように前へと突き動かしていた。


 「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


 どれだけ距離を置いても潮風が耳元を掠めるたび、あの二人の声が聞こえてくる。


『愛してる、先生』


『どこへ行くの、ポチ』


 幻聴か、あるいは脳に直接刻まれた呪いか。


「愛してる」という言葉が幾重にも重なり、波の音に混じって俺の意識を追い詰めてくる。


「ははははははは」


 俺は無我夢中で街明かりから遠ざかる崖の上へと駆け登った。


 そこはあの引っ越しの日、ベランダから見えた断崖絶壁だった。


 眼下には岩に砕け散る真っ黒な怒涛の海。


 吹き荒れる突風が俺のボロボロになったシャツを激しく叩く。


 「……逃げ、切った……」


 膝をつき、肩で息をしながら俺は背後の闇を振り返った。


 誰もいない。


 あの家も、あの二人の姿も今はもう見えない。


「は、ははは!あはははははは!」


 俺は自由だ。


 誰の所有物でもない、ただの一人の人間に戻ったのだ。


 そう確信し、安堵の涙が頬を伝ったその時。


 「……あら。随分と遠くまでお散歩したのね、ポチ」


「は、?」


 心臓が凍りついた。


 風の音ではない。幻聴でもない。


 すぐ背後、崖の縁に立つ俺のすぐ後ろから、あの凛とした冷徹な響きを持つ綾目先生の声がした。


 「本当に困った子。……そんなに走ったら傷ついてしまうでしょう?」


 今度は逆側から佐倉の弾んだ、けれどひどく歪んだ声が重なる。


 俺がゆっくりと、機械仕掛けの人形のように振り返るとそこには月光を背負った二人の女が完璧な微笑みを湛えて立っていた。


 佐倉の手には月明かりを反射して鈍く光る、あの鉄の鎖が握られている。


 彼女はそれをまるでお気に入りのリボンでも扱うように優しく、指先に絡めていた。


 「……ポチ、リードを忘れてますよ?一体どうやって ……これがないと、迷子になっちゃうでしょ?」


 二人は逃げようとする俺を責めることさえしなかった。


 ただ、夜の散歩の続きを楽しむような足取りでじりじりと俺との距離を詰めてくる。


 俺の首に枷はない。


 だが、彼女たちの瞳に見つめられた瞬間、俺の全身は見えない強固な鎖でがんじがらめに縛り付けられた。


 崖の淵。


 背後には死の淵のような海。


 目の前には逃げ場のない二人の愛。


 俺は逃げ切ったと確信したその場所で、自分が最初から一歩も彼女たちの手のひらから出ていなかったことを悟った。


 絶体絶命の淵。


 二人の女の影が重なり、見えない鎖が俺の首を絞め上げようとした、その瞬間。


 視界の端から、鋭い突風のような影が飛び込んできた。


 「――っ!」


 鈍い衝撃と共に、佐倉の体が横へと弾け飛ぶ。


 不意を突かれた綾目先生が、驚愕に目を見開いた。


 俺の腕を強く、けれど確かな意志を持って掴んだのは白く細い、けれど力強い手だった。

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