洗脳
「……ポチ……?」
「ええ。名前を思い出せないなら、人でいる必要もありません。……ここには私と綾目先生と、可愛い『ポチ』がいればそれで完璧な家庭なんです」
佐倉は俺の頭を乱暴にかき回し、そのまま鎖を引いてリビングを歩き始めた。
床を這う俺の横で綾目先生が静かに満足げな溜息を吐く。
「……いい名前ね、佐倉さん。……さあ、『ポチ』。ご飯の時間ですよ。……お皿は床に置いてありますから」
俺は彼女の形見であったはずのあの青いマグカップが今は床に置かれているのを見た。
人としての尊厳を名前と共に海へ投げ捨てられた俺は、ただ鎖の鳴る音だけを頼りに主人の足元へと這い寄った。
「ポチ」としての生活は驚くほど滑らかに俺の日常を侵食していった。
二足歩行は許されたものの、首には常に鎖が繋がれ、その先はリビングの太い柱に固定されている。
思考は霧に包まれ、彼女の名前を思い出そうとする痛みさえ、潮騒の音に溶けていくようだった。
そんなある日の午後。
突如として鳴り響いたインターホンの音に部屋の空気が凍りついた。
「どなたでしょうか。こんな時間に」
綾目先生が落ち着いた手つきでエプロンを整える。
佐倉はモニターを確認すると、面白そうに目を細めた。
「お隣さんみたいですよ。引っ越しの挨拶かな」
「……っ」
俺は咄嗟に声を上げようとした。
助けてくれ。
ここに異常な生活がある。
だが俺が肺に空気を溜め込んだ瞬間、背後にいた綾目先生の手が強引に俺の口を塞いだ。
「静かに。……いい子ね、『ポチ』」
耳元で囁かれる冷たい声。
彼女の指先からは微かに消毒液と花の香りがした。
俺は柱に繋がれた鎖を鳴らさないよう、床に伏せさせられる。
ガチャリ、と玄関が開く音がした。
「あ、初めまして! 最近越してきた隣の者です。……これ、つまらないものですが……」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。こちらも来たばかりですが、これからよろしくお願いしますね」
佐倉の明るく社交的な声。
どこにでもいる、少し若くて可愛らしいお嬢さんの声だ。
だが、玄関先で立ち話をしていた住人が不意に視線をリビングの奥へと向けた。
「……あら? 奥にどなたか……」
俺の視界の端に、怪訝そうな顔をした住人の姿が映る。しかし、住人の姿に俺はいない。
鎖に繋がれ、女性の手で口を塞がれたまま床に伏している俺の姿。
通報。警察。崩壊。
一瞬の静寂が永遠のように長く感じられた。
「ああ、すみません! ……うちのワンちゃん、ちょっと人見知りで。……大きな音がするとすぐこうやって甘えてきちゃうんです」
佐倉が完璧なタイミングで遮るように笑った。
彼女は俺の鎖の端をまるで散歩用のリードを扱うような自然な動作で手繰り寄せる。
「……ワンちゃん……? ああ、大型犬なんですね。……最近は珍しい、いい子ね」
「ええ、とってもお利口さんなんです。……ねえ、ポチ?」
佐倉がこちらを振り向き、冷たい光を宿した瞳で微笑む。
住人は「まあ、お行儀がいいこと」と感心したように笑い、そのまま世間話を終えて去っていった。
パタン、と玄関が閉まる。
同時に俺の口を塞いでいた綾目先生の手が離れた。
「……あ、……あ……」
「……おしい。もう少しで、この『幸せな家庭』が終われるところでしたね」
佐倉は俺の髪を乱暴に掴み上げ、その顔を覗き込んだ。
彼女の笑顔は住人に向けていたものとは全く別の底知れない暗さを孕んでいた。
「ポチ。……次はちゃんとお返事できるように訓練しましょうか。……ねえ、綾目先生?」
「そうね。……鳴き声一つで私たちが何を求めているか分かるように……じっくり教えてあげましょう」
外では心地よい潮風が吹いているというのに、この家の中だけは出口のない真冬の海のように冷え切っていた。
その日からリビングは静かな教室へと姿を変えた。
ただし、教壇に立つのは生徒だった少女とかつての後輩。
そして生徒席で鎖に繋がれているのは、名前を奪われた俺だ。
「さあ、ポチ。一時間目の授業を始めましょうか」
佐倉があの擦り切れた彼女の日記を膝の上に広げた。
綾目先生は俺の正面に椅子を置いて座り、冷徹な観察者の瞳で俺を見つめる。
「先生。……あ、今はポチでしたね。……彼女と初めて映画を観に行った時のこと、覚えてますか? ……あの人、終わった後ずっと泣いて、先生の袖を掴んで離さなかったんでしょ?」
佐倉があの日俺の胸を熱くした愛おしい記憶を、毒を塗った針のように突き刺してくる。
「さあ、鳴いてください。……『あれは、女の計算だった』って」
「……っ、そんな……そんなこと、言えるわけ……」
首輪の鎖が綾目先生の手によって強く引かれた。
喉が圧迫され視界が火花を散らす。
「ポチ。……答えを間違えてはいけませんよ。……はい、もう一度」
「……あれは……っ、……おんなの、けいさん、だった……」
掠れた声で俺は最愛だった彼女を冒涜する言葉を吐き出した。
その瞬間、心臓が泥を飲み込んだように重くなる。
だが、二人は満足げに顔を見合わせた。
「よくできました。……じゃあ、次は私ね」
綾目先生が静かに語り始める。
「彼女が誕生日にくれた、あの安っぽい手編みのマフラー。……あの子、本当は編み物なんて大嫌いだったのに、先生を縛り付けるための『鎖』として、一編みごとに呪いを込めていたのよ」
「……さあ、ポチ。……『あんなものは、ただのゴミだ』って、大きな声で」
「……あ、……あ……っ」
俺の脳裏に、不器用な編み目とそれを渡してくれた時の彼女の照れくさそうな笑顔が浮かぶ。
それを否定することは、俺自身の人生の輝きを一つずつ消していく作業だった。
「……あんなものは……ただの、ゴミだ……っ!」
俺が叫ぶたびに二人は拍手を送り、俺の頭を優しくなでる。
彼女との美しい思い出を自らの口で汚物へと変えさせていく。
その繰り返しの中で俺の心は少しずつ砂のように崩れていった。
「いい子ですね、ポチ。……ほら、次の思い出は……? ……先生が風邪を引いた時に彼女が看病に来てくれた時の話にしましょうか」
佐倉の残酷な問いかけが続く。
潮騒の音に混じって俺の「鳴き声」が虚しく、そして絶望的にリビングに響き渡り続けた。
朝の光はあまりにも残酷であまりにも無機質だった。
昨夜自分の口から吐き出させられた無数の罵倒が、泥のように喉の奥にこびりついている。
俺はリビングの隅、鎖が届く限界の場所で重い頭をカーテンに押し付けていた。
潮風に揺れる薄いレースの向こう側。
まどろみの中で、庭の木陰に一人の人影が立っているのが見えた。
「……あ」
心臓があの日止まったはずの鼓動を、無理やり再開させた。
そこにいるのはきっと、名前を奪われ記憶を削り取られたはずの俺が愛した彼女だった。
彼女はあの日と同じ、お気に入りの白いシャツを着ている。
庭に差し込む木漏れ日が彼女の輪郭を淡く、優しく縁取っている。
彼女は俺の首に嵌められた黒い革の首輪も、そこから柱へと伸びる重々しい鎖もまるで見えていないかのように、ただ穏やかに微笑んだ。
『ただいま、あなた。……帰ってきたよ』
硝子越しに届いた彼女の声は、ノイズにまみれた合成音声でも二人の女が真似る偽物でもなかった。
俺の魂に直接響く、本物のあの温度。
「……っ、……あ、あ……」
声が出ない。
昨夜、彼女を「計算高い」「ゴミだ」と罵り続けたこの声が彼女を呼ぶことを拒んでいる。
俺は震える手で窓硝子を叩いた。
助けてくれ、と言いたかったのか、あるいは、ごめんと謝りたかったのか。
『ねえ。どうしてそんなところに座っているの? ……早く、こっちに来て。一緒に海を見に行こう?』
彼女は楽しげに小首をかしげ、庭の生垣の向こうにある海を指差した。
その指には俺があげたあの安っぽい銀の指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。
「……待って、くれ……行かないで……」
俺が窓とカーテンをこじ開けようとした瞬間、背後から冷たい、けれど甘い匂いが立ち上った。
「……あら、ポチ。朝から何を見ているの?」
綾目先生の手が俺の肩を優しく、けれど逃がさないように掴んだ。
隣には目を擦りながら欠伸をする佐倉が立っている。
二人の視線は俺が見つめる庭の木陰へと向けられた。
「……誰もいないじゃないですか、先生。……寝ぼけてるんですか?」
佐倉が窓を開け放つ。
そこには潮風に揺れる空っぽの庭と、眩しすぎる初夏の光があるだけだった。
「……いたんだ。そこに、彼女が……帰ってきたって……」
俺の言葉を、二人は慈しむような、けれど心の底から蔑むような瞳で受け流した。
彼女の影が消えた場所には、ただ踏み荒らされたばかりのような、不自然な足跡だけが残っていた。
───
その夜から家の中は奇妙な三人の気配で満たされるようになった。
いや、俺の感覚だけが消えたはずの彼女を招き入れていた。
姿は見えない。
だが、耳元で衣擦れの音がし、冷たい空気の塊が移動するのを感じる。
俺がリビングのソファで鎖に繋がれていると、真横から鈴を転がすような、けれどひどく冷徹な声が響いた。
『ねえ、そこ、私の場所なんだけど。……どいてくれる?』
「……っ!」
俺は飛び起きた。
声がした場所には、佐倉がリンゴを剥きながら座っている。
彼女は俺の豹変にナイフを止めて怪訝な顔を向けた。
「先生、どうしたんですか? 急に跳ねたりして」
『先生、聞こえてるんでしょ? その女に言って。私の邪魔だって』
見えない彼女が今度は佐倉の背後に回って囁く。
俺の額からは脂汗が噴き出し、ガチガチと歯の根が合わなくなる。
佐倉がリンゴを差し出すその隙間に彼女が入り込み、佐倉の手を押し戻すような感覚。
「やめろ……そこに、いるんだ……。どいてくれって、言ってるんだよ!」
「……え?」
佐倉の顔から表情が消えた。
キッチンから出てきた綾目先生も、濡れた手を拭きながら足を止める。
二人の視線が誰もいない、俺が指差す空間へと向けられた。
『次は、その先生。……私のベッドを勝手に使わないでって、伝えて?』
彼女の声は次第に鋭く、憎悪を帯びて俺の脳を掻き回す。
俺は頭を抱え、床にのたうち回った。
鎖が激しい音を立て、首輪が喉を締め上げる。
「来るな! 頼むから、話しかけないでくれ……! 綾目先生、佐倉……そこに彼女が立ってるんだ! どいてくれって、怒ってるんだ!」
俺の狂乱を二人は無言で見下ろしていた。
やがて綾目先生が悲しげに、けれどどこか心底嬉しそうな溜息を吐いた。
「……先生。いよいよ、壊れてしまったのね。……何もいない。ここにいるのは私たちだけです」
「ポチ。……幻聴まで聞こえるなんて相当深刻ですね。……せっかく綺麗に忘れてきてたのに、まだあの人が先生を追いかけてくるんだ」
佐倉が俺の頬を優しく撫でる。
その指先が死人のように冷たい。
彼女たちは俺が抱える恐怖を共有しようとはしなかった。
むしろその恐怖を利用して、俺をさらに深い奈落へ落とすための好機として捉えていた。
「……先生、いいお薬がありますよ。……もう外からの声も中からの声も何も聞こえなくなるような……もっと素敵な『再教育』を今夜から始めましょうか」
綾目先生が救急箱から一瓶の薬品を取り出した。
窓の外では夜の海が黒くうねっている。
俺にしか聞こえない彼女の笑い声と、二人の女の静かな足音が暗いリビングで混ざり合っていった。
眠ることは許されなかった。
まぶたを閉じようとすれば佐倉が鎖を激しく引き、耳元で熱い吐息を漏らす。
意識が遠のこうとすれば綾目先生が冷たい指先で俺の目を見開かせ、慈愛に満ちた、けれど毒のような言葉を流し込む。
「先生、愛してる。世界で一番先生のことが好き。あんな躯体もう忘れて、私だけを見て?」
「先生あなたは私のもの。誰にも渡さないわ。永遠にこの部屋で私と一緒に堕ちましょう」
二十四時間、絶え間なく繰り返される「愛の告白」。
それはもはや言葉ではなく、脳を物理的に削り取る騒音だった。
二人の声が交互に重なり合い、俺の思考回路を真っ白に塗り潰していく。
首輪の革が汗と脂でじっとりと首筋に張り付く。
俺は椅子に縛り付けられたまま、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。
すると。
二人の熱狂的な愛の囁きを切り裂いて、あの冷たい硝子が割れるような声が響いた。
『……ねえ、先生』
それは俺のすぐ後ろ、後頭部のあたりから聞こえてきた。
佐倉でも綾目先生でもない。
俺がかつて世界で一番愛したはずの「彼女」の声。
『その女たちの言うことを信じるの? 私の名前も思い出せないくせに、愛なんて言葉を口にするの?』
「……あ、……あ」
俺の喉が引き攣った音を立てる。
綾目先生がそれに気づき、俺の頬をそっと撫でた。
「どうしたの、ポチ? ……私の愛、足りないかしら?」
『ねえ、先生。……答えて』
幻聴の声が今度は耳元を通り越し、脳の真ん中で爆発した。
『私を酷いことしたのは、誰?』
心臓がドクンと大きく跳ねた。
あの雨の夜。
窓の外。
彼女が消えた瞬間、俺は何を見ていたのか。
彼女を突き落としたのは、佐倉の執着か。
それとも、綾目先生の冷徹な策略か。
あるいは――俺という人間のせいだったのか。
「……先生? 顔色が悪いですよ。……ほら、私のことだけ考えて?」
佐倉が俺の唇を指でなぞり、強引にキスをしようと顔を近づける。
『ねえ、先生。……本当は知ってるんでしょ? 私をこの暗い海の底へ突き飛ばした犯人を』
幻聴の彼女が俺の首元の鎖を冷たい指でなぞる感触がした。
二人の女の「愛」の濁流の中で、その問いだけが鋭い刃物のように俺の正気を切り刻んでいく。
俺は大きく口を開けた。
叫びたかったのか、答えを求めたかったのか。
だがそこから漏れたのは、言葉にならない獣のような慟哭だけだった。
脳裏を濁流のような映像が駆け抜ける。
濡れたアスファルトの光。
彼女の翻るスカート。
そして、その背中を押したのは、誰だったか――。
一瞬、細くしなやかな指先が視界をよぎる。
同時に、あの時聞こえたはずのゾッとするような低い笑い声が耳の奥でリフレインした。
「……あ、……あぁっ!」
俺は椅子に縛り付けられたまま、激しく身悶えした。
首輪の鎖がジャラジャラと悲鳴を上げ、皮膚に食い込む。
犯人は、ここにいる。
「……あら。思い出してしまったのかしら」
綾目先生が俺の混乱を見透かしたように、冷たく艶やかな声を漏らした。
彼女の瞳が獲物を追い詰めた愉悦で細められる。
隣にいた佐倉も俺の異変を感じ取り、その瞳にドロリとした独占欲を煮え立たせた。
「先生、思い出さなくていいんですよ。……そんな汚い記憶、私たちが塗り潰してあげますから」
二人の温度が一段と跳ね上がった。
先ほどまでの拷問のような囁きにさらなる狂気が、そして気合いが込められる。
「愛してるわ、先生。誰よりも、何よりも。あなたの罪も、記憶も、全部私が食べてあげる」
「先生、私のことだけ見て。私の声だけを脳に刻んで。愛してる、愛してる、愛してる……!」
左右から逃げ場のない愛の奔流が鼓膜を突き破らんばかりに押し寄せる。
一人は俺の髪を掻き乱し、もう一人は俺の鎖を握りしめ、魂を繋ぎ止めるように激しく囁き続けた。
フラッシュバックの断片が二人の絶え間ない「愛」の言葉によって無理やり意識の底へと沈められていく。
犯人の顔が、手の感触が二人の吐息と熱に溶けて消えていく。
限界だった。
極限まで削られた精神と数日間の不眠。
二人の女の「愛」という名の毒に当てられ、俺の意識は急速に混濁していった。
「……あ……」
俺の視界はどす黒い闇に塗り潰された。
二人の女の満足げな微笑みが最後に映り、俺は深い深い眠りの淵へと転落していった。




