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17/18

ぬり絵

 連れてこられたのはかつて彼女と歩いたあのバス停よりも、さらに人気のない海岸沿いの街だった。


 古いけれど手入れの行き届いた白壁の家。


 窓を開ければ鼻腔をくすぐる強い潮の香りと、絶え間なく繰り返される波の音が部屋を満たす。


 「見てください、先生! ベランダから海が一望できますよ。最高じゃないですか?」


 佐倉は段ボール箱を抱えながら、子供のように声を弾ませて室内を駆け回っている。


 彼女の足首で揺れるミサンガが砂浜の陽光を反射して眩しい。


 「ええ、本当に。キッチンも広くて、これなら毎日先生に腕を振るえそう」


 綾目先生も鼻歌を交えながらカーテンを取り付けている。


 先ほどまでの刺々しさはどこへやら、二人は新しい玩具を手に入れた少女たちのようにウキウキと、そして完璧に連動して家作りに勤しんでいた。


 俺は部屋の隅に置かれた椅子に座らされ、その光景をただ眺めていた。


 首元の鎖は今は少し長めのものに付け替えられ、リビングの重厚な柱に繋がれている。


 自由を奪われている俺を置き去りにして、二人の間には奇妙な友情のような、あるいは共犯者特有の連帯感のような空気が流れていた。


 「先生、そんなに暗い顔しないで。……ここなら誰も邪魔しに来ません。死んだ彼女の思い出もこの海風が綺麗にさらってくれますよ」


 佐倉が俺の膝に手をおき、上目遣いで微笑む。


 その背後で綾目先生が窓を全開にした。


 流れ込んできた潮風が、俺の薬指にある銀の指輪を冷たく冷やしていく。


 「先生、お茶が入りましたよ。……これからはこの海の音だけを聞いて、私たちだけを見て生きていくんです」


 綾目先生が差し出したのはあの日、彼女の母親が持ってきた青いマグカップだった。


 波の音に紛れて二人の楽しげな笑い声が部屋に響く。


 地獄がこれほどまでに明るく、潮の香りに満ちているなんて俺は思いもしなかった。


 引っ越し作業の喧騒が落ち着き、家の中に潮騒だけが満ち始めた夜。


 佐倉が俺の首輪に繋がれた鎖を短く巻き取りながら楽しげに笑った。


 「先生、海辺のお散歩に行きましょう。新しいお家の、最初の思い出作りです」


 抵抗する間もなく、俺は夜の砂浜へと引きずり出された。


 月明かりに照らされた波打ち際は、まるで銀色のナイフが幾重にも押し寄せているようで不気味なほどに美しい。


 背後にはテラスからこちらを静かに見守る綾目先生の影があった。


 ザリ、ザリと裸足で砂を踏みしめる。


 佐倉は波際まで来ると、躊躇わずに冷たい海の中へと足を踏み入れた。


 鎖が引かれ、俺もまた膝まで海水に浸かる。


 「……冷たいだろ。戻ろう、佐倉」


 「嫌です。……ねえ、先生。まだ覚えてますか? ……先生、私に言いましたよね。『心が足りない』って」


 佐倉が立ち止まり、俺を振り返った。


 その瞳は月光を浴びて虚無の色に透き通っている。


 彼女は鎖を力任せに引き寄せ、俺の身体を海の中へと倒し込んだ。


 「あぐっ……!」


 塩辛い水が口と鼻に侵入し、肺が灼けるような感覚に襲われる。


 佐倉は俺の胸の上に跨り、水面に顔を出そうとする俺を、さらに深くへと押し付けた。


 荒い波が容赦なく俺の頭上を越えていく。


 「心が足りないなら、先生の心臓の音をもっと近くで聞くしかないですよね? ……ねえ、先生。死にそうになれば先生も私を思い出しませんか? ……今、先生の頭の中にいるのは彼女さんですか? それとも、死の恐怖を刻み込んでる私ですか!」


 「……が、は……っ!」


 意識が遠のき、視界が真っ白に染まる。


 佐倉は狂ったように笑いながら、俺の首輪を掴んで水面から引き上げ、また沈める。


 その過激な反復はまるで俺の魂を一度殺して、彼女の望む形に作り替えようとする儀式のようだった。


 「……これで、先生と同じ痛みが分かりますか? ……先生が彼女を失った時の息ができないくらいの苦しみ。……今、私が共有してあげてますよ」


 佐倉の濡れた髪が俺の頬を冷たく叩く。


 彼女の心臓の鼓動が重なった胸を通じて、激しく痛いほどに伝わってきた。


 心が欠けているはずの彼女が今、俺の死の際で最も鮮烈に『生』を謳歌している。


 波の音にかき消されそうなほど小さな声で彼女は俺の耳元で囁いた。


 「……足りないなら、先生の命で私の空っぽを埋めてください」


 俺の薬指にあるあの指輪が海水に濡れて、抜け落ちそうなほどに緩んでいた。


 肺が焼け付くような感覚と、激しい咳き込み。


 海水を吐き出し、砂浜に這いつくばる俺の前に白木蓮のような静謐さを纏った綾目先生が降りてきた。


 彼女の手に握られた真っ白なタオルは、夜の闇の中でそこだけが清潔に浮き上がっている。


 「佐倉さん。あまり先生を壊しすぎないで。……死なせてしまったら、もうおもちゃにもなれないわ」


 「……わかってますよ。ちょっと、私の色を混ぜただけです」


 佐倉は濡れた髪をかき上げ、不満げに唇を尖らせた。


 綾目先生は膝をつき、震える俺の肩を冷えたタオルで包み込む。


 その手つきは驚くほど優しかったが、瞳の奥には佐倉の暴力的な熱とは対照的な絶対的な零度が宿っていた。


 「さあ、先生。お家に帰りましょう。……次は私の番です」


 連れ戻された家のリビングには、いつの間にか一脚の椅子が部屋の中央に置かれていた。


 壁にはプロジェクターによってある映像が映し出されている。


 それは俺が休職する前に撮られた、何気ない日常の風景だった。


 だが、その映像は奇妙に加工され、俺の隣にいるはずの彼女の姿だけがノイズで塗りつぶされている。


 「先生、これは忘却のセラピーです。……あなたの記憶の中で彼女という存在がどれほど不確かで、脆弱なものか再認識させてあげます」


 綾目先生は俺を椅子に固定し、ヘッドフォンを装着させた。


 そこから流れてくるのは彼女の声に似せて合成された、ひどく歪んだ機械音の羅列。


 「先生。……あなたが愛した彼女は、本当にそこにいたのでしょうか? ……それとも私の、あるいは佐倉さんの代わりとして、あなたが作り出した幻想だったのでは?」


 彼女は俺の薬指の指輪をペンチのような道具で弄びながら、穏やかに語りかける。


 映像の中のノイズが激しくなり、俺の脳内にこびりついていた彼女の笑顔が少しずつ形を失っていく。


 「……やめろ、綾目先生。彼女は……彼女はいたんだ」


 「いいえ。……あなたが思い出すのは私の首を絞めた時の指の感触。……あるいは、佐倉さんに溺れさせられた時の水の冷たさだけ。……ほら、彼女の顔が思い出せなくなってきたでしょう?」


 綾目先生の指が俺の瞼を優しく閉じる。


 視界が遮られた暗闇の中で、ノイズ音だけが脳を削る。


 愛した人の顔を思い出そうとするたびに、綾目先生の冷徹な声がその記憶をエラーとして上書きしていく。


 精神を薄く、薄く削り取られていくような終わりなき感覚の剥離。


 二人の女に挟まれたこの家は潮風の香る世界で最も美しい拷問部屋だった。


 ───


 繰り返されるノイズ。


 反転し歪められた映像。


 数日間に及ぶ綾目先生のセラピーは俺の精神を磨り減った石鹸のように薄く、脆く変えてしまった。


 俺は窓から見える水平線をぼんやりと眺めていた。


 彼女との思い出。


 あの雨の日。


 初任給で買った指輪。


 断片的な情景は浮かぶのに、一番大切なはずの彼女を呼ぶための「名前」がどうしても喉の奥で霧散してしまう。


 「……あ、……あ」


 唇を動かしても出てくるのは空虚な震えだけだ。


 名前を思い出そうとするたびに脳が鋭い拒絶反応を起こし、綾目先生の冷徹な微笑みが記憶の蓋を閉じる。


 俺は自分が誰を愛していたのかさえ、分からなくなっていた。


 「……あら、先生。また泣いてるんですか?」


 背後から弾んだ声がした。


 佐倉だ。


 彼女は俺の膝に顎を乗せ、覗き込むように顔を近づけてくる。


 その瞳にはもはや一欠片の憐れみも、かつての「先生」に対する敬意も残っていない。


 「ねえ、先生。……彼女の名前、言ってみてください」


 「……う、……わから、ない……思い出せないんだ……」


 俺は自分の指に嵌まったあの銀の輪を見つめ、絶望に身を震わせた。


 あんなに大切にしていたはずなのに。


 あんなに死に物狂いで守ろうとしたのに。


 その根源となる名前が潮風に洗われた砂のように消えてしまった。


 「ふふ、いいんですよ、先生。……あんな重たい名前、もう必要ありません。……名前なんて新しいのを私が付けてあげます」


 佐倉は立ち上がり、俺の首輪の鎖をグイと引き寄せた。


 俺は椅子から転げ落ち、床に四つ這いになる。


 彼女はその光景をこの世で最も美しいものを見るような目で見下ろした。


 「……今日から先生は、私の『ポチ』ですよ」

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