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お勉強会

 「……やめろ。そこは……」


 「いいじゃないですか。彼女も待ってますよ。……『中』にいるんでしょ?」


 佐倉が扉を開け放つ。


 そこには彼女が死んだ日のままの空気が停滞していた。


 机の上に置かれたままの読みかけの本。


 脱ぎ捨てられたパジャマ。


 積まれたままのテキスト。


 そして動き続ける時計。


 二人は俺を彼女のベッドの上に放り出した。


 彼女の匂いがいまだに染み付いた、柔らかく冷たいシーツ。


 そこへ佐倉と綾目先生が俺を左右から挟むようにして横たわった。


 「……先生。怖くないですよ」


 綾目先生が俺の耳元で囁く。


 彼女の指先が薬指の指輪を愛おしむように撫でた。


 「ここは私たち三人の聖域です。……彼女も、私たちも、先生も……もう誰もここからは出られない。……ずっとこの四人で生きていきましょう?」


 窓から入り込む夜風がカーテンを不気味に揺らしている。


 その隙間から覗く暗闇がまるで彼女がまだそこに立っているかのように見えて。


 俺は二人の女に抱かれながら、永遠に解けることのない呪いの眠りへと落ちていった。


 意識の底から這い上がると喉元にひどく重く、硬い違和感があった。


 シーツの冷たさに肌を焼きながら、俺はゆっくりと上半身を起こした。


 隣にいたはずの二人の姿はない。


 首に手をやると、指先に冷徹な金属の感触が触れた。


 革製のバンドとそこに埋め込まれた小さな機械の突起。


 鏡を見るまでもない。


 それは獲物を逃さないためのGPS付きの首輪だった。


 カチャリ、と首を動かすたびに小さな音が鳴る。


 それが俺のこれからの人生を支配するメトロノームのように思えて、吐き気がした。


 リビングの方から包丁がまな板を叩く音と、鈴の鳴るような楽しげな笑い声が聞こえてくる。


 「先生。あそこのカフェラテ、本当にまずかったんですよ」


「ふふ、そうなんだ。今度は私がもっと美味しいのを淹れてあげるわ」


 佐倉の声と綾目先生の声。


 あんなに憎み合い、殺し合おうとしていた二人がまるで長年連れ添った姉妹のように談笑している。


 俺はふらつく足取りで、吸い寄せられるようにリビングの扉を開けた。


 「……あ、先生! おはようございます。ちょうど今出来上がったところですよ」


 綾目先生がエプロン姿で振り返る。


 その首元には俺を噛んだ時と同じ、狂気じみた喜びが張り付いていた。


 食卓に目をやると、三つの朝食が並んでいる。


 そしてその中心に。


 死んだ彼女が生前ずっと愛用していた欠けかけた青いマグカップと同じようなものが三つ、三角形を描くように並べられていた。


 一つは佐倉の前に。一つは綾目先生の前に。


 そして最後の一つは。


 「……先生、何してるんですか? 早く座ってください。……あなたのカップはそこでしょ?」


 綾目先生が三つ目のマグカップを俺の席の前に置いた。


 それは俺が持っていたはずのペアのカップではない。


 彼女が使っていたはずの、そのものだ。


 「……どうして、全部彼女のなんだ」


 「お母様が置いていったんですよ。……『みんなで使って』って」


 佐倉が悪魔のような無垢さで微笑んだ。


 彼女の母親が持ってきたのは指輪だけではなかったのだ。


 食器棚に仕舞われていたはずの思い出を、二人は平然と引きずり出し、自分たちのものとして上書きしている。


 俺は首輪に繋がれた犬のように、言われるがまま椅子に座った。


 三つの青いマグカップから温かなコーヒーの香りが立ち上る。


 「……美味しいですよ、先生。……彼女さんの味がする」


 綾目先生が彼女のカップでゆっくりとコーヒーを啜る。


 俺は震える手で自分の前のカップを掴んだ。


 唇に触れる陶器の感触。


 それはかつて彼女が触れた場所であり、今、俺を絞め殺そうとしている二人の女の新たな遊戯の始まりだった。


 朝食の温かさが喉に残っているうちに日常の幕は無慈悲に下ろされた。


 佐倉が俺のスマホを取り上げ、流れるような手つきで学校への休職届を送信する。


 指先に嵌まったあの安っぽい指輪がカチリと画面を叩いた。


 「……先生、今日から学校は休職ですよ。代わりに私たちが先生を『お勉強』させてあげます」


 佐倉の瞳は好奇心で爛々と輝いている。


 俺は二人に両脇を固められ、再びあの部屋へと連れ戻された。


 向かった先は彼女の服がいまだに吊るされたままの、狭く暗いクローゼットだった。


 「さあ、入って。……ここは先生の新しい教壇ですよ」


 無理やり押し込められ、扉が閉められる。


 隙間から漏れる僅かな光の中に、佐倉と綾目先生の顔が並んで浮かび上がった。


 佐倉の手にはどこに隠されていたのか、表紙の擦り切れた一冊のノートが握られている。


 彼女が密かに、誰にも見せずに綴っていた日記だ。


 「……始めましょうか、先生。……彼女が本当は先生をどう思っていたか。一行ずつ大切に読んであげますね」


 佐倉の声が狭い空間に反響する。


 『〇月〇日。また、ほかの女の人と楽しそうに笑ってた。殺したい。あの人じゃなくて、あの女を。でも、一番殺したいのはそんなことで泣いてる私』


 「……っ、やめろ……嘘を言うな、」


 俺は耳を塞ごうとしたが、首輪の鎖がクローゼットのポールに繋がれ、自由を奪われる。


 次に綾目先生の静かで冷徹な声が続いた。


 『〇月〇日。部屋の合鍵を作った。あの人は知らない。寝ている間に隣でどんな顔をして先生を見つめているか。……首、白くて綺麗。……いつか私のものだってわかるように、赤く染めてあげたい』


 「……どうですか、先生? ……先生が愛していたのはこんなに『真っ黒』な女の子だったんですよ」


 佐倉がページを捲る音が、暗闇の中で雷鳴のように響く。


 綴られていたのは純愛などという綺麗な言葉では到底片付けられない、ドロドロとした執着と俺への呪詛に近い渇望だった。


 一行、また一行と読み上げられるたびに、俺の中の『彼女』の像が醜く歪み、崩壊していく。


 「ほら、次。……先生が浮気した日のことが書いてありますよ。……『先生が嘘をつくとき、右の眉が少し動く。……愛おしい。……そのまま、嘘と一緒に飲み込んでしまいたい』」


 佐倉の嘲笑と綾目先生の感嘆。


 二人の女の声が重なり、クローゼットの中は死んだ彼女の情念で満たされていく。


 俺は暗闇の中で自分の指に嵌まった指輪を爪が剥がれるほどに掻きむしった。


 「……ねえ、先生。……お勉強の感想は? ……これでもまだ彼女のことが『愛』だったって言い張りますか?」


 隙間から覗く佐倉の目が、俺の絶望を一滴も残さず飲み込もうとしていた。


 「……やめろ」


 低く、絞り出すような声が俺の喉から漏れた。


 佐倉の手が止まる。


 隙間から見える彼女の目が面白そうに細められた。


 「やめろ……! もう、やめてくれ!」


 俺はクローゼットの壁を内側から激しく叩いた。


 吊るされた彼女の服が幽霊のように左右に揺れる。


 一行読み上げられるたびに、俺の心の中にあった「綺麗で儚い彼女」が泥を塗られ、切り刻まれていく。


 それが耐えられなかった。


 「関わらないでくれ……! 君たちの言葉なんて、一言も信じない! 彼女を、そんな醜い言葉で汚すな!」


 「汚す? 先生、これは彼女が自分で書いた……」


 「黙れ!」


 俺は佐倉の声を怒鳴り散らして遮った。


 首輪が鎖を鳴らし、喉に食い込んで息が詰まる。


 それでも、俺を突き動かす衝動は止まらなかった。


 「君たちは、ただ彼女の印象を悪くしたいだけだ! そうやって彼女を貶めて、俺を絶望させて、自分たちの支配下に置きたいだけだろう! ……卑劣だ。関わらないでくれ。君たちみたいな、心の欠けた人間に、彼女の何がわかるんだ!」


 扉の向こうに沈黙が訪れた。


 それまでの嘲笑が嘘のように、空気が凍りつく。


 佐倉の呼吸が止まり、綾目先生の冷徹な気配が一段と鋭さを増したのが暗闇越しに伝わってきた。


 「……関わらないで、ですか」


 綾目先生の静かすぎる声。


 それは怒りよりももっと底知れない「見放し」に近い響きだった。


 「先生。……先生は結局、自分の見たいものしか見ないんですね。……あの子が抱えていた真っ暗な叫びよりも、自分の頭の中にある『都合のいい天使』を優先する。……それが彼女をどれだけ孤独にしたかも知らずに」


 「……先生、今の言葉は取り消したほうがいいんじゃないんですか?」


 佐倉の声から一切の温度が消えた。


 彼女はクローゼットの隙間に指をかけ、ゆっくりと、けれど力任せに扉をこじ開けた。


 外の明かりが目を開けていられないほど眩しく俺を刺す。


 佐倉は俺の首元の鎖を短く掴み、至近距離まで顔を近づけた。


 その瞳はもはや獲物を愛でるような色さえ失い、ただただ暗く濁っている。


 「関わるなって言われても、もう遅いんですよ。……先生がそうやって彼女を神格化するたびに、私は先生を壊したくなる。……先生が守ろうとしているその『綺麗な記憶』、今から目の前でバラバラにしてあげます」


 佐倉は日記を床に投げ捨て、俺の薬指に嵌まったあの指輪を関節が折れるほどの力で握りしめた。


 突き放したはずの手はより一層深く、俺の心臓を握りつぶしにきた。


 俺の拒絶も激昂も、二人にとっては季節外れの羽虫の羽音に過ぎなかった。


 数日後、佐倉と綾目先生はまるで旅行の計画でも立てるような軽い口調でこう告げた。


 「先生、引っ越しましょう。新しい生活には新しい空気が必要ですから」


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