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15/16

形見

 箸が皿に当たる、カチリという小さな音さえ鮮明に聞こえるほど室内は静まり返っていた。


 目の前に並べられたのはかつて彼女がよく作ってくれた彩りの良い家庭料理。


 それを綾目先生が彼女に似せた仕草で取り分けていく。


 その時だった。


 ドンドンドンドンドンドン!!


 鼓膜を突き破るような暴力的な衝撃音が、玄関のドアから響き渡った。


 「先生! 先生、開けてください、中に誰かいるんでしょ!分かってますよ!」


 佐倉の声だ。


 いつもの余裕に満ちた嘲笑ではなく、焦燥と怒りに濁った剥き出しの悲鳴。


 俺が弾かれたように立ち上がろうとすると、綾目先生の冷たい手が俺の手首を静かに、けれど強く押さえつけた。


 「……先生。座っていてください」


 「でも、佐倉が……あいつ、何をするか分からない」


 「あの子に何ができるっていうんですか? 鍵を持っているのは、私なのに」


 綾目先生は微塵も動じることなく煮物を口に運んだ。


 そして、玄関から聞こえる罵声と打撃音をBGMにするかのように、うっとりと目を細める。


 「……先生、出なくていいですよ。あの子には、この『幸せな家庭ごっこ』の音だけ聞かせてあげましょう。……私たちが今どれだけ穏やかに、どれだけ睦まじく彼女の思い出を汚しているか。……想像させるだけであの子は勝手に壊れてくれますから」


 「先生、 開けて! 何してるの、中で……!」


 佐倉の憔悴しきった叫びがドア越しに、そして俺の罪悪感の隙間に突き刺さる。


 綾目先生は空いている方の手で俺の頬をなで、そのまま耳元へと指を滑らせた。


 「ほら、聞こえるでしょ? ……主導権を失った哀れな子供の泣き声が。……あの子は先生を脅すことしか知らなかった。……でも私は先生の『日常』そのものになれる。……どちらが先生にとっての救いか、あの子に教えてあげないと」


 綾目先生はわざと音を立てて俺の椅子に身体を寄せ、俺の肩に顎を乗せた。


 「先生……美味しいですか? ……彼女さんの味、ちゃんと再現できていますか?」


 その大きい問いかけは玄関先で狂ったようにドアを叩き続ける佐倉への、残酷な勝利宣言だった。


 俺は震える手で箸を握りしめたまま、目の前の料理を見つめた。


 それはかつて愛した彼女の味であり、今、俺を地獄の底へと繋ぎ止める鎖の味だった。


 扉の向こうの嵐と食卓の上の異様な静寂。


 二人の女の執念に挟まれ、俺という存在はゆっくりと確実に、粉々に砕け散っていった。


 玄関を叩く音が唐突に止んだ。


 後に残されたのは耳の奥が痛くなるほどの不自然な静寂。


 綾目先生は平然と箸を進めているが、俺の背中には嫌な汗が伝い落ちていた。


 その時、テーブルの上のスマホが震えた。


 佐倉からのメッセージ。


 『……わかりました。じゃあ私も『あっち』へ行きますね。彼女と同じ場所から先生をずっと見てます』


 「……っ!」


 心臓が喉元まで跳ね上がった。


『あっち』


 彼女が消えたあの窓。そしてその行き先である地面。


 佐倉の狂気はついに自らを破壊する方向へと牙を剥いたのか。


 「待て、佐倉! やめろ!」


 俺は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がり、リビングの窓へと駆け寄った。


 背後で綾目先生が冷たく、そして愉悦を孕んだ声で囁くのが聞こえる。


 「……先生。放っておけばいいのに。あの子、そうやって気を引きたいだけですよ」


 俺は震える手でカーテンを掴み、一気に引き開けた。


 夜の闇が視界に飛び込む。


 だが、窓の外に人影はない。屋上の方を頑張って見つめても人の影はない。


 静まり返った街路樹が風に揺れているだけだ。


 「……あ?」


 嫌な予感が脳髄を駆け抜けた。


『彼女と同じ場所』。


 それは窓の外ではなく――。


 ガチャン、と。


 背後で玄関の鍵が開く音がした。


 「……え?」


 綾目先生が驚きに目を見開く。


 彼女が持っていた合鍵を過信し、チェーンロックをかけていなかったその一瞬の隙。


 佐倉は俺と綾目先生が窓へ駆け寄るその油断を、最初から計算に入れていたのだ。


 ドカッ、という激しい音と共にリビングの扉が蹴り開けられた。


 「……見つけた」


 そこに立っていたのは雨に濡れ、髪を顔に張り付かせた佐倉だった。


 彼女の瞳はこれまでのどんな時よりも真っ赤に、そして鋭く復讐の光を宿している。


 彼女の手には俺の家のものではない古びた、けれど見覚えのある重厚な鉄の鍵が握られていた。


 「先生……言ったでしょ? 私も『あっち』に行くって。……死ぬ方の『あっち』じゃなくて、先生を支配する『あっち側』ですよ」


 佐倉はあっという間に距離を詰め、唖然とする綾目先生の目の前まで迫った。


 綾目先生が何かを言おうと口を開くより速く佐倉はその身体を突き飛ばし、俺の腕を強引に掴み取った。


 「綾目先生。……偽物の家庭ごっこはもうおしまいです。……これからは三人で地獄に堕ちましょう?」


 佐倉の歪な笑顔が暗いリビングで獣のように輝いた。


 ───


 こうして一つの屋根の下で三人の異常な共同生活が始まった。


 リビングには彼女の写真が安置され、その前で俺たちは壊れた家族のような食事を繰り返す。


 右には俺の過去を握る佐倉、左には俺の罪を共有する綾目先生。


 ある夜静寂を破ったのは、佐倉の衝動的な指先だった。


 「……先生。この跡、目障りなんです」


 佐倉は俺を背後から抱きしめ、綾目先生が刻んだあの赤黒い瘡蓋を爪で執拗になぞった。


 そしてポケットから取り出したカッターナイフの刃を迷いなく俺の首筋に押し当てた。


 「私のものだってもっと深く、消えないように書き込んであげますね」


 鋭い痛みが走り、熱い液体が襟元に滴り落ちる。


 綾目先生がつけた古い傷を切り裂くように佐倉は新しい、より深い所有の印を刻み込んでいった。


 俺は苦痛に顔を歪めるが佐倉はその血を指で拭い、悦びに浸った表情でそれを舐めとった。


 「……あ、随分と乱暴なことをするのね」


 向かい側に座っていた綾目先生がゆっくりと立ち上がった。


 彼女の瞳には怒りも驚きもない。


 ただ、冷徹なまでの整理の意志だけが宿っていた。


 彼女はキッチンへ歩き、最も研ぎ澄まされた牛刀を手に取った。


 指先で刃の鋭さを確かめ、そのまま俺たちの元へと歩み寄る。


 「佐倉さん。上から書き込んだくらいじゃ、下にある私の記憶は消せませんよ。……中途半端なことをして、先生を汚さないで」


 綾目先生は俺の顎を強引に持ち上げ、佐倉が刻んだばかりの傷口を包丁の先で愛おしむように撫でた。


 「……そんなに誰かの印が邪魔ならいっそ、その皮膚ごと剥ぎ取ってあげます」


 「綾目、先生……何を……」


 「大丈夫。痛いのは一瞬ですから。……剥ぎ取った後に私の新しい愛を、もっと奥の肉そのものに刻み直して差し上げます。……そうすればもう誰にも上書きなんてできない。……完璧な私だけの先生になれるわ」


 彼女の提案は狂気に満ちた、けれどこの部屋の論理では最も合理的な解決策だった。


 佐倉はその提案に恐怖するどころか、興奮に瞳を輝かせた。


 「……いいですね。じゃあ半分は私が剥ぎます。……先生の中身が何色か、二人で確かめましょう?」


 左右から伸びる刃物を持った二人の手。


 俺の視線の先では写真の中の彼女が相変わらず何も言わずに微笑んでいた。


 逃げ場のない密室で、俺の身体は二人の女による狂気の外科手術のキャンバスになろうとしていた。


 刃先が首筋の皮を掬い上げようとした、その刹那。


 静寂を切り裂くようにインターホンの電子音が鳴り響いた。


 「……誰」


 佐倉が舌打ちをし、綾目先生は包丁を止めて玄関のモニターへと視線を向ける。


 そこに映っていたのは、落ち着いた紺色の服に身を包んだ上品な初老の女性だった。


 「……先生のお知り合いですか?」


 綾目先生が包丁を隠すように背後に回し、俺に問いかける。


 俺は震える足で立ち上がり、血を拭って玄関へと向かった。


 扉を開けると、そこには優しげな微笑みを浮かべた女性が立っていた。


 「……あ。突然伺ってしまって、申し訳ありません。娘とお付き合いしていた、先生さんですね?」


 「あ……。……ええと」


 「申し遅れました。あの子の母です。初めまして」


 初対面の、彼女の母親。


 奥から様子を伺いに来た佐倉と綾目先生を見て、母親は「お友達がいらしたのね」とまるで茶飲み話の最中にでも訪れたかのような穏やかなトーンで会釈をした。


 「娘からね、ずっと言われていたんです。……『もし私に何かあった時は、この手紙をあの人に渡してほしい』って」


 彼女の母親は鞄から一通の白い封筒を取り出した。


 俺の手を握り、それを押し付けるように渡す。


 「どういう……意味ですか。……お母さん。……彼女は、その……」


 「ええ、分かっています。……娘は今とっても幸せな場所にいるんでしょう? ……あの子、あなたのことを本当に信頼していましたから」


 母親の言葉には愛する娘を亡くした者の悲壮感も、狂った娘の恋人への憎悪も、微塵も感じられなかった。


 それどころか、彼女がこの世にいないという現実そのものが彼女の認識から抜け落ちているような不気味なほどの普通さがあった。


 俺はたまらずその違和感を口にした。


 「……お母さん。……彼女が死んだこと、……本当はご存知ないんですか?」


 母親は一瞬だけ瞬きをした。


 そして慈愛に満ちた、けれどどこか焦点の合わない瞳で俺を見つめ、静かに微笑んだ。


 「娘が死んだ?……何を言ってるんですか。まぁ、信じてますから。……あの子がきちんと自分で目覚めてくれるって、はは」


 彼女はそれだけ言い残すと、軽やかな足取りで夜の闇へと消えていった。


 後に残されたのは血の匂いが漂うリビングと、手の中にある一通の手紙。


 俺は震える指でその封を開けた。


 そこには彼女の懐かしい筆跡でこう記されていた。


 『あなたへ。

 これを読んでいるということは私はもう自由になれたのでしょうか。

 あなたと一緒にいた時間は私の人生で一番の宝物でした。本当に、幸せだったよ。

 でもね。もし私が消えても悲しまないで。

 だって私はずっと、あなたの中にいるんだから。

 ねえ。私の心臓の音、今も聞こえてる?

 愛してるよ。死んでも離さないからね』


 喜びと悲しみ。


 そして逃げ場のない執念が混ざり合った、彼女の最後の一撃。


 読み終えた瞬間、背後で佐倉と綾目先生が覗き込むように手紙を奪い取った。


 佐倉が手紙を奪い取り、その文面をなぞるように読み上げる。


「……『中』にいる? ……まさか」


 彼女の掠れた声が静まり返ったリビングに不気味に響いた。


 佐倉は母親が残していったお土産の包みに手をかけた。


 丁寧な包装紙を乱暴に引き裂き、中身をテーブルの上にぶちまける。


 バラバラと音を立てて転がり出たのは菓子折りでも、思い出の品でもなかった。


 それはベロア地の小さな安っぽい箱だった。


 蓋が開くと、中から二つの指輪が顔を出した。


 大学を卒業し、俺が初めての給料で買ったブランド物でも何でもない、どこにでもあるようなシルバーのペアリング。


 あの日彼女は「世界で一番高い宝石より嬉しい」と泣いて喜んでくれた、あの安物だ。


 「……あ」


 視界が急激に歪んだ。


 手紙に書かれていた『あなたの中にいる』という言葉の意味が、呪いのように脳髄に突き刺さる。


 彼女は自分が消えてもなお、この安っぽい銀の輪で俺を繋ぎ止めようとしている。


 物理的な鎖ではなく、消えない良心の呵責と汚してしまった純愛という名の監禁。


 「……う、ああ……っ!」


 俺は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。


 フローリングの冷たさが頬に伝わるが、それ以上に心臓が握りつぶされるような痛みにのたうち回る。


 地面に伏し、畳んだ腕の中に顔を埋めて俺は子供のように嗚咽を漏らした。


 「……先生? どうしたんですか、そんなところで這いつくばって」


 佐倉の冷ややかな声が降ってくる。


 彼女は指輪の一つを指にかけ、玩具でも見るような目で眺めていた。


 「こんな安物、捨てちゃえばいいのに。……死んだ女の幸せなんて、今の先生には毒でしかないんですよ」


 「……いいえ、佐倉さん。捨てさせはしません」


 綾目先生が静かに、けれど有無を言わさぬ足取りで歩み寄ってきた。


 彼女はもう一つの指輪を拾い上げると、地面に伏せる俺の頭を慈しむように撫でた。


 「先生……これ、はめてあげましょうか。……彼女が望んだ通り、永遠に逃げられないように」


 俺の耳元で彼女たちの呼吸が重なる。


 一人は俺を支配しようとし、一人は俺を解体しようとし、そして死んだ彼女は俺の魂をその指輪の中に閉じ込めようとしている。


 床に這いつくばる俺の視界には家具の隙間に溜まった埃と彼女の足跡の残像だけが見えていた。


 床に伏し、震える俺の指を佐倉が乱暴に掴み上げた。


 抵抗する力すら残っていない俺の薬指にあの冷たい銀の輪がねじ込まれる。


 金属が皮膚を擦る感触が取り返しのつかない罪の重さを象徴していた。


 「……はい、よくできました。これで先生は死んだ彼女と、私と、佐倉さん……三人の女の囚人ですね」


 満足げに俺の指に嵌まった指輪の上から自分の手を重ねて強く握りしめた。


 その瞳には勝利の愉悦と狂気が混濁している。


 「さあ、先生。……いつまでも汚い床にいないで。……もっと相応しい場所へ行きましょう?」


 佐倉と静かに微笑む綾目先生。


 二人に左右から腕を抱えられ、俺の身体はズルズルと引きずられていく。


 向かう先はあの夜から一度も開けることのできなかった、突き当たりの扉。


 彼女が最期まで過ごしていたあの部屋だ。


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