錯覚
数週間の有給と心身の不調を理由にした無理な休みを終え、俺は再び黒い門をくぐった。
あれほどまでに狂気に満ちた夜を過ごしたというのに、校舎をなでる風は驚くほど優しく、そして無関心だった。
職員室の重い扉を開ける。
冷たい視線の針を覚悟していた俺を待っていたのは、拍子抜けするほど普通の朝だった。
「あ、先生。体調もう大丈夫なんですか?」
「無理しないでくださいね、代講の手配もなんとかなってましたから」
同僚たちは体調不良で休んでいたいち教師を気遣うだけの、定型文のような言葉を投げてくる。
彼女が死んだことも、俺が殺人未遂の加害者になりかけたことも、この清潔な学び舎には欠片も漏れ出していない。
すべては佐倉という少女の掌の上で完璧に隠蔽されていた。
そして。
「……おはようございます、先生」
デスクに向かおうとした俺の背中に聞き慣れた声が届いた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
ゆっくりと振り返るとそこには綾目先生がいた。
彼女はいつも通りの隙のないシャツに身を包んでいた。
切り刻まれたはずの髪は巧みに整えられたショートカットに変わっている。
その首元にはもうあの跡を隠すための襟もない。
ただ白く滑らかな肌が何事もなかったかのように露出している。
「……おはよう、綾目先生。……元気そうで、よかった」
「ええ。少し心機一転したくて。……髪、ちょっと切りすぎの気もしましたけど」
彼女は可憐に微笑んだ。
その瞳にはあの部室で俺に首を絞められながら浮かべていた狂気の笑みも、絶望も、もう一滴も残っていない。
まるであの日々は悪い夢で目覚めた瞬間にすべてを忘れてしまったかのようだ。
「先生もお顔の色が良くなって安心しました。……また、よろしくお願いしますね」
彼女は軽く会釈をして自分の席へと戻っていった。
俺の指先にはまだ彼女の首を絞めた時の、あの熱い拍動の感触がこびりついているというのに。
彼女は俺という存在さえも自分の過去から切除してしまったのだろうか。
職員室に響くパソコンの打鍵音と教師たちの談笑。
昨日まで誰かが死ぬほど苦しんでいた場所の一部だとは到底思えない。
「……先生。何見惚れてるんですか?」
背後から低く湿った声がした。
振り返るまでもない。
佐倉が出席簿を胸に抱えて立っていた。
彼女の眼は相変わらず真っ赤に充血したままで俺を逃さないための鎖のように輝いている。
「……学校は平和でいいですね」
佐倉は俺の耳元で周りには聞こえない掠れ声で囁いた。
その瞬間、俺はこの普通がどれほど歪な静寂の上に成り立っているのかを痛いほど思い知らされた。
───
オレンジ色の西日が埃の舞う旧校舎の廊下を長く引き伸ばしていた。
「お話があります」
そう告げた綾目先生の顔にはかつての縋るような脆弱さは微塵もなかった。
俺は震える足を押さえつけながら、あの部室の扉を再び開けた。
室内はあの日散らばっていた髪の毛一つ残っておらず、清掃が行き届いていた。
窓際に立つ綾目先生は逆光の中で神々しいほどに端正なシルエットを浮かび上がらせている。
「……何の、話だ」
「先生。そんなに怯えないでください。……私はただ、お返ししたいものがあっただけですから」
彼女はゆっくりと歩み寄り、デスクの上にチャラリと金属音を立てて『それ』を置いた。
夕陽を反射して鈍く光る、銀色の鍵。
「……俺の家の、合鍵……? どうして、」
「あの日、旅館で先生が眠っている間に。……少しお借りして複製しておいたんです。いつか先生を驚かせようと思って。……でも、まさかあんな形で役に立つなんて思いませんでした」
彼女は俺の頬を指先でなぞった。
その手触りはかつての執着に満ちた熱ではなく、死体のように冷え切っている。
「先生……彼女さんが飛び降りた夜のこと、私知っていますよ。……だって、あの時私は先生の家の玄関の前にいたんですから。……中から聞こえる先生の楽しそうな、悲しそうな笑い声をずっと聞いていたんです」
俺の血の気が一気に引いていく。
彼女はすべてを見ていたのだ。
俺が彼女の首を絞めたあの日、その後の密会、そして……彼女が飛び降りたその瞬間の空気さえも。
「佐倉さんは先生を脅して所有しているつもりでしょうけれど。……彼女は詰めが甘い。……先生の人生を本当に終わらせる権利を持っているのはあの日、先生に殺されかけた私だけです」
彼女は合鍵を指先で弄び、それを再び自分のポケットへと仕舞い込んだ。
その動作は俺の生活の全てをいつでも侵食できるという、絶対的な支配の宣言だった。
「先生の彼女さんがどんな顔をして窓の外へ消えていったか。……その記憶を私と一緒に分かち合いましょう? ……佐倉さんには内緒で。……これからは私が先生の『本当の飼い主』です」
彼女は聖母のような慈愛に満ちた表情で俺の耳元に唇を寄せた。
「……先生。またお家にお邪魔してもいいですよね?」
その微笑みは佐倉の暴力的な独占欲よりも遥かに深く、暗い闇を孕んでいた。
重い足取りで玄関の鍵を開け、一歩中へ踏み出した。
消しているはずの明かりがリビングの奥から微かに漏れている。
それと同時に鼻腔をくすぐったのは、出汁の効いた優しい和食の匂いだった。
「……ただいま」
無意識にその言葉が溢れた。
リビングへ向かうとエプロン姿の女性が背を向けてキッチンに立っていた。
トントントン、と軽快にまな板を叩く音。
湯気の向こうで揺れる、短くなった髪の毛。
「あ、おかえりなさい。あなた」
振り返り、穏やかに微笑むその姿に俺の心臓は激しく波打った。
今の彼女は髪が短いが、以前のあの柔らかく長い髪を纏っていた頃の立ち姿は亡くなった彼女と驚くほど似通っていた。
暗い照明と温かな料理の匂いが俺の理性を狂わせる。
「……あ、ああ。……今、帰ったよ」
俺はまるで彼女がそこに生きているかのような錯覚に陥り、吸い寄せられるように歩み寄った。
彼女が死んでから、この家には冷気しか流れていなかったはずなのに。
ここにあるのはあの日々と同じ安らぎに満ちた「日常」の風景だ。
「今日はあなたの好きな煮物にしました。……お疲れでしょう? 先に着替えてきてください」
彼女の声。
少し低めで落ち着いていて、どこか甘やかしてくれるような響き。
俺は一瞬、すべてが悪い夢だったのではないかと思いそうになった。
彼女は死んでなどいない。
窓から飛び降りたのも、佐倉に脅されているのも、部室での惨劇も全部。
だが彼女が差し出した皿を受け取ろうとした瞬間、俺の指先が彼女の肌に触れた。
……冷たい。
それは生きている人間の温もりではなく、どこか執念じみた底冷えのする冷たさだった。
ハッと顔を上げると、そこには彼女ではなく綾目先生のすべてを見透かしたような昏い瞳があった。
「……どうしたんですか? ……そんなに私のこと『彼女』だと思いたかった?」
綾目先生は俺の手を逃さないように固く握りしめた。
その微笑みは優しさを模倣した刃だった。
「いいですよ、先生。……今夜だけは私があなたの『彼女』になってあげます。……髪を切ったのも、実は昔の彼女に似せるためだったって言ったら……先生、もっと私を愛してくれますか?」
彼女は俺の家の合鍵をカウンターに置き、ゆっくりと俺の首筋に手を回した。
リビングに漂う料理の匂いが急に腐敗したような嫌な臭いに感じられた。
目の前にいるのは愛した女の残像を纏った、復讐の権化だった。




