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13/14

懐古との邂逅

 救急車の赤色灯。


 深夜の冷たいアスファルト。


 その後の事情聴などの事をどうやってこなしたのかは全く覚えていない。


 意識の断片が真っ黒なインクをこぼしたように塗り潰されている。


 数日後。


 俺は誰もいない放課後の教室にいた。


 窓から差し込む夕陽が、机の上に長い影を落としている。


 あの日と同じ平和で残酷な光景。


 「先生、お疲れ様です」


 背後でドアが閉まる音がした。


 佐倉だ。


 彼女は大切な人を失った教師を労わる教え子のような、完璧な「いたわり」の表情で俺の隣に座った。


 「彼女さんのこと、本当に残念でしたね。……でも、これでやっと先生を邪魔するものは誰もいなくなりました」


 「……お前が、彼女をあそこまで追い詰めたんだ」


 俺の声は自分でも驚くほど枯れ果てていた。


 佐倉はくすくすと、鈴の鳴るような声で笑った。


 「いいえ。追い詰めたのは先生と、綾目先生ですよ。……私はただ、真実を見せてあげただけ。……彼女、最後に満足したんじゃないですか? 先生の心に綾目先生よりも深い傷を残せたんですから」


 佐倉はカバンから一冊の古びた手帳を取り出した。


 それは彼女の筆跡で書かれた日記だった。


 「先生、もう逃げられませんね。……警察には、彼女は『世界に絶望して飛び降りた』と処理されました。でも、もしこの日記の内容が世に出たらどうなるでしょう?」


 佐倉がページを捲り、俺の目の前に突きつける。


 そこには彼女が最後の数日、俺に対して抱いていた憎悪と俺が綾目先生の首を絞めたあの瞬間の詳細な「告白」が狂気じみた筆致で記されていた。


 「これと、私があの日撮った写真。……それから、昨夜の録音。……これらをどう扱うかは私次第です。……先生、わかってますよね?」


 佐倉は俺の首筋に冷たい指先を這わせた。


 それは綾目先生の愛撫とも、彼女の拒絶とも違う。獲物を完全に仕留めた捕食者の感触。


 「新しい『首輪』、用意しておきました。……先生?これから毎日放課後はこの教室で私を待っていてください。……私が飽きるまで先生の全てを私に捧げてください。……学校でも、家でも、心の中でも。……いいですね?」


 俺には拒む権利も、叫ぶ力も残されていなかった。


 彼女は消え、綾目先生は壊れ、俺はこの少女が作り上げた檻の中で生かされる。


 窓の外でカラスが鳴いた。


 それは俺という人間の尊厳が完全に死に絶えたことを祝う弔鐘のように聞こえた。


───


 早速佐倉からの呼び出しを無視し、俺はあてどなく電車を乗り継いだ。


 逃げ切れないことは分かっている。


 けれど、今の俺には彼女の温もりがまだ残っている場所を、一つひとつ確認して回る儀式が必要だった。


 最初に辿り着いたのは付き合って一周年を祝った、海沿いの水族館だった。


 平日の夕方、館内は静まり返り、青白い照明が洞窟のような通路を照らしている。


 巨大な円柱水槽の前。


 俺は立ち止まり、深い青の中に揺れる魚たちの影を見つめた。


 「……ここ、綺麗だねって、笑ってたな」


 独り言が冷たいガラスに反射して自分に返ってくる。


 あの日彼女はこの水槽の前で俺の腕に無邪気に抱きついてきた。


『ねえ、私たちもあの魚みたいにずっと一緒に泳いでいようね』


 そう言って笑った彼女の瞳には、確かに未来が映っていた。


 俺は彼女が立っていた場所にそっと自分の足を重ねてみる。


 足裏から伝わってくるのは床の無機質な冷たさだけだ。


 彼女がいたという証拠はこの空間のどこにも残っていない。


 ふと、水槽のガラスに映る自分の姿を見た。


 そこには愛した女を死に追いやり、教え子の傀儡となり果てた薄汚い男が映っている。


 その時背後の暗闇からカツン、と靴の音が響いた。


 聞き覚えのある、軽快でいてどこか底の知れない足音。


 「先生、水族館なんて意外とロマンチックなところに来るんですね」


 振り返らなくても分かる。


 佐倉だ。


 彼女は俺の逃避行を、最初から面白がって眺めていたのだろう。


 彼女は俺の隣に並び、一緒に水槽を見上げた。


 「……彼女さんとここで何を話したんですか? 『一生一緒』とか、そんなありふれた呪いですか?」


 「……黙れ。君には関係ないことだ」


 「関係ありますよ。だって、先生の記憶はもう全部私のものなんですから」


 佐倉はガラスに指先を触れ、魚の群れを追いかける。


 その無邪気な仕草がかつての彼女と重なり、俺の心臓を不快に締め付ける。


 「あ、見てください、先生。……あの底の方でじっとしている魚。……まるで今の先生みたい。……逃げる場所なんてどこにもないのに、ただ死んだふりをしてやり過ごそうとしてる」


 佐倉はクスクスと笑い、俺のポケットに自分の手を突っ込んだ。


 指先が俺の太ももに触れる。


 公共の場であることも、ここが彼女との聖域であることも彼女には何の意味も持たなかった。


 「……次はどこへ行くんですか? 思い出巡りのツアーはまだ終わってないんでしょ? ……案内してくださいよ。……先生がどうやって彼女を裏切ってきたのか。その軌跡を全部教えてください」


 青い光に照らされた佐倉の横顔は恐ろしいほど美しく、そして空虚だった。


 俺は彼女の影を追うことさえ許されない。


 俺が踏み出す足跡はすべて佐倉によって塗り替えられ、汚されていくのだ。


 電車に揺られ、かつて通った通学路を歩く。


 辿り着いたのは色褪せた看板を掲げる郊外のオシャレなファミレスだった。


 高校時代、背伸びをして入ったこの場所は俺たちにとって世界で一番自由な聖域だった。


 窓際のいつもの席。


 彼女はよく試験勉強の合間にいたずらっぽく笑って、ドリンクバーへ向かったものだ。


 『……見て見て!特製虹色ジュース。飲んだら一生の運勢が良くなるよ!』


 メロンソーダとコーラとオレンジが混ざり合った、どす黒い琥珀色の液体。


 それを二人で回し飲みして、「まずい!」と笑い転げた、あの安っぽくて輝かしい時間。


 あの時の俺たちは世界がこんなに容易く壊れるなんて、これっぽっちも思っていなかった。


 「先生。何をそんなに遠い目をしてるんですか?」


 向かい側に当然のように佐倉が座った。


 彼女は席に着くやいなや立ち上がり、慣れた足取りでドリンクバーへと向かった。


 数分後、彼女の手にはプラスチックのコップに注がれた「それ」があった。


 「はい、どうぞ。先生へのプレゼントです」


 テーブルに置かれたのは、かつて彼女が作っていたものと全く同じ色の液体だった。


 泡立ち、淀み、不気味な光沢を放っている。


 「……どうして、これを作った」


 「わかりますよ。先生が今、何を思い出しているかくらい。……ドリンクバーをめちゃくちゃに混ぜて、子供みたいに遊んでたんでしょ? ……彼女の代わりに私が作ってあげました」


 佐倉は俺の反応を楽しむように顎を突いて覗き込んできた。


 「ほら、飲んでください。……先生の思い出の味、ですよね?」


 俺は震える手でそのコップを掴んだ。


 拒めば彼女はまた、あの夜の音声や日記を持ち出すだろう。


 俺は泥のような液体を口に含んだ。


 舌の上で炭酸の刺激と、複数のシロップの甘みが最悪の形で衝突する。


 喉を通るたびに胸の奥が焼けるような不快感に襲われた。


 「……彼女のよりまずいな。出直してこい」


 「ふふ、正直ですね。……そうですよ、まずいに決まってます。……過去なんて混ぜてしまえばただのゴミ。……こんなものをいつまでも大切そうに抱えてるなんて、先生本当に病気ですよ」


 佐倉は自分のストローでその泥濁の液体を一口啜った。


 そして眉一つ動かさずに俺の目を見つめる。


 「まずい思い出は私が全部飲み干してあげます。……だから先生は新しくてもっと刺激的な味を……私と一緒に覚えるしかないんですよ」


 冷たいエアコンの風が店内に流れる。


 かつての笑い声はもうどこにも聞こえない。


 喉の奥に残る苦みが彼女のいなくなった現実を嫌というほど強調していた。


 ファミレスを後にし、海沿いの国道を歩く。


 潮風が口の中に残っていたあの不快な甘みをゆっくりと削ぎ落としていった。


 辿り着いたのは潮風にさらされて錆びついた小さな木造のバス停だ。


 高校の卒業式の夜。


 街灯の下で震える肩を抱き寄せ、初めて彼女の唇に触れた場所。


 あの時、俺たちの世界には潮騒と互いの心音しかなかった。


 「……ここですか。先生のはじめての聖地」


 佐倉がバス停のベンチに腰を下ろして言った。


 彼女はスカートを整えると、おもむろにカバンから一台のスマホを取り出した。


 見覚えのある淡いピンク色のカバー。


 死んだ彼女が肌身離さず持っていたものだ。


「なんで、それを」


 「先生、これ見てください。……彼女、ずっと先生のGPSを見てたんですよ」


 佐倉が画面をこちらに向ける。


 地図アプリの上には俺が動いた軌跡が真っ赤な線となって、執念深く血を流した跡のように刻まれていた。


 学校、旅館、そしてあの夜の自宅。


 「見てくださいよ、この真っ赤な移動履歴。……怖くないですか? 先生が浮気してる間も、彼女はこうして画面越しに先生の裏切りを一歩一歩追いかけてたんです。……もう愛なんて綺麗なものじゃない。ただの呪いですよ」


 佐倉は勝利を確信したような笑みを浮かべた。


 だが、俺はその画面を見つめながら静かに、しかしはっきりと口を開いた。


 「……いや。それは呪いじゃない」


 「え?」


 「やっぱり愛だよ。……裏切られていると分かっていても、それでも今どこにいて、生きているのかを確かめずにはいられない。……それは、彼女が最後まで諦めなかった、祈りの跡だ」


 俺は佐倉の瞳を真っ直ぐに見据えた。


 彼女の唇が反論のために僅かに動く。


 だが、俺はその言葉を遮った。


 「君には分からないよ、……佐倉。君には心が足りないからね」


 「……何、それ」


 佐倉の笑顔が一瞬で凍りついた。


 完璧だった少女の仮面に小さな、けれど決定的な亀裂が入る。


 「君はチェスを打つように人の心を動かして、それを楽しんでいるだけだ。……でも、彼女が抱えていたのはそんな論理的な快感じゃない。……身を焦がすような、不格好で痛々しい本物の感情だ。……心が欠けている君には、一生理解できない領域なんだよ。だから現代文で雪乃宮に負けるんだ」


 佐倉は不機嫌そうに目を細め、スマホを乱暴にカバンへ突っ込んだ。


 彼女の指先が怒りで微かに震えているのが分かった。


 「……先生。随分と余裕ですね。……そんなに彼女の愛を美化して、自分を慰めたいんですか?」


 「慰めじゃない。……ただの、事実だよ」


 潮風が俺たちの間を冷たく吹き抜ける。


 佐倉は鼻を鳴らし、顔を背けて海を見つめた。


 その横顔には初めて「自分の知らない感情」を突きつけられた苛立ちが影となって落ちていた。


 潮騒のバス停を後にし、夕闇に沈む遊園地へと向かった。


 閉園間際の静まり返った園内で、巨大な観覧車だけが色彩を失った光を放ちながらゆっくりと回転している。


 学生としての最後の日、彼女と乗ったあのゴンドラ。


「大人になっても、また一緒に乗ろうね」と、小指を絡めた場所だ。


 佐倉は一言も発さず、俺の数歩前を硬い足取りで歩いていく。


 無機質な機械音と共にゴンドラの扉が閉まった。


 狭い空間に俺と佐倉の二人だけが閉じ込められる。


 上昇するにつれ地上の灯りが遠ざかり、闇が深まっていく。


 佐倉は窓の外を睨んだまま唇を噛み締めていた。


 彼女がこれほどまでに感情を剥き出しにするのは初めてのことかもしれない。


 頂上が近づき、ゴンドラが微かに揺れた。


 「……ねえ、先生」


 佐倉が弾かれたようにこちらを向いた。


 その瞳には怒りと、それ以上に言葉にできない焦燥が滲んでいる。


 「私に心がないと ……そんなこと、どうして言い切れるんですか?」


 「佐倉、俺は……」


 「黙って」


 彼女は俺の言葉を遮り、狭い座席の間を詰めてきた。


 そして強引に俺の胸にその身体を押し当て、両腕で俺の背中を固く抱きしめた。


 「……心がないって言うなら、今すぐ私の心臓の音、確かめてみてくださいよ」


 彼女の顔が俺の耳元にある。


 そこから漏れる吐息は、驚くほど熱かった。


 「ほら、聴こえるでしょ? ……壊れそうなくらい速い音が。……これが私の心じゃないなら、一体何なんですか? ……これのどこが、欠落してるって言うんですか……!」


 俺の手を強引に引き寄せ、彼女は自分の左胸の上にそれを押し付けた。


 薄い制服越しに伝わってくる、激しい鼓動。


 ドク、ドク、ドク、と規則を失い、悲鳴を上げるように打ち鳴らされる生身の証。


 「……ただの生理現象だよ。君が俺を屈服させようと躍起になっているだけの、興奮だ」


 俺は冷徹な声を意識した。


 「嘘つき。……先生、指が震えてますよ。……私の心臓の音が先生の『綺麗な思い出』を汚していくのが怖いんでしょ? ……彼女の記憶を、私のこの熱で焼き尽くしてあげます」


 佐倉は顔を上げ、俺を睨みつけるように見つめた。


 その瞳は涙を溜めているようにも、獲物を狙う獣のようにも見えた。


 「心なんて、なくていい。……でもこの音だけは本物です。……先生、認めてください。……今先生を揺さぶっているのは、死んだ彼女の亡霊じゃなくて……ここにいる私の鼓動だって」


 観覧車が頂点に達し、一瞬時間が止まったような静寂が訪れた。


 夜景の光が彼女の歪な微笑みを残酷に照らし出していた。


 ゴンドラが地上に戻り、扉が開いた瞬間のことだった。


 出口の先、薄暗い街灯の下にあるベンチ。


 そこに見間違えるはずのない後ろ姿が座っていた。


 彼女がよく着ていた淡いベージュのコート。


 少し左に流れた、柔らかな髪の癖。


 彼女だ。


 死んだはずの彼女がそこで俺を待っている。


 「……あ」


 喉の奥から乾いた悲鳴が漏れた。


 心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打ち、視界が急激に狭まる。


 俺は佐倉を振り切るようにして、逃げるように園外へと走り出した。


 「先生! 待って……!」


 佐倉の呼び声を背に大通りで強引にタクシーを止めた。


「どこでもいい、遠くへ」と震える声で告げると、初老のドライバーはバックミラー越しに露骨に不機嫌そうな視線を俺に投げた。


 身なりの乱れた男とそれを追ってきた少女。


 その異様な空気にドライバーは舌打ちを一つしてアクセルを踏んだ。


 数十分後。


「もう、この辺でいいです」


 不機嫌な沈黙に耐えかねて、俺は適当な交差点で車を降りた。


 そこは住宅街の端にある街灯もまばらな静かな通りだった。


 ふと横を見ると、古びたレンガ造りの建物に控えめな看板が掲げられていた。


 『喫茶ハルキ』


 吸い寄せられるように俺は重い木製のドアを押し開けた。


 カランコロン、と乾いた鐘の音が響く。


 閉店間際の時間なのか、客の姿は一人もない。


 カウンターの奥には俺と同じか、あるいは少し年上だろうか。落ち着いた雰囲気の女性店員が一人、カップを拭いていた。


 彼女は俺の酷い顔を見ても動じることなく静かに会釈をした。


 「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」


 俺は入り口から一番遠い、隅のボックス席に身を沈めた。


 少し遅れて佐倉が静かに隣の席に座る。


 彼女の肩はまだ走った後の余韻で僅かに上下していた。


 「……カフェラテを、二つ」


 俺が絞り出すように注文すると、店員は「かしこまりました」とだけ告げ、奥へと下がっていった。


 店内に流れるのは微かなジャズの旋律。


 客がいないからか、手挽きのミルでコーヒー豆を挽く音が張り詰めていた俺の神経をゆっくりと解きほぐしていく。


 佐倉は何も言わず、ただじっと俺の横顔を見つめていた。


 首の跡がこの静寂の中で再び熱を持ち始めている。


 やがて二つの白いカップがテーブルに運ばれてきた。


 きめ細やかなミルクの泡が照明を反射して柔らかく光っている。


 「……お待たせいたしました。ごゆっくり」


 店員が去った後、向かいの誰もいないはずの空席の前にもう一つのカップをそっと置いた。


 「……先生。それ、誰の分ですか?」


 佐倉の声が低く響く。


 俺は答えなかった。


 温かい湯気の向こうに、さっき見かけた彼女の幻影がまだ揺れているような気がした。


 湯気を立てる二つのカップ。


 その一つに佐倉が指を伸ばそうとした。


 「それ、飲んでいいですか?」


 「……駄目だ」


「ケチ」


 俺の拒絶は自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。


 佐倉は不満げに眉を寄せたが、すぐに唇を歪めて手を引っ込める。


 そしてカウンターにいる店員の方へ顔を向けた。


 「すみません。カフェラテをもう一つお願いします」


 二人しかいないテーブルに三つ目の注文。


 店員さんが怪訝そうにこちらを見た。


 その視線に「おかしい」と踏み込まれる前に、佐倉は先手を打つように口を開く。


 「……あ。つかぬ事をお聞きしますが、店員さんの名前ってハルキなんですか? お店の名前にハルキってあるので」


 店員さんは注文をメモしながら小さく首を振った。


 その微笑みには客に対する丁寧さと、どこか達観したような静けさが同居している。


 「いいえ。私は遥と申します。ハルキは前任のオーナーの名前なんです」


 遥さんはそれ以上語らず、手際よく三つ目のカフェラテを淹れ始めた。


 ミルクを泡立てるシュシュッという音が沈黙を埋めていく。


 やがて新しいカップが運ばれてきた。


 遥さんはそれを佐倉の前に置くと、意外な提案を口にした。


 「閉店まで少し時間がありますし、他にお客さんもいらっしゃらないようですから。……私も少しお邪魔させていただいてもよろしいかしら?」


 「えっ」


 佐倉が絶句した。


 いつも主導権を握り、他人を自分の盤上で踊らせる彼女が予想外の侵入者を前にして珍しく気圧されている。


 「お二人、とても危うい空気を纏っていらしたので。……お節介かもしれませんけれど、三つ目の席は私が埋めても構わないでしょうか?」


 遥さんは俺が『彼女』のために空けていた三つ目の席に滑るように腰を下ろした。


 佐倉が「ここは……」と言いかけるが、遥さんの穏やかでいて拒絶を許さない視線に言葉を飲み込む。


 「遥さん。この人、亡くなった恋人のためにラテを頼むような可哀想な人なんですよ」


 佐倉が毒を吐く。


 形勢を立て直そうとする必死な攻撃だ。


 だが遥さんはその毒をさらりと受け流し、俺の前に置かれた「彼女の分」のカップを慈しむように見つめた。


 「素敵なことじゃないですか。……亡くなった方はそうやって思い出してもらえることで、ようやくその場所に『居場所』を持てるのだから」


 遥さんの視線が俺の首元の跡を一瞬だけ、けれど深く捉えた。


 まるでそこに刻まれた罪の深さも、愛の歪さもすべて見透かしているかのような眼差しだった。


「私も大事な人を失いましたから、あなたの気持ちを少しは理解できるつもりです」


 佐倉の顔から余裕が消えていく。


 俺たちの歪な関係の中に全く異質な、けれど圧倒的に「正しい」大人の空気が入り込み、世界が少しずつ変質していくのを感じた。


 三つ目のカップから立ち上る湯気が俺たちの間に境界線を描く。


「あの、差し支えなければそのお話をお聞かせいただけませんか?」


 遥さんは俺の問いかけを拒むことなく、遠くを見るような瞳で語り始めた。


 その声は静かな夜の海のように深く、穏やかだった。


 「……もう何年か経ちますけれど、忘れたことは一度もありません。……彼は、他の女性と心中を図ったんです」


 佐倉が息を呑むのが分かった。


 俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


 それは俺が辿ろうとして、辿り着けなかった終わりの形だった。


 「……彼は亡くなりました。私より何個か歳は下で。一緒にいた女性だけは生き残った。……数年後、私はその方と再会したんです。でも、彼女もその後すぐに亡くなってしまった。……だから、実質的には二人で向こうへ行ってしまったようなものですね」


 遥さんは自嘲気味に微笑み、自分の手のひらを見つめた。


 そこには過去を悔やむ人の乾いた寂しさが滲んでいる。


 「再会した時、彼女は彼との日々を『創作』にしていたんです。美しい物語として、まるであることなかったことを上書きして。……それを見た時、私カッとなってしまって。……彼女に、コーヒーをかけてしまったんです」


 「コーヒーを……?」


 「ええ。醜い嫉妬です。……でも、今振り返るともっと別のいい言葉をかけられたんじゃないかって……そればかり思うんです。……どんなに歪んでいても、彼女も彼を愛していたはずなのに」


 遥さんの言葉は俺の胸の奥に熱いコーヒーを浴びせられたような鋭い痛みをもたらした。


 俺が綾目先生の首に手をかけたこと。


 彼女が窓の外へ消えていったこと。


 それらを愛だと呼び、正当化しようとしていた俺の傲慢さが遥さんの後悔によって暴かれていく。


 「……先生。もう行きましょう」


 佐倉が耐えきれないといった様子で俺の袖を引いた。


 彼女の顔は蒼白で、いつも他人を操るために使っていた余裕は遥さんの語る本物の地獄を前にして霧散していた。


 心が欠けている彼女にとって、遥さんの言葉は理解できない恐怖そのものだったのかもしれない。


 俺は立ち上がりざまに遥さんを見た。


 「……いい言葉なんて、きっとどこにもなかったんですよ」


 「……そうでしょうか?」


 「ええ。……俺も彼女に何を言えばよかったのか、今も分からないままです」


 俺は「彼女の分」のカフェラテを一口だけ含んだ。


 もう、すっかり冷めていた。


 けれどその苦味だけは驚くほど鮮明に俺の体内に刻まれた。



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